短編小説「言葉のフリマ」
「いらっしゃいませ。あなたの不要になった『言葉』、買い取ります」
駅ビルの隅にある、以前はタピオカ屋だった狭い店舗。そこに、場違いなほど古めかしい木製の看板が掲げられていた。店主を名乗る青年、カイは、いつも度の強い眼鏡を光らせながら、ピンセットで「何か」を摘み上げるような仕草をしている。
この店『ワード・オフ』に持ち込まれるのは、物理的な品物ではない。
人々の心にこびりついて離れない、しかしもう必要のない、あるいは持っているのが辛い「言葉」そのものだ。
「……本当に、買い取ってくれるんですか?」
夕暮れ時、一人の女性が店を訪れた。名前はサオリ。広告代理店で働く彼女は、ひどく疲れ切った顔をしていた。
「ええ、もちろんです。ただし、査定には少しお時間をいただきますよ。あなたがその言葉を、どれだけ大切に、あるいは残酷に扱ってきたか。それが価値になりますから」
カイは、アンティークの秤(はかり)をカウンターに出した。
「売りたい言葉は、何でしょう?」
サオリは震える声で言った。
「『期待してるよ』……です」
カイの目が、わずかに細まった。
「ほう。それはまた、ずいぶんと重たいものを。誰からの言葉ですか?」
「上司です。もう三年間、毎日のように言われ続けてきました。新しいプロジェクトを任されるたび、徹夜が続くたび、その言葉が私の首を真綿のように締めるんです。最近じゃ、その言葉を聞くだけで動悸がして、夜も眠れなくて……」
カイは頷き、見えない空気を指で掬うようにして秤の上に乗せた。
すると、何もないはずの天秤がガタンと音を立てて傾いた。目盛りは最大値に張り付いている。
「素晴らしい。純度の高い『呪い』に変質していますね。これは高値がつきますよ。査定額は……三万円。それと、あなたの今後の『休息』十時間分を色付けしましょう」
「そんなに……? でも、売ったらどうなるんですか?」
「あなたの記憶から、その言葉の『重み』が消えます。言われた事実は残りますが、それはただの音の羅列になり、あなたの心を傷つける力は失われます。よろしいですか?」
サオリは迷わず頷いた。
カイが指をパチンと鳴らす。その瞬間、サオリの肩から、何千キロもの重石が消えたような感覚が走った。
「あ……軽い」
彼女は三万円を受け取り、足取り軽く店を出ていった。彼女の背中を見送りながら、カイは瓶の中に「期待してるよ」という言葉を詰め、ラベルを貼った。
この店には、他にも様々な客が来る。
失恋したばかりの大学生は「一生一緒だよ」という言葉を五百円で売っていった。それは時間が経ちすぎて、酸っぱい臭いのする生ゴミのようになっていた。
定年退職した男性は「お疲れ様」という言葉を持ち込んだ。それは長年使い込まれた銀食器のように鈍く光っており、カイはそれを「誇り」として高く買い取った。
一方で、この店には「販売」のコーナーもある。
誰かが手放した言葉は、別の誰かにとっての救いになることがあるからだ。
ある夜、一人の少年が店に忍び込んできた。
「……言葉を、ください」
少年は学校でいじめられ、一言も喋れなくなっていた。彼の語彙は、周囲からの罵倒によってズタズタに引き裂かれていた。
「何がいいかな。今の君には、少し強い言葉が必要だね」
カイは棚の奥から、小さな琥珀色の小瓶を取り出した。
「これは、かつての文豪が死の間際に放った『それでも、私は書く』という言葉の破片だ。非常に高価だが、君の『勇気』と交換なら売ってあげよう」
少年は震える手で、自分の胸元から微かに光るビー玉のようなものを取り出した。それは彼に残された、最後の「勇気」だった。
交換が成立した。少年が小瓶を開け、その言葉を飲み込むと、彼の瞳に小さな、しかし消えない灯火が宿った。
数ヶ月後。
店は相変わらず繁盛していた。しかし、カイの表情はどこか晴れない。
最近、持ち込まれる言葉に「中身」がないものが増えていたのだ。
SNSで投げつけられる匿名の中傷。テンプレート通りの謝罪。心を通わせない、ただの記号としての言葉たち。それらは秤に乗せても重さを感じさせず、ただ灰色に濁っているだけだった。
「言葉が、死にかけているな……」
カイが独り言をこぼした時、店のドアが開いた。
現れたのは、あの時「期待してるよ」を売ったサオリだった。
しかし、彼女の様子はおかしい。以前より顔色は良くなっているが、どこか人形のように無機質な表情をしていた。
「いらっしゃいませ。今日は何を?」
「……何も、感じないんです」
サオリは言った。
「あの言葉を売ってから、楽になりました。でも、その後、誰に何を言われても、響かなくなってしまったんです。褒められても、怒られても、愛してると言われても。私の心は、言葉を通さないプラスチックの箱になってしまったみたいで」
カイは溜息をついた。
「言葉を売るということは、その言葉に付随する『感情の受容体』も切り離すということです。痛みを感じない体は、温もりも感じられない」
「返してください。私の『期待してるよ』を。あの重苦しくて、吐き気のする、でも、私を見ていてくれた証拠だったあの言葉を」
カイは首を振った。
「残念ながら、一度買い取った言葉はすぐに加工され、別の場所へ流れていきます。今のあなたの言葉は、もう別の誰かの『責任感』として再利用されている」
サオリは泣き崩れた。
言葉は、ただの道具ではない。それは自分と世界を繋ぐ、血の通った糸なのだ。たとえそれが自分を縛り付けるものであっても、引きちぎれば自分自身の一部も失われる。
「……ですが、一つだけ方法があります」
カイはカウンターの下から、真っ白な、何も書かれていない紙を差し出した。
「新しい言葉を、自分で作るんです。誰かから貰った言葉ではなく、あなたの内側から湧き上がる、あなただけの言葉を。それをこの紙に書き留めてください。それが重さを持った時、あなたの受容体は再生する」
サオリはペンを握り、必死に考えた。
数時間後、彼女が紙に書きつけたのは、たった一言だった。
『明日は、自分のために笑おう』
その瞬間、紙が黄金色に輝き、ずっしりとした重みを帯びた。
サオリの瞳に涙が溢れた。それは、プラスチックの箱が壊れ、再び心が世界と繋がった瞬間だった。
彼女が店を去った後、カイは眼鏡を外し、疲れた目をこすった。
ふと、自分の手元を見る。
彼は、この店で何千、何万という言葉を扱ってきたが、彼自身の言葉はどこにもない。彼はただの仲介人。言葉の墓守。
カイは、自分用の秤に、自分自身の思いを乗せてみた。
天秤は、ピクリとも動かなかった。
「……やれやれ。僕もそろそろ、買い出し(人生)に出る必要があるかな」
カイは看板を下ろし、鍵をかけた。
駅ビルの隅から、言葉のフリマは消えた。
翌朝、SNSには一つの投稿が溢れていた。
「心に響く言葉を見つけた」という、出所不明の、でもどこか懐かしい体温を感じさせる言葉たちが、あちこちで芽吹いていた。
あなたのポケットの中にあるその言葉は、誰から買い取ったものだろうか。
あるいは、あなた自身が紡いだものだろうか。
言葉の価値を決めるのは、いつだって、それを受け取った瞬間の、あなたの心の「重み」なのだから。
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