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人を、女性と男性に分けることはできない 〜男女別スポーツ競技の破綻(はたん)〜

「女性」と「男性」の関係について、一般的に広く受け入れられている考え方は、「女性と男性は人間としては同じだが、性としては別だ」というものでしょう。そして、現在、「女性の人権」や「男性の人権」も、このようなとらえ方にもとづいて語られています。しかし、「女性と男性は人間としては同じだが、性としては別だ」という考え方は、よく考えてみるとその中にすでに大きな矛盾を抱えています

「同じだけど違う」という考え方がもたらす問題

「違い」と「共通(同じ)」とは本来、対立する概念です。同じ「人間」というもの(種)の中に、「女性」と「男性」という区別(違い、性別)を認めた時点で、実は原理的にも論理的にもどうしても解決できない問題が生まれてくるのです。そのことが一番わかりやすくあらわれるのが、スポーツ競技です。

男女別スポーツ競技が抱える原理的問題

現在のスポーツは、女性と男性で分かれて競技をすることが大前提になっています。つまり、人間を女性と男性に「分けることができる」という大前提に立って個々の競技が成り立っています。しかし、現実には、生きているひとりひとりの人を、すべて「この人は女性だ」「この人は男性だ」と分けることは、科学的にもできないのです。この時点で、男女別スポーツ競技は原理的にすでに破綻しています

この問題は、2024年のパリオリンピックでも、大きな議論になりました。一部のメディアは、「男性の染色体をもっている選手が、女子の競技に出ている」というような表現で、この問題を取り上げました。このような問題が起きると、話はとかく特定の選手が、女性枠で(または、男性枠で)出場することが、よいか悪いかという議論になりがちですが、この問題の本質はそこにはありません。問題の本質を見失うと、単なる水掛け論と憎しみが生まれるだけです

問題の本質はどこにあるのか

問題の本質は、現在、科学的根拠にもとづいて「客観的に」「公正に」、すべての人を女性と男性に分けることは、できないということにあります。なにを言っているんだ、染色体で区別できるはずだと思われる方も多いかもしれません。しかし、今回、パリオリンピックで問題になったことは、男女の性別を染色体で判断してよいか(判断できるか)ということです。

世間的な判断に合わせる形で、科学は根拠を探した

現在、性別の確定要素だと科学が考えているものは、もともと、世間的に「あの人は女性だ」「あの人は男性だ」と思われているたくさんの個体について、その判断の根拠を生物学的に(つまり、物理・化学的に)探った結果、わかってきた特徴に過ぎません。そのひとつが、XXという染色体とXYという染色体の違いなのです。世間的に思われている「女性」「男性」の区別の方が時間的には先で、染色体の違いというものは、後から見つかった根拠(説明)なのです。つまり世間的な区別に合わせる形で、科学は性別の根拠を人体の中に探ったわけです

ただ、XXという染色体とXYという染色体の違いで、性別が決まるというのはあくまで多数派の事例について言えることにすぎません。性分化疾患(DSD(Disorders of Sex Development))が起きた場合は、人の性別は染色体では判断できないことは、医学的に知られています。(たとえば、アンドロゲン不応症であれば、XYの染色体を持ちながら、外見は女性にしか見えない人もいるのです。)

男性枠での出場を認めても、認めなくても問題は残る

今回、問題になった選手が、性分化疾患であるかどうかは、わたしにはわかりません。今、性分化疾患を例にあげたのは、科学的には性別の判断ができない(染色体だけで判断してしまうと、世間的に判断されているその人の性別と矛盾してしまう)ケースが、ままあるということを示すためです。今回のような場合は、科学的には性別の判断ができないため、結果として、IBA(国際ボクシング協会)のように男性枠での出場を「認めなく」ても、今回のIOC(国際オリンピック委員会)のように「認め」ても、「人は女性と男性に分けることができる」と思っているわれわれには、どこかに根深い違和感が生まれるのです。

人を女性と男性に「分けることができる」という考え方に問題がある

くり返しますが、科学的根拠にもとづいて「客観的に」人を女性と男性に分けることはできないのです。これは現在の科学に限界があるからではありません。人を女性と男性に「分けることができる」という考え方の方に、問題があるのです。

どこに問題があるのでしょうか。わかりやすく言ってしまえば、「女性」とか「男性」とかいうものは、いわばわれわれのイメージ(観念、言葉)の中にだけ存在するもので、実際に生きている個々の人間には、100パーセントの典型的な「女性」もいないし、100パーセントの典型的な「男性」もいないということです。このことは、性ホルモンで考えてみると、わかりやすいかもしれません。いわゆる「女性ホルモン」は、男女どちらの体内にも存在しますし、「男性ホルモン」も同じです。それと同じように、あらゆる人が、女性的な要素と男性的な要素を持っているのが、現実なのです。

言葉(観念)が、生きているその人を「否定」する

100パーセントの「女性」も、100パーセントの「男性」も、言葉(観念)の中にしか存在しません。「女性」「男性」という言葉(観念)で、生きているひとりの人(選手)をどちらかに分けようとすることは、結果として、現に生きているその人を「否定」することになります。パリオリンピックで起きたことは、そういうことです。前回、「言葉は常に『ない(不在、否定)』をはらんでいる」ということを書いたのは、こういう意味です。(くわしくは、「言葉のもっとも奥深い秘密 〜『正しさ』は、その不在によって人を動かす〜」をご覧ください。

「人を女性と男性に分けることができるか」は、すべての人に関わる問題

女性と男性で分かれて競技をすることが大前提になっている近現代のスポーツは、世界中に生きているすべての人間について、どこかで区分の線を引き、ここから右は女性、ここから左は男性と分けることができると考えています。しかし、そんな区分線は引けないのです。実はこの時点で男女別の競技スポーツは、すでに原理的に破綻しているのです。その破綻がはっきり目に見えてあらわれたのが、今回のパリオリンピックだったのです

しかし、同じような問題はすでに何年も前からスポーツの世界を筆頭にして、世界中で起きています。このような問題は、とかく性的少数者の問題であるかのように考えられる傾向がありますが、それは間違いです。この問題は、「人を女性と男性に分けることができるか、どうか」という点で、すべての人に関わる問題なのです

誤解のないように申し上げておきますが、わたしはこの世から「女性」と「男性」の区別をなくせと言いたいわけではありません。現在の社会の基盤には、「女性」と「男性」の区別(あとで述べる「ジェンダー」)が、確固として大きな力を持って存在していますし、男女別の競技スポーツも、まだ当分の間は、さまざまな修正を加えながら、存続するでしょう。ただ、それは大きな矛盾(原理的破綻)に目をふさいでいるからこそ、可能になっているのだということを忘れてはならないと思うのです。

「人を女性と男性に分けることはできない」ということがもたらすもの

今までに「ジェンダー」という言葉を、どこかでお聞きになったことがあると思います。「ジェンダー」とは、一般に「社会的、文化的な男女の役割分担」のことを言います。(わかりやすく言えば、その時代、その社会で考えられている「女らしさ」、「男らしさ」が「ジェンダー」です。)今まで述べてきたように、「人を女性と男性に分けることはできない」という立場に立てば、「ジェンダー」についての考え方も必然的に変わってきます。それと同時に、性的少数者に対する考え方も変わります。

性的少数者への人権侵害や差別は、多くの場合、「異性愛主義(ヘテロセクシズム(heterosexism))」から起きてきます。「異性愛主義」とは、わかりやすく言えば、「女性は男性を好きになり、男性は女性を好きになる。それ以外はおかしい」という考え方です。当然、「異性愛主義」は「ジェンダー」ときわめて密接に結びついています。アメリカでも日本でも、保守的な人は多くの場合、「異性愛主義がくずれれば、社会はおしまいだ。だから、なんとしてでも異性愛主義を守らなければならない」と考えています。これに対して、性的少数者(いわゆる、LGBTQ+)を支援する立場の人々は、「異性愛主義」を人権侵害や差別につながる考え方として批判します。

しかし、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)と呼ばれる人のあり方もまた、その社会、その時代の「ジェンダー(「女らしさ」、「男らしさ」)」と、ねじれた形(いわば、陰画の形)で密接に結びついているのです。(この点については、「高校生のための人権入門(10) 性的少数者の人権について」の中の「ジェンダーは性的少数者も支配している」などをご覧ください。)

「人を女性と男性に分けることはできない」という立場に立てば、「異性愛主義」はもちろん、自分や他人を「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)」としてとらえるという、人に対する「とらえ方」も、その根拠があやしくなります

パリオリンピックでの男女別の競技スポーツの問題は、「すべての人を、女性と男性に分けることは、実はできない」ということを示しました。これが、現在われわれが直面している事態なのです。

人を区別(線引き)をすることの功罪

人権の観点からすれば、今回、「女性」と「男性」の区別(線引き)について述べたことは、実は、ほかのさまざまなことにも広げて考えることができます。「発達障害である人」と「発達障害でない人」の区別、「性的少数者」と「性的多数者」の区別、「認知症の人」と「認知症でない人」の区別、「被差別部落にルーツをもつ人」と「被差別部落にルーツをもたない人」の区別、「外国人」と「日本人」の区別など、これらの区別は言葉の上では一見明瞭ですが、では実際に生きている人ひとりひとりについて、全員をどちらかにはっきり分けることができるかどうかといえば、きわめてむずかしいのです。そして、このような区別(線引き)をすることが、一方では人権侵害や差別を受けている人への支援につながるものの、一方では人権侵害や差別を固定的なものにしてしまうことがあることも、忘れてはならないことです。

おわりに

現実には、さまざまなたくさんの特性をもった人が、しかも時間とともに少しずつ変わりながら、それぞれに存在しているのです。ある特性に注目して、それによって人をふたつに(Aと非Aに)分けることは、観念的には一瞬でできることです。しかし、現実には、そのように分けられないケースが必ずあること、そして無理やり分けることが「よい」とばかりは言えないことを、われわれは常に忘れてはいけないと思うのです。


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