助かりあう私たちへー解体される役割の場にむけて (文:有吉玲)
2024年6月9日
はじめに
『ケアと演技』プレイベント「ケアを考える」第一弾として2024年5月9日に行われた、上田市を拠点に、困っている人が一泊500円で泊まれる「やどかりハウス」を運営する、もとしましょうさん、秋山紅葉さんを招いたトークの記録を有吉玲さんが執筆してくださいました。
このプレイベントで、もとしまさん、秋山さんからもらった、いくつかの言葉はキーワードとして、『ケアの演技』の創作過程を併走することとなります。とくに、「自分たちがやっていることは、共感ではなく、応答である」という言葉が印象的でした。わたしが演技を教える時に、「状態ではなく、状況を演じる」という言葉を多用しているのですが、それは、役に「共感」するのではなく、ある状況で起きる諸々に「応答」してみよう、というふうにも言い換えられると思います。「共感」は自身の内側に、矢印が向いているけど、「応答」は、外に向いている。演技を構築する時に、ついつい役や自身の内面に意識が向きがちだけど、あえて、自分の外をみてみる。そうすることで、自分たちが、稽古場で作り上げてきた、閉鎖的なフィクション空間の精度を高めるのではなく、劇場という、観客を含めたくさんのノイズが共存する場で、演技の現在性が一気にあがります。それは、一見、観客を圧倒するようなパフォーマンスではないかもしれません。それでも、演技が持つ「観客への侵入度」は、ぐっと上がります。そうなることで、観客はただの傍観者ではなく、作品の「当事者」として作品を観劇する体験をするかもしれない。ケアも演技も、「応答」するということは、「不確実性に身をひらく」こととも言い換えられるのではないか。「応答」的演技には、そんな可能性があるな、というようなことを思いながら、ケアと演技について、引き続き考えています。(竹中香子)
以下、有吉玲さんの記録です。
助かりあう私たちへー解体される役割の場にむけて
「ケアフォビアなんですよね」
「ケアって時間泥棒っていうか、女性の敵っていうか、私の中の空間を侵食してくる感じがする」
イベントの冒頭で読まれた、竹中さんが試作した台詞の一部である。
2024年5月9日の夜、有楽町のビルに囲まれた一角YAU CENTERで、「ケア」と「演技」の重ねあわせを考える場が設けられた。壇上にいたのは五人。「ハイドロブラスト」の竹中香子さん、太田信吾さん、やどかりハウスプロジェクトを行う「場づくりネット」の、もとしましょうさんと秋山紅葉さん、司会の宮崎晋太郎さんだ。
5月31日から6月1日にかけて上演される『ケアと演技』は、演劇団体「ハイドロブラスト」において竹中さんが企画者となる初の試みである。ここでの「ケア」という語には、パーキンソン病を患っていた竹中さんの父の生活に、亡くなるまで10余年寄り添っていた在宅介護チームの「ケアの技術」が踏まえられている。その後、高齢者介護施設クロスプレイ東松山でのリサーチ滞在を経て、今作の制作は始まった。
さまざまに議論を呼ぶこの「ケア」という語を、ひらいた形で考えてゆくための企画第一弾が「場づくりネット」のお二人を招いた同イベントであった。
記録者である私はアーカイヴの役を担って同席していたが、気がつけば自分のためにメモをとっていたように思う。年間一万件の相談を長年受け続けるなかで見つけ出されたお二人の言葉、またそれに応じる場の人々の言葉の、磁力のためである。ここで語られる「ケアの場」とは、排除社会への強力なカウンターとして制定されているのだった。
本稿の流れは、「やどかりハウス」に代表される「のきした」の取り組みの概要紹介の後、ここで目指される「助かりあう場づくり」の由来や背景について、そして「やどかりハウス」からより広い場としての上田の街に目を移し、最後に会場での対話をキーワードを浮かび上がらせる形で記録するというものだ。イベントの進行と対応させ、画分的というよりも章それぞれがゆるやかに相補する形で記したい。
のきしたの中のやどかりハウス
やどかりハウスは、長野県上田市にある劇場やゲストハウスを運営する「犀の角」と生活相談と伴走支援を行っているNPO「場作りネット」が2020年12月からはじめた取り組みで、犀の角のゲストハウスに1泊500円で泊まることができます。年齢・性別問わず誰でも困った時に訪れ、あるいは困りごとがなくても息抜きとして利用できる、そんな雨風しのげる場です。めんどうな手続きはなく、宿泊に関する連絡はやどかりハウス公式LINEで行うことができます。
上の概要ではさも当たり前のことのように書かれるが、このやどかりハウスにおいては、劇場が困っている人の駆け込み宿へと変わるのだ。そこで準備されるのは利用者に、まずは問題から離れてゆっくり休んでもらう場であり、相談支援は望む人だけがうけることができる。
やどかりハウスをふくむ「のきした」の取り組みが始まったのは、COVID-19の混乱期、劇場や映画館やNPO関係者など様々な人が立場を超えて集まり、閉鎖された劇場のステージ上で話し始めたことが契機だという。日本家屋が出来上がる中で、雨風をしのぐため長く作った屋根が「軒(のき)」となり、その下に縁側が生まれたというエピソードが名前の由来だというこの“のきした”は、雨風をしのぐ「のき」を社会に作る活動だ。「今必要であること」、「面白いこと」をがやがや楽しみながらやってきたのだという。

上の写真は、コロナ禍の上田における、焼き芋の配り歩きパレードの様子である。経緯としては、それ以前に “軒下おふるまい”として劇場ステージに食材をいっぱいに置き無償配布するという取り組みが行われていたところ、行政から集まりが制限され「それならば配り歩こう」という発想のもと催されたという流れだ。上のリアカーは劇場スタッフ手製のものだそうである。
「軒下おふるまい」こそ、この「のきした」の最初のイベントであった。実際に催してみると人の集まりは想定以上で、開始時間になった途端一気に人が入り、一度にかき込んで食べ物をとってゆく。それを目にした劇場や映画のスタッフが口々に、これは良い光景ではない、おかしいと言い募った次回からは、迎える人々が、来場者と話をするようになった。その後は、“みんなでご飯食べる”、振る舞う/振る舞われるという分かれ方ではない場へと変わったのだという。そうしてこの催しは、人々の熱量とともに4、5日間連続で催されたのだが、集いの中において人と人同士の関係も変化していった。その一例が、催しのスタッフとホームレスの中年男性の間のものだ。話によると、初日から来ていたその彼が、日を重ねるごとに様々な苦労話を語り始めてくれたとのだという。「ホームレスのおじさん」から「苦労人のおじさん」、その人の人となりに近づいた見え方へと変わっていくことではじめて、上田に暮らす人同士という形で関係できるようになったのだという。「場づくりネット」の二人が語る場とは、肩書きや立場を超えて、ともに生きる仲間として出会い直す、このような事態が生じる地平のことであった。では、なぜそのような「場づくり」が目指されるにいたったのだろうか。
助かりあう場づくり
竹中さんは続ける。「やどかりハウス」のある上田が好きになったこと、ある日の飲み会でもとしまさんの携帯が鳴り止まず、それが平常なのだと涼しげな二人の様子を見て仰天したこと、上田で困ったらみんなが、もとしまさんに電話をかけるのだということ。
そんなエピソードをうけて、これは先日国会議員用に作成した固いものなのだけど、と、もとしまさんが取り出したスライド群には「「応答」という社会的責任」と題されていた。ここにおける応答とは、支援と区別される。つまり、助かりあう私たちの双発を指す言葉だ。
そこに挿入されていたのは、ペストフの三角形だった。

公助(平等)、共助(友愛)、自助(自由)この間を埋めるのがNPOである。しかし現在、この各三角形が小さいのだと、もとしまさんは話す。年間で一万件の相談対応を受けている場づくりネットの二人は、この三つの助けの外に出てくる人を毎日のように見ているのだった。子供の自殺もうなぎのぼりの中、なかなか構造自体が変わらず悔しいとは、このとき発せられた言葉であった。そんな思いの中でも、毎日のように来る相談者や暴力被害を受けた人々を前に、お二人自身、限界を迎えることがあったという。その突破口として生まれたのが「場づくり」、つまり、助けるのではなく助かるための場、無縁化した人同士が街にとけこみながら出会ってゆく場のための取り組みであった。ここにおいて、相談者/被相談者という支援の一方的な関係は解体され、それは応えあう関係として編み直される。支援をする側/される側ではなく、ともに同じ社会に生きる仲間として助かり合うこと、そしてそれを一対一の関係ではなく地域にとけこんだ「場」として開いてゆくこと。そう実践されるようになってからは、以前よりずっと楽になったのだ、相談を受ける側の立場性が解体されることではじめて目の前の人との間に持つことができる温度があるのだと、秋山さんは話す。これまで、目の前の人と孤立してしまいそうになっていたところが場として開かれ、上田という街と繋がってゆくことで、みんなの課題へと共有されていったのだ。
この「やどかりハウス」の試みにおいてうってつけであった場所が、劇場やカフェ、ゲストハウスとして運営されていた民間施設「犀の角」であった。コロナ禍において休業を余儀なくされていた文化施設が、社会インフラ/セーフティネットへと転じた瞬間である。「犀の角」のこの複数の機能性は元々経営上の必要からであったそうだが、それぞれの場の特性のためにやってきた人同士が偶然場を共有する、出会いの場として最適であった。そしてまた、さまざまな人がさまざまな目的でいる場だからこそ、私たち自身立場性が脱ぎやすいのだと二人は話す。しかしこの点は「相談する人」にとっても、実は違った側面から有効なのだった。「犀の角」には相談室が設けられているが、実はあまり使われないのだという。やどかりハウスに駆け込んできた多くの相談者が、カフェという外部にひらかれた場所で語ることを望むからだそうだ。隣の知らない誰か、「支援者」ではない人に、自分の言葉が届いくことによって、世界と自分が繋がるような感覚であるという。
ここで紹介されたエピソードは、小さい子どもを置いて家を出た母親の例だった。「これは虐待にあたり私たちは通報しなければいけないが、それはあなたにとって望ましいことだろうか」そう尋ねると、その母親は通報してほしいのだと即座に答えたという。あんなに大声で苦しんでいたのに、助けを求めていたのに、誰も通報してくれなかったのだ、と。その日のうちに警察への通報がなされ、精神科への入院が決まった。彼女を見舞った際にもとしまさんが聞いたのは、やどかりハウスが続いてほしいという言葉だった。「死にたいほど辛い人間に選択肢なんて与えたら死んでしまう」「欲しいのは選択肢ではなく、やどかりハウスの存在そのものが救いになる」今も上田にやどかりハウスがあり、いつでもそこへ行くことができるということ、足を運ばずとも、そこで今も変わらず多くの人が集い楽しそうに過ごしていることを想像するだけで、勇気づけられるのだという。この言葉は、「場づくりネット」の二人がやどかりハウスを続けてきた理由の一つだと話された。
ケアが「引き出される」のではなく「耕される」街
マイクが代わり、秋山さんの番となった。ここでは、「場づくり」が上田の街ぐるみであることの内実が語られた。人口十五万人、もとしまさん曰く路傍で煙草を吸う間に顔見知りと何人もすれ違うようなこの上田では、やどかりハウスのほかにも地域ぐるみでの様々な取り組みが催される。たとえば “むすびの日”とは、前述の“のきしたおふるまい”という、コロナ禍にはじまった無料でのご飯会が発展したものである。誰でもその日に集まった人同士の相談で献立が決まり、決まった誰かが居なくても、準備から片付けまで集まった人同士で進めることで成立している会だという。また、「犀の角」から徒歩3分のところにある映画館、上田映劇では「やどかりシネマクラブ」が実施される。家族やジェンダー、子育て、暴力、対話や旅など女性や若者にかかわるテーマの作品を「やどかり選定映画」とし、やどかりハウスの利用者や、学校に行くことが難しい学生などの地元の人々が無料でそれを鑑賞でき、その後に作品を通して対話する場がひらかれる。「のきした仕事事業」とは、下は中学生から上は70代まで、上田のさまざまな場所で仕事体験ができる機会だ。これによって人と街とのつながりや居場所ができ、人々が、劇場から街に発見されてゆく契機になっているという。
このような取り組みについて、はじめ街のケアが「引き出される」という言葉が充てられていた。しかし、この輪の中にいた映画館スタッフの一人から「自分から一方的に引き出されているようで嫌な言葉だ」という声が上がり、現在では街のケアが「耕される」、助かり合うという言い回しに行き着いたのだという。
このエピソードは、記録者にとって印象的に映った。この言葉遣いの違いは「街」が一方的に何かを引き出せるような静的で役割固定的なものではなく、住む人同士の関係の仕方によってどのようにも変化しうる、様々な役割の可能性に満ちた動的な場として想定されていることを象徴的に示していると思われたのだった。
会場の応答
以降は、セッションを人ごと、または質問ごとに区分しながら、キーとなる言葉を記録者が太字で表してゆく。
■宮崎さん(司会)
宮崎さんは、現場での膨大な経験に裏打ちされたお話を聞いた後の観客の態度として、それぞれが各々の距離のもと咀嚼し、いかに自分の中に位置づけなおすのかという問を挙げた。元々大学の劇場職員であった宮崎さんは、現在社会福祉士の資格を勉強している。どんな顔で目の前の人と関係してゆくのか、またそれを決めてしまえば関係の幅が固定化してしまう困難を、劇場において、企画の設えを規定してしまえば、そこにありうる場所と人との関係の可能性が取り逃されてしまうジレンマと重ね合わせた。駆け込んだ人がそれぞれの仕方で休んでゆくことで意味が積み重なり場になってゆくとすれば、毎週企画が変わってゆく劇場がどうそのように固定的な意味に回収されない場たりえるのだろうか。その上で、コミュニティが街に耕されていること、肩書きに帰着しない豊かな関係が築かれ、身体を未規定的な応答関係に開き投げ出すことを可能にする場への希望について語る。「場づくりネット」の二人はそれをうけて、自分たちの活動を表す言葉を今も探しているということ、そのため宮崎さんが自分の中に位置付けなおしながら言葉を返すこと自体助けになると応じていた。
■太田さん(ハイドロブラスト)
太田さんは、国会議員に向けて行われたというプレゼンテーションにおいて、二人が感じられた手応えについて質問を提起した。予算も削減されている中、市民団体としての活動には限界があり、国はどのように対応しているのかという点だ。
この問いに対して、もとしまさんは行政の本質的な立ち位置や制度と個人とのズレ、つまり市民としての応答責任について話すことで応じた。現に困っている人がいるのだと主張することは大切だとしつつ、一方で行政に責任があるという論理自体が排除の構造を成立させているのではないか、という点である。「なぜこの人が苦しまないといけない世界なのか」という問に対して、それを役所頼みとすること自体が、私たちみなが「助かりあう体」になることを阻害しているのではないか、困っている誰かと隣りあったとき、隣人として案じる社会の方が健全ではないか、という問題提起である。このスタンスに至る以前は、制度変更のために役所と喧嘩しまくっていたものの、あるとき諦めたのだと話す。システムはあり続けるのに担当の人間は変わってゆき効果が見込めない現状に対峙した際、上の論理に行き着いたのだという。それはとりも直さず、実際に私たちがどういうふうに生きるか、どういう体を手に入れ直すか、という問いの話なのだ、と。
この背景にある具体的なエピソードとして、つい先週のある事例が挙げられた。DV被害で逃げてきた子連れの母が公的シェルターの制約を望まなかったために、警察官が彼女に怒りまじりの説教を始めたのだという。「制度にその人の気持ちが簡単に合うわけないですよ」もとしまさんは話す。書面上では全県に女性用シェルターが完備されているのに反し実際に受け入れられる人数が非常に限られており、逃げ込める場を必要としている多くの人がそれに辿り着けないこと、「場づくりネット」の二人がこれまで見てきた制度に弾きだされる大勢の人々が、上の言葉の裏にはいたのだ。
■竹中さん(ハイドロブラスト、『ケアと演技』企画者)
竹中さんがまず語ったのは、ケアを望まない人の心情について二人が言及したことへの驚きだった。それは、実父の介護にあたって施設を見学に回った際、施設のケアへのムードが強いほど彼が嫌がっていたという竹中さん自身の体験からだった。また同時に、自分の接し方によって相手の接し方が変わるのだ、という相談に応じる際の二人の言葉が印象的であったという。自分が相手を子供のように接したら、相手も子供の役を演じるような事態である。このうえで、冒頭の「ケア」への抵抗感に対し、「演技」を経由することで感じ方が変わったという。つまりケアを苦手とする理由として、時間を取られたり生活のコントロールがきかなくなったりすることを挙げたが、これは竹中さん自身が演技を好む理由そのものではないかという点である。演技もケアも目の前の相手に自分を開き関係性を変化させてゆく営みであるとすれば、このアンコントローラブルな性質において、演技とケアは通底する。また竹中さんは、演技講師をする上で、受講者が「ただそこにいる」、というエクササイズをなかなかできないという点につなげて語った。つい変な動きをして見せたり、笑ったりしてしまうのだという。そのため、竹中さんは講師として、反応性のよい観客になるのだという。受講者の演技を誰よりもきちんと、ワクワクしながら、感じながら観ることで、人に見られる身体に値しないのではないかという受講者の不安を取り除こうとするのだという。これの効果は、先だっての二人の相談において立場性を取り払った応答の構えと通じている。
■記録者
記録者である自身も、最後に一つだけ伺いたいことがあった。その場作りにおいて、そもそも場に来てもらうための呼びかけの言葉、もしくは振る舞いについてだった。自身の行っている、ガザ・モノローグ会への人への呼び方についてである。パレスチナ侵攻を受けて始めた取り組みで自分なりに声のかけ方や場のしつらえを考えていたため、上のような場を作られているお二人に直接尋ねてみたかった。また「助かり合う」ことの水平性などは、まさに宮崎さんの言及したように、自分に位置付けたとき活動への態度について向けようとしている態度と重なるものであったからだ。二人の今までの応答を聞いていると、楽しい様相を見せたり、苦しさだけでないことをきちんと開いて見せたりすることかと想像しつつ伺ってみる。
もとしまさんは、実際自分たちも楽しんでやっているから、それに人が集まるのかもしれないと答えつつ、企画の具体的なスケール感などの実験と人と人との間に生じる熱について語った。
人を集めるという時、その企画の設えみたいなものが入れる入り方や集まり方を決めてしまうので、時間的なものやサイズ、さまざまなパラメーターをこういじってみることでの変化を見ていくこと。また、知らない人との出会いの中でふと生じる火花のようなものが大切なのではないかという点だ。実際「のきした」が一気に広がったのは、それと無関係ではないのじゃないかと話す。コロナ禍で劇場が使われなくなり、ステージの上で差し向かいで劇場の人たちと話していたとき、普段、相談現場の中で同業者にあまり話せなかったことを共有してみると、むしろ演劇の人の方が言葉が通じる、という出会いや盛り上がりが火花のように生じたのだという。腹を割った対話には、パチンと火がつくようなことが起こりうる。そこから、不思議なことにさまざまな縁が舞い込んできたのだと話す。毎週行っているインスタライブでも、不分明であったものがわっと言葉になって盛り上がったとき、来てくれる人が増える。言葉そのものというより、そこに起きる火のようなものが不思議な伝わり方をしゆくとき、人々それぞれの中で発見されるとき、伝わる場、人が集まってくる場が生まれるのではないか、と。それは私にとって大きく励まされるお話だった。
会場から寄せられた質問
以下は、会場から寄せられた質問である。もとしまさんと秋山さんの答えを、敬語を省略しつつ、当時の口語のニュアンスを残す形でまとめたい。
●相談において、相談に来る人との間に境界線を設けるのか、あるいは設けないのかという質問
もとしまさん:立場性を持ったら危ないし、その場合は境界を引かないといけない。しかし自分は、ある時はただギターを弾いている青年であり、子供と遊んでるおっちゃんであり、飯を食いに来た人であるという、立場性を持たない人である。応答関係の中にいるから、ときに断ることもできる。「この人を支える責任があるんだ」と思った瞬間、応答できない。人が相談に乗ってほしいというとき、それぞれ求めているものは違う。寄りかかりたい、あるいは試したい、いろんなものがある。でもそれが、僕が「相談を受ける人間」であると立った瞬間に、受ける側としてそこにいなきゃいけなくなる。ちょっと危ないし線を引かなきゃいけない。でも俺はギター弾いているので、ちょっとごめん、今嫌だとか、あの人に聞くといいよと言えるから、安全だし、自分が相談を応じる人間として、そこにいなくていいという守り方を、おそらくしている。
秋山さん:ヤドカリハウスに関わるスタッフのような立場にいる人たちの間でコミュニケーションを取っていて、一人で抱えないようにしている。やどかりハウスを始める以前、相談の現場でも、一対一にならず話を必ず複数で聞いて、終わった後に必ず一回、その相手の反応ではなく、その話を聞いた自分の体とか、自分の中では何が起こってたのかとか、なぜ自分からその反応が出てきたかということを振り返る時間を大切に、むしろそれが仕事なくらいの感じでやっているため、やはり孤立しない。また、自分は、もとしまさんのようにふらりとしているのは苦手で、目の前の人の話をずっと聞いているタイプ。そのときは、相手が自分のまだ経験してないこと、それをこの人は経験してるんだ、もしくは、社会の水面下にあったものが出てきただけだ、という風に感じている。それは何なんだろうね、と、一緒に見ていくような感じと、それが言葉になってゆく瞬間に立ち会うことで、やっと生きてられるところがある。だから、それに怖さみたいなものはあまり感じない。また、「犀の角」で演劇をみんなですることがある。みんなで演劇をすると、照明をやったり、もぎりをやったり、いろいろ役割が変わる。
●今の時代に、互助とはどのように可能なのか?台湾地震の際の地域の人同士の互助も思い返した。
もとしまさん:昔はごくごく当たり前に行われていたこと、おかげさま的なつながりがなくなってきている。災害の時に見えるもの、お互いの関係性や応答関係に根ざした、あるコミュニティにいればなんとかなるという安心感を持つことのできるような場が課題になっている。
宮崎さん: 阪神大震災でも、倒壊した建物から助かった人の8割は近所の人に救出されたというデータもある。当時、その現場に臨床心理士が入っていたが、何も専門的なことはできず結局役立ったことは、生活の世話をすることだったという話。そんな時に、場合によって必要なのは専門性じゃなくて、ある種その中に直接関わっていくことであり、距離を縮めてゆくということなのだ、という点もヒントかもしれない。
●助かり合う体に向かってゆくためのヒントとは何か?
もとしまさん:自分たちの体の限界を迎えた時に、その気づきがあった。元々は、社会の荒波の中、みんな溺れかけてたりする中で、誰もが助かる大きな船を作ろうとしていた感じだったけれど、そうじゃなかった。自分たちもその波の中ですごく翻弄されて、いつのまにか助かり合わない、排除したりされたりしている体の自分になっていて。それぞれが、小さい船に乗っている一人だった。船同士を嵐の時に縄でつないで守るのを「もやう」というけれど、もやいながら一緒に波を越えてゆく仲間としてあるようにする。そこに先導する前後がないのは身軽。その瞬間に自分たちが助かる言葉、自分たちを捉える言葉を発見して、元気になってゆく。だから今は、変な言い方だけど、新しい人が逃げてきますと言った時に、俺らには嬉々とした空気がある。新しい出会いがあった時に、自分が入れ替わる感覚、この出会いで、自分たちがまたどうなるんだろう、この人とどう変わるんだろうっていうことに期待できる。変わってゆく関係性の波に乗ってゆくと、助かり合う体が見つかる。あと実は、お金がなくなったことで、楽になった。今までは補助金取らなきゃ、運営しなきゃ、という体と立場だったけれど、もう無理です、となってそれをみんなに開いたとき、多くの人が支えてくれた。応答関係をくりかえす輪の中にいるために、安心感を持つことができたということ。
●モデルケースとして参考にした事例や、場づくりにおいて譲れない点として想定していたことは何か?
もとしまさん:参考にした具体的な例はあまり浮かばないが、どんな人も選別せず受け入れることは決めていた。ひとまず受け入れて、その後にその先のことを考える。あらかじめ用意しているのではなくて、必要に応じて動いていくということの連続で形ができた感じ。長く相談支援を行うなかで、システムに対しての怒りや悔しさが根底に強くあった。DV被害を受ける人を公的シェルターにお願いして断られるようなことを繰り返して、これではダメだ、と。
場をつくるには、話をすることがまず第一番かと。「のきした」は代表者もメンバーも決めてないし、首脳会議を月一回やるけれど、その会議に来た人が首脳。イベントでも、あえて計画をあまり立てない。失敗しても、それは練習。ミスがあっちゃいけない、という世の中に生きているから。コロナの時、そうじゃない体に変わらないといけない感覚があった。自分たちの暮らし方が社会問題そのものなんだ、という感覚を相談を受ける中で持っていたので、そういう体から変えていく意識があった。最初は自分の中にも、「ちゃんとやったほうがいいんじゃないかなあ」とか「失敗しないようにこう動いた方が」が出てくるけれど、とにかく抑える。そうしたら、うまくいった。なんとでもなる。次はああした方がいいね、こうした方がいいね、で最終的にうまくいくってことを繰り返して、大丈夫なんだっていうのを発見してゆく。芋の配り歩きだって、最初怒られるかもしれないとか考えたけど、なんとかなって、結局みんなで想定していなかった白塗りをした。劇場だから違和感がない。すると子供が続く。大人がなんだか身体的に盛り上がっていくのを感じると、子供はやっぱりついてくる。そして、子どもだから色々お構いなしにやるけれど、みんな笑顔になって、町が緩む感じがした。その感じが、すごい、僕らの体がどうなってるんだと、気づいた瞬間だった。
