移ろいと余白 (短編小説) #せりふ三題噺
取引先との打ち合わせを終え、藍香は駅へ戻って来た。
4月とは思えない暑さは夕方も弱まらず、西陽の照りつけるアスファルトに体力がさらに奪われていく。
明日からはゴールデンウィーク。
出張が決まるなり予約した帰りの新幹線が来るまで、1時間以上ある。
ここに来るときは大抵、上司や他部署の人と一緒だった。
取引先との打ち合わせを昼下がり開始で設定し、終了後は皆でお店と車内で飲むのがお決まりだ。
しかし、今日は一人。
この時間からして直帰。
そうだ、あそこへ行ってみよう。
初めてこの駅で降りた日から気になっていた喫茶店で、藍香は出張報告書を作ることにした。
駅中にもかかわらず他とは一線を画すレトロな店構えで、どこか懐かしい雰囲気が漂っている。
お好きな席へと言われ、雑誌や漫画の並ぶ本棚の近くに座った。
父や母からはいつでも帰っておいでと言われているし、上司にもそのまま帰省すれば?と気遣われたが、どうにも気が乗らなかった。
明日からの大型連休に、予定は何一つない。
ただ、一人で気ままに過ごしたい…そんな気分だった。
普段ならコーヒーかカプチーノを注文するが、とにかく今日は暑かったし、さっぱりするものが飲みたい。
メニュー表を開いて目に留まったのは、レモンスカッシュ。
「季節のレモンスカッシュ」というのもあるらしい。
「すみません。
季節のレモンスカッシュって…?」
「レモンスカッシュに、その季節に合うシロップを別添えするものです。
今お出ししているものですと、色も変わりますよ。」
「じゃあ、これにします。」
「かしこまりました。
あ、少々お待ちください。」
店員さんは、キッチンへ何かを確認しに行って戻って来た。
「もしよろしければ飲み比べもできますが、いかがですか?」
「え?」
「暑くなって急遽違うシロップにしましたが、昨日までのものもまだございまして。」
「へぇ。」
「もちろん、お代は1杯分。
小さめのグラス2つに、レモンスカッシュ1杯分を半分ずつ注いでお持ちします。」
「え、よろしいんですか?」
「はい。」
「じゃあ…お願いします。」
「承知いたしました。
少々お待ちくださいませ。」
店員さんが去ってパソコンを開くと、藍香は思わず潤んだ目にハンカチを当てた。
何だろう、久々の感覚だ。
マニュアル的でない対応。
わざわざ、なくてもよい手間をかけてもらえた。
そんなありがたさが、いつになく沁みる。
色々溜まっているんだろうなぁ…お疲れ、自分。
心の中でそう呟いて、キーボードを叩き始めた。
「お待たせいたしました。
黄緑が本日からの、ピンクの方が昨日までのものでございます。」
「ありがとうございます。」
「…ところで、以前この辺りの学校に通っていらっしゃいましたか?」
「いいえ。」
「では、学祭などは…?」
「行ってませんね。」
「そうですか、失礼いたしました。
ごゆっくりどうぞ。」
店員さんは、自分と同じような年頃だろうか。
クラスに一人いるかいないかの、見るからに爽やかでモテそうな感じの男性だ。
この人目当てのお客さんもいるに違いない。
まずは両方のグラスから少しずつ、そのままのレモンスカッシュを口に含む。
キンと冷えた炭酸が、すうっと喉を伝っていく。
暑さとモヤモヤとを取っ払って、身も心もスッキリとさせてくれそうだ。
角に花びらがあしらわれたコースターに、グラスを置く。
ぽたりと落ちた水滴は、何事もなかったかのように消えた。
センスとこだわりの光る、行き届いた素敵なお店だ。
出張報告書を大体書き終え、藍香は片方のグラスに黄緑の、もう片方にはピンクのシロップをゆっくりと注いだ。
白い布に染料が広がっていくように、グラスの中身もじんわりと変わっていった。
2つのレモンスカッシュを交互に舌で転がしながら、藍香は手帳に目を落とす。
気温だけではない。
季節とともに変わっていくものは、たくさんある。
そんなことをゆったり感じる余裕を、最近持てていなかったようだ。
パソコンを鞄へしまい、伝票を手にレジへ行くと、例の爽やかな店員さんが何か言いたげな表情を浮かべている。
「あいか・まいかの、あいかの方だよね?」
双子の妹の舞香とは違う高校へ通っていたから、中学生の頃までの知り合いだろうか。
失礼とは思いつつ、店員さんをじっと見つめる。
どことなく見覚えのある顔立ち、右目の目尻のほくろ…。
「まさき・よしきのまさきくん?!」
「さすが。
双子って、他の双子も見分けられるよね。」
「うん。」
中学校で一度だけ同じグラスになった、双子の片割れ同士。
彼は当時、野球をやっていたから丸刈りだった。
「さっきはごめん。
髪の長かった印象があって、大学で見た人かと思っちゃった。」
「いいのいいの、気にしないで。
でも、びっくりした。」
「まさかだった。
あ、新幹線乗り遅れると大変だ。
じゃっ。」
どうしよう。
これで終わりたくない!と、もう一人の自分が言う。
あらゆる感覚が長い冬眠から覚めたのか、心の声にも敏感になっている。
「うん。
…ここで働いてるの?」
「まぁ、研究の一貫ってとこかな?
俺、博士課程取ってから研究職やってて。
少なくとも、今年度中は研究室かここ、家にいるって生活かな。
連休中の5月4日は、大阪で公開講座だけど。」
「すごい!
公開講座って、誰でも受けられるの?」
「そうそう。
こんな感じの。」
レジの下から出されたフライヤーには、見覚えのある「中野政輝」の文字がある。
「色々ありがとう!
じゃあ!」
こんな気分で新幹線へ飛び乗ったのは、いつぶりだろう。
名古屋止まりの新幹線に揺られながら、藍香は数日後の新大阪行きの新幹線を予約した。
※下記企画へ参加いたします。
