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連載第11回 『ケアの贈与論』

現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学教授の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

第11回は「嫉妬妄想」と題し、三好春樹さんのご著書『関係障害論』を手がかりに考え始めます。「視線の贈与」はどうして相手を支配してしまうのか。フーコーやヘーゲルの議論も取り入れながら、「贈与論」の視点から解釈します。

嫉妬妄想

岩野卓司

 人は誰でも嫉妬する。

 嫉妬深い人なら、愛する人が誰かと親しく口をきいただけで焼きもちをやく。嫉妬で逆上して暴力を振るう話もよく聞く。ときに刃傷沙汰になる場合すらある。ただ、嫉妬の原因なるものを探っていくと、当人の勝手な思い込みの場合も多い。今回取り上げる例は、「嫉妬妄想」である。今日、認知症患者が妄想にとらわれることがよく指摘されるが、そのなかに「嫉妬妄想」がある。なぜ、思い込んでしまって嫉妬してしまうのか。もちろん、認知症に限らず「嫉妬妄想」は存在するが、以下の例はひとつの答えを与えてくれる。

 今回も介護士の三好春樹のテキストを参照する。取り上げる著書は『関係障害論』である。そのなかで彼は、ある男性の「嫉妬妄想」について語っている。

1 妻の浮気を疑う夫

 この男性は、現在の東京科学大学出身で、一部上場企業の技術者として働き、工場長にまで出世した人物である。昔はバリバリ働いていたが定年で退職し、5年前に脳卒中で倒れて、78歳今は寝たきりとなり、妻の介護を受けている。介護はきちんとおこなわれており、週一回日曜日には二人の息子のうち一人に手伝ってもらって風呂に入れるのを別にすれば、食事と排泄といった介助の仕事はすべて妻がおこなっている。彼は、病院にタクシーで行く以外は、家で5年間寝たきりで難しい専門書を読んでいる。この状況で、男性は76歳になる自分の妻が浮気をしているのではないかという妄想にとらわれ、「若い男と会っていたのだろう」と妻を責め始めたのである。妻が買い物から帰ってきたら男との関係を責め、隣の部屋の電話に出ただけで、「男からかかってきたのだろう」と焼きもちをやく。しかも、嫉妬もだんだんエスカレートしていき、病的になっていく。

 このケースについて三好はこう分析している。

お父さんの立場になって考えてみてください。自分では歩いてどこへも行けないわけですから、自分の生活をすべて、二十四時間奥さんには見られているのです。ところが奥さんの生活は、夫からは見えない部分があります。たとえば、買い物に行ったとしても見えません。もちろん買い物に行っているのですが、買い物に行っているといっても、若い男と会っているという可能性はありますよね。お父さんは、浮気する可能性はゼロです。奥さんのほうはやろうと思えばできます。もちろん奥さんはやってはいませんが、可能性がゼロというのと、1%でもあるというのとでは、絶対的な違いがあります。奥さんが障子の向こうに行って電話をしていると、もうそれで、夫からは見えない世界に入ってしまうという状況にあるわけで(1)

 夫は部屋で寝ているだけなのに対し、妻は自由に動きまわれる。夫の行動は完全に妻の視線の下にあるが、妻の行動は彼女が部屋にあらわれたときしか夫の視線の対象にはならない。

 この状況を説明するために、三好はミシェル・フーコーの『監獄の誕生』のパノプティコンの例をひく。パノプティコンとは一望監視方式と呼ばれるもので、イギリスの功利主義の思想家ジェレミー・ベンサムが19世紀に考案した監獄である。この監獄では、獄舎の中央に監視塔があり、そこから看守は自分は見られることなく獄舎の囚人を監視することができるのだ。囚人は看守の一方的な視線の下にあるが、看守の姿を見ることはできない。しかも、この監視が常態化すると、看守は実際に見ていなくても、囚人はつねに見られていると思いこんでしまうようにな(2)

 さきほどの老夫婦の関係も同じなのだ。妻は看守のように自分が見られることなく夫を一方的に監視でき、夫は囚人のように一方的な視線の支配を受けているのである。もちろん、実際は妻がつねに見張っているなんてことはない。部屋を離れたら、家事など他のことをしているのだろう。しかし、夫は相手の姿を見ることなく見張られているのと同じ状態をつねに強いられているのである。

 ここで贈与論の視点からの解釈を付け加えておこう。見ることや視線は、贈与と結びついている。「一瞥を与える」「視線を送る」「目を配る」といった表現があるように、目は与えることと深い結びつきがある。だから、パノプティコンによる監視も「視線の一方的な贈与」にほかならない。看守は一方的な視線の贈与によって囚人を支配しているし、同じように妻も自分の気づかないうちに、視線の贈与によって夫を支配している。視線の暴力は、贈与の暴力でもあるのだ。

 このように可視と不可視の空間について、夫婦関係が非対称的であるから、障がいが生じるのだ。妻が浮気をしているかどうかは確実ではないが、その可能性はゼロではない。しかし、寝たきりで動けない夫のほうは浮気の可能性はゼロである。妻の視線の下に置かれていて、妻の世話を受けて完全に依存している状態で妻が浮気をしたなら、夫は本当に自分が惨めであると感じるだろう。彼のプライドはズタズタに切り裂かれてしまう。だから逆説的だが、浮気していると思い込むことで、心の安定を得ようとしているのだ。「嫉妬妄想」は、妻の浮気をあらかじめ想定することで、まさかの場合のダメージを和らげようとする心的作用のことのなのだ。つまり、心の「防衛機制の先取り」と言えるだろう。夫は無意識のうちに傷つくまいとしているのである。

2 どう解決したか?

 それではどうしたらいいのだろうか。こういった場合に、薬の投与によって解決しようとする者もいるが、薬は症状の一時的な緩和の役にはたつが、根本解決には至らない。三好の介護論の優れたところは、関係に障がいが生じた場合、関係を通して直していくという点にある。彼は、夫と妻の関係を一方的なものではなく相互的なものにすることを提案している。

ということは、乏しい人間関係は豊かにして、一方的で受け身的な人間関係は相互的な関係にする、ということです。実は、相互的な関係という言い方はおかしな言い方で、関係というのは、本質的に相互的なものなのです。一方的な関係というのは関係とは呼べないのです。ですから、本当の意味での関係を作っていくということになりま(3)

 夫を一方的な視線の贈与から解放しなければならない。そのためにどうすればいいのか。

 夫の自立を促すというやり方もあるかもしれないが、結婚してこのかた家庭での生活を妻に依存してきた昔の世代の男性に「自立しろ」といっても無理である。退職してお金を稼げなくなったら、急に「自立しろ」なんて冷たく言われたと、よけいに卑屈になってしまうだけである。
また、妻も夫とつねに一緒にいてお互いに視線の対象にするという考えもあるかもしれないが、これもよくない。というのも、こういう二人だけの閉域をつくると、二人で妄想の世界に入ってしまうからである。「介護殺人」や「介護心中」が、介護する人と介護される人とが閉ざされた世界をつくってしまうことにその一因があったことを思い出してみよう。二人だけの密室は危険なのである。

 できるだけ、第三者が介在して、開かれた空間をつくることが必要なのである。そこで三好は、お互いに不可視な領域をつくるべきだと主張する。

ですから、逆のことをするわけです。お父さんの生活にも奥さんから見えないところを作るんです。

 そこで彼は、夫をショートステイに入れ、妻から見ることのできない時間と空間を作る。視線の対象に入らない領域ができるのだ。このことによって、夫は妻の監視から逃れる自由な世界を手に入れることができる。言いかえれば、夫は浮気をすることもできるのだ。まったく浮気の可能性がない者とその可能性がちょっとでもある者との関係ではなく、お互いに浮気することが可能な関係になったのである。もちろん、これは可能性の問題である。そもそも、ふつう夫婦であれ、カップルであれ、四六時中一緒にいるなんてことはありえない。仕事の時は別々であったりして、必ずお互いに相手から見えない世界をもっている。極言すれば、どんな夫婦でもカップルでもお互いに浮気はできる関係なのだ。ただ、浮気はしていないという信頼によって関係は成立している。だから、三好がしたことは、双方に不可視な空間をつくることで、お互い様という相互的な関係をつくることなのである。

 それで、この夫婦はどうなったのだろうか。三好はこう述べている。

びっくりしましたね。在宅での状態をよく知っていたこともあり、見事に変わりました。ショートステイの制度が始まったばかりで、私はまだ体験していなかったのですが、難しい顔をして新聞と専門書を読んでいたお父さんが、看護婦さんのお尻に触るわ、胸は触るわ、エッチな話はするわで、おそらく会社帰りには、バーやキャバレーに行って女性とこういう会話をしていたのかと思うような、デレデレしてすごい変わりようでした。
家の中にいるというのは、夫であり、父であるという面しか出てこないのです。けれども人間というのは、それだけの存在ではないのです。外ではいつも「男」をやっているわけです。それがどっと出てきた感じで、まあなんとも陽気でよくしゃべるお父さんでした。そうやって一週間が過ぎて、「また来るからね」と、たいそう機嫌良く家に帰られまし(4)

 そして家に帰ってくると、

 打ち合わせ通り、奥さんが「向こうは、若い人で良かったでしょう」と言いましたら、ニタッと笑ったそうです。以後、見事に妄想はピタッと消えまし(5)

 お互いに不可視の領域を持ち、お互いに嫉妬し合う可能性をもつ状況になることで、「嫉妬妄想」は解消されたのである。ここから一方的な視線の贈与による関係が障がいをもたらしていたことがわかるだろう。「嫉妬妄想」は、夫の心が不安から発したメッセージだったのだ。たぶん妻は誠意をもって介護していただろう。その妻に見捨てられたら自分は惨めだという不安が、屈折したかたちであらわれているわけである。二人だけの一方的な関係からこの妄想は生まれたのだ。だから、三好のアドバイスを受けながら、妻は夫の心のあり様を読み取り、お互いに不可視な世界をつくり、お互いに嫉妬し合える健全な関係になったのであ(6)

3 「主人と奴隷の弁証法」から相互の関係へ

 ここでちょっと意外な本を援用しよう。ドイツの哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』である。この書のなかに「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれる箇所がある。後にマルクスの革命理論に影響を与えたと言われる部分である。この夫と妻の関係に、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」に似たものを見ることができるのではないのか。今日では、この「弁証法」の前に書かれている「承認を求めての闘い」のほうがネット社会での承認欲求を説明するのによく使われているが、ここでは「主人と奴隷の弁証法」のほうが役に立つ。それは、主人は奴隷を支配するが、実は奴隷の労働、服従、奉仕に依存しており、この依存を通していつのまにかその関係は逆転しているという話7

 この夫婦のように、夫が外で働き妻が専業主婦の家庭の場合、若い頃は夫は給料を家に入れて「主人」であったが、退職して稼がなくなると妻への依存が意識されるようになり、寝込んでしまうと完全に依存してしまっている。立場は完全に逆転してしまったのだ。そして、ここに贈与の問題がある。この状況で、夫は全面的に妻の一方的な贈与やサービスのもとにあるのだ。給料を家に入れていたときは、「俺が食わせてやっているんだ」というかたちで、夫は贈与する存在だった。食事や家事など妻に依存している点は、考えようともしなかった。それが退職し体が不自由になると、妻への依存がクローズアップしてくる。妻のみが贈与する存在になるのだ。しかも、視線に関しても、妻は夫の視線を受けとることなく、視線を贈与できるのだ。ここから一方的な贈与がもたらす障がいが生じるというわけである。

 三好がおこなったことを「贈与論」的に解釈してみると、一方的な贈与による「主人と奴隷」のねじれた関係を、相互の贈与に変えることで、それまで生じていた「関係障がい」を治したということではないだろうか。

連載第12回は、2025年2月28日(金)公開予定です。

(1)三好春樹『関係障害論──老人を縛らないために』雲母書房、2018年、34–35頁。
(2)同書、30–31頁、ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳、新潮社、2020年。
(3)三好、前掲書、37–38頁。
(4)同書、43–44頁。
(5)同書、44頁。
(6)この話には後日談がある。ショートステイには、夫は年に2回ほどいくことになったが、ふだんは夫と妻の二人っきりになってしまうので、第三者が必要と感じて、三好はボランティアの女性を頼んで週1回訪問してもらい、車イスで庭を散歩する手伝いをしてもらった。(当時は、ヘルパーはいなかった。)そうしたら、今度は妻が嫉妬しはじめたのだ。現役時代の夫は何回か浮気したことがあり、その罪悪感が「嫉妬妄想」の原因にもなったのだが、妻のほうも悪夢が蘇ったのだ。そこで、ボランティアも特定の人ではなく、何人かが交代できてもらうことになり、決着をみた(同書、44–45頁)。
(7)G. W. F. ヘーゲル『精神現象学』長谷川宏訳、作品社、1998年、134–138頁。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

↓ 第1~10回の記事はこちらから









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