大感謝。
好きなアーティストがよく、メッセージの片隅に「大感謝」と書く。 私はその言葉が好きだ。
書き始めた当時の彼がどんな想いだったのか、当時はまだ実感としてわかっていなかった。けれど今は、私も意識して使うようにしている。「感謝」、そして「大感謝」と。
「本当に自分が人に感謝した瞬間」を、鮮明に覚えている人はどれくらいいるだろうか。 私の場合、それを知ったのは少し遅い方だったと思う。20代の前半、摂食障害を患ったときのことだ。
何も食べられず、痩せ細った体。周囲からは「食べ物の話はタブー」と、腫れ物に触るように扱われていた。そんなとき、親友の二人がランチに誘ってくれたのだ。
ごく当たり前のことのように。
多くの人が面倒ごとを避けて距離を置いていく中で、彼女たちはどこまでも「普通」だった。 「ああ、ありがたいな」 自然とそう思った。体と同じように心も余裕をなくし、自分にも他者にもギスギスしていた私が、久しぶりに取り戻した柔らかな感情だった。
今でも二人の存在には感謝してやまない。そして、今も変わらずそばにいてくれることにも。
そんな経験があるからだろうか。私は自分が、心の底から感謝しているのか、それともただ「言葉としてのありがとう」を口にしているだけなのか、無意識に気づくようになってしまった。
特に子育てが始まってからの「ありがとう」は、その一つひとつを鮮明に覚えている。
育児に追われる私を初めて外食に連れて行ってくれた友達。息子の誕生日を祝ってくれた友達。 離婚してもなお息子を大事にしてくれるパパや、突然現れた大きな息子を気遣ってくれる今のパートナー。 産後うつだった私を支えるため、遠方から何度も駆けつけてくれた母。 シングルで忙しくする私の代わりに、実家のあれこれを引き受けてくれた妹とその家族。 右も左もわからぬままPTA会長になった私を助けてくれたママ友たち。 中学、高校の担任の先生方。息子と遊んでくれる友人や先輩。息子の成長を温かく見守ってくれた会社の社長やスタッフ。
「あの時の、あのこと」が多すぎて、自分がいかに周りに恵まれているかを痛感する。今の私と息子の幸せは、こうした縁のどれひとつが欠けても存在しなかったはずだ。 際どい出会いと、幾多の感謝。その積み重ねの中に、私と息子の「奇跡」は起きたのだと思う。
振り返れば、若さゆえに「誰かに何かをしてもらうこと」を当たり前だと思っていた時期もあった。親だから、友達だから、上司だから当たり前。時にはそれを、うざいとさえ感じたことすらあった。
けれど、子どもを育てることは一人では到底できない。 親は、必然的に「助けて」と言うことを覚えさせられる。
でも、「助けて」と言うことは決して悪いことではないのだ。 息子にも、そのことを知ってほしい。 だとしたら、私自身が「助けて」と言う姿を、そして誰かが手を差し伸べてくれる温かさを、背中で見せていくしかない。
いつか息子も、誰かの「助けて」に自然と手を伸ばせる人になってほしい。 そうして感謝し、感謝されながら生きていってほしい。
結局のところ、私たちがたどり着くのは「ありがとう」と「感謝」という、このシンプルな言葉しかないのだから。
