見出し画像

【てんかんと日本史】 第四話|長崎から来た光

西洋医学が「脳の病気」という言葉をもたらした日

1857年11月、長崎。

奉行所の一室に、12人の日本人医師が集まっていた。

向かいに立ったのは、28歳のオランダ海軍軍医。ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト。彼が最初の講義で選んだテーマは、医学ではなかった。

物理学だった。

それは単なる授業の順番ではない。ポンペには一つの確信があった。自然現象はすべて、観察と実験によって説明できる——そして人体もまた、その例外ではない、と。

この確信が長崎に上陸した瞬間、「物の怪」と「業」と「癇の虫」によって千年かけて築かれてきた説明体系が、静かに、しかし決定的に揺らぎ始めた。

『解体新書』から始まった、長い助走

蘭学の流入は、一夜にして起きたわけではない。

1774年、杉田玄白と前野良沢らがオランダ語の解剖書を翻訳した『解体新書』を刊行した。脳が思考と感覚の中枢であることが、日本語で初めて体系的に示された書だ。

解体新書は日本で初めての西洋科学文化の翻訳書だった

しかしこの段階では、神経系の「機能」はまだ伝わっていなかった。臓器の形と位置——解剖学の知識は届いたが、「なぜ脳が発作を起こすのか」という病態生理の理解には、大きな隔たりがあった。

『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)』

次の扉を開いたのは、1793年頃から翻訳が始まった『西説内科撰要』だ。これは日本で初めての本格的な西洋内科学書であり、それまで外科中心だった蘭学が、内科の病理・診断・処方の領域へと踏み込んでいく転換点となった。発作という内科的な症状が、脳の問題として論じられる土台が、ここで初めて整った。

そしてポンペが来た。

「ただ病人があるだけだ」

ポンペが日本にもたらしたものは、医学の知識だけではなかった。

ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト (1829-1908)

5年間の滞在で、彼は61人に卒業証書を授け、1万4500人以上の患者を診察した。その診療には一つの原則があった——貧富の差も、身分の上下も、日本人と西洋人の区別も、いっさいしない、というものだ。

長崎大学医学部の校是となっているポンペの言葉がある。

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである」

「ただ病人があるだけだ」という視点は、てんかんの歴史においても革命的な意味を持つ。

物の怪に憑かれた者、前世の業を背負った者、家の恥——これらのラベルをすべて剥ぎ取り、「脳の病気を持つ患者」として向き合う。その視点は、封建社会の日本には存在しなかった。

1861年9月、長崎港を見下ろす小島郷の丘に、養生所が開院した。124床、手術室4室を備えた、日本初の近代西洋式病院だ。ここで初めて、身分でも家系でも霊的な背景でもなく、症状と病態に基づいた診療が制度として行われるようになった。

脳の中で起きていること——新しい問いの誕生

ポンペの講義で伝えられた生理学・病理学は、てんかんの理解に直接関わるものだった。

神経系とは何か。脳はどのように機能するか。そして脳の機能が乱れたとき、何が起きるか——これらが初めて、科学的な言葉で説明された。

「癇の虫」という概念は、発作という現象の外側を説明しようとしていた。しかし西洋医学の神経生理学は、発作の内側——脳の中で何が起きているのか——を問うた。

この問いの方向の転換が、決定的だった。

同じ時代のヨーロッパでは、てんかんの神経学的理解が急速に進んでいた。1873年、イギリスの神経科医ジョン・ヒューリングズ・ジャクソンが提唱したのは、てんかん発作は「脳の神経組織の過剰な、あるいは無秩序な放電」によって起きるという説だ。これは現代の定義——「大脳ニューロンの過剰な電気的興奮」——とほぼ同じ内容だ。

千年間、「何かが外からやってくる」「自分の内側に原因がある」と説明されてきた発作が、初めて「脳の電気的な現象」として捉えられた。

明治維新と、医学の制度化

1868年、明治維新。新政府は西洋医学を「医学」として採用することを決定した。

1883年には、医師の資格が西洋医学を学んだ者のみに与えられることとなり、漢方医学は禁じられることはなかったが衰退に向かった。ポンペのもとで学んだ松本良順らの尽力もあり、ドイツ医学が日本の医学教育の基盤となっていく。

てんかんに関しては、この時代に二つの変化が同時に起きた。

一つは診断の変化だ。「癇の虫」「物の怪の憑依」という言葉が、「神経系の疾患」「脳の病気」という言葉に置き換えられていった。発作は、霊的な現象でも道徳的な問題でもなく、神経科学的に説明可能な症状として位置づけられるようになった。

もう一つは治療の変化だ。1857年にヨーロッパで臭化カリウムが抗てんかん薬として使われ始め、1912年にはフェノバルビタールが登場した。「発作を薬で抑える」という概念が、初めて現実のものになった。

漢方の釣藤鈎や竜骨が「効くかもしれない」という経験的な治療だったとすれば、これは機序から設計された最初の本当の意味での「治療」だった。

しかし、光は屈折した

医学が変わった。しかし社会は変わらなかった。

むしろ、ある意味では偏見はより複雑になった。「治療できるはずなのに発作が続いている」という状況は、本人の問題として解釈されやすかった。医学的な説明が整うことで、「管理できない」ことへの責任が、当事者により強く帰せられるようになったのだ。

さらに明治以降の近代国家形成の文脈では、「国民の能力」と「身体の管理」が強く結びついていく。てんかんは、軍役・就労・婚姻において制度的な制限を受けるようになった。

科学の言葉は、偏見を消さない。偏見を、より洗練された形に更新することがある。

「物の怪に憑かれている」から「管理が必要な神経疾患を持つ者」へ——ラベルは変わった。しかし「社会から距離を置かれる」という結果は、形を変えて続いた。

長崎という扉が開いたもの

長崎は、鎖国の時代に日本が唯一開いていた窓だった。

その窓から入ってきた最も重要なものの一つは、「人間の苦しみには、神秘的な原因ではなく、観察可能な原因がある」という考え方だった。

発作を起こす人間は、物の怪に憑かれた者でも、業の深い者でも、家の恥でもない。神経系に異常を抱えた、一人の患者だ——という認識は、ポンペから始まった近代医学教育を通じて少しずつ日本に広がっていった。

しかしその光が社会の隅々まで届くには、まだ長い時間が必要だった。そして今も、届ききっていない場所がある。

わたし自身のこと

「脳の電気的異常」という説明を初めて受けたとき、わたしは奇妙な安堵を感じた。

物の怪でも業でも家の問題でもない。脳の中で電気信号が過剰に発火する——それだけのことだ、と。

しかし同時に、その説明が何も解決しないことにも気づいた。神経科学的に正確な言葉を手に入れても、「なぜ言わないのか」「言ったらどうなるか」という問いは、消えなかった。

ポンペが長崎にもたらした光は、「発作は脳の病気だ」という認識だった。それは千年前の闇と比べれば、確かな前進だ。

しかしその光は、社会の偏見という別の壁に当たって、今もまだ屈折し続けている。

医学が進んでも、社会が変わらなければ、説明は解放にならない。

そのことを、わたしは自分の体を通して知っている。


【シリーズ:てんかんと日本史】

第一話:物の怪の正体——平安時代と葵の上
第二話:狐憑きと業——今昔物語と仏教的解釈
第三話:癇の虫と家制度——江戸時代、「隠す文化」が完成するまで
第四話:長崎から来た光——西洋医学が「脳の病気」という言葉をもたらした日
第五話:波よ、届け——現代日本、千年後のわたしたちはどこにいるのか
第六話:大麻、と聞いて——命の重さを再定義する、わたしたちの物語

参考:杉田玄白『解体新書』(1774年)、ポンペ・ファン・メールデルフォールト『日本における五年間』(1868年)、ジョン・ヒューリングズ・ジャクソン「てんかんの神経学的解釈」(1873年)、長崎養生所関連史料、日本てんかん学会史料

いいなと思ったら応援しよう!