物語 ~秘密~
本日は、少し読み物を書き下ろしてみました。
フィクションかノンフィクションかは、皆さまのご想像にお任せします。
秘密
その会社に入って十数年。次の転勤先は、東京にある“本社”だった。
単身赴任は当然の流れで、帰省のしやすさを考えて社宅は川崎市に決めた。支店にいた頃の自分にとって、本社とはどこか遠くからこちらを見ている存在――そんな漠然としたイメージがあった。
実際に足を踏み入れてみると、職場の空気も、仕事の内容・進め方も、そこに集う人々も、すべてが自分にとっては目新しいものばかりだった。
とにかく、やれることをしっかりやらなければ――その思いだけを胸に、仕事に向き合った。
社員歴は長くても、年齢が上だとしても、本社では自分は新参者にすぎない。
だからこそ、老若男女を問わず、あらゆる場面で素直に教えを請うようにした。
その中に、彼女――「A子」がいた。
A子は20代後半。大学を卒業してすぐにこの会社へ入り、ずっと本社勤めだという。
同じ課だったこともあり、仕事の細かな流れから職場の空気まで、いろいろなことを教えてもらった。
ときどき、心の中で「まるで娘に教えを請うているようだ」と感じる瞬間があった。
仕事の大きな山を越えたあと、課内で「お疲れ会をしよう」という話になった。
課員だけでなく部内の人たちも誘い合い、互いの労をねぎらう宴は思いのほか盛り上がった。
帰り道、品川駅から京急線で帰ろうとしたところで、A子とBに声を掛けられた。
Bは同じ課の少し年下で、明るくフラットな性格をしており、誰とでも気軽に話せるタイプ男性だ。
ふたりとも京急線で帰るとのことで、そのまま一緒に電車へ乗り込んだ。
電車の中で社宅の話になり、私が川崎に住んでいると伝えると、Bが「そこ、新築ですよね?住み心地どうですか?」と興味深そうに聞いてきた。
そんな流れから、自然と「じゃあ、社宅で少し飲み直しますか」という話になった。
駅から社宅へ向かう途中のコンビニで酒とつまみを買い込み、そのまま三人で私の部屋へ向かった。
Bという男性と私、男二人であるが、A子は大丈夫だろうかと一瞬だけ気にした。
しかし当の本人は、物珍しそうに部屋を見回していて、その様子に「うん、たくましい」と心の中で苦笑した。
それからは、お互いの経歴や仕事の話、支店時代の思い出など、思い思いの話題を肴に遅くまで酒を飲んだ。
気づけば終電をとうに過ぎており、私は二人にタクシー代を渡した。
ふたりとも固辞したが、「帰って一人じゃないし、最後まで楽しく飲めた。そのお礼だと思って受け取って」と伝え、呼んだタクシーにそれぞれ乗せて送り出した。
その日は、それまでの熱気と酒の勢いもあって、ぐっすりと眠れた。
事が起こったのは、その翌週のことだった。
休日の土曜日、コーヒーを飲みながらぼんやり本を読んでいると、インターホンが鳴った。
特にネットで買い物をした覚えもない。
誰だろうと思いながら画面を見ると、そこにはA子が立っていた。
オートロックを開け、彼女がエレベーターで上がってくるあいだ、私は頭の中でいくつもの可能性を巡らせた。
「忘れ物か?」と部屋の中を見回す。
「いや、忘れ物なら平日に職場で言えばいいはずだ」
「タクシー代を返しに来た?」
「それも職場で済む話だよな……」
とにかく、彼女がここに来る“理由”がどうにも思い浮かばなかった。
インターホンが鳴り、ドアを開けると、買い物袋を提げたA子が立っていた。
そして開口一番、
「ひゅうさん、ご飯を作りに来ました」
と言った。
「え……」
口から出た言葉も、頭の中に浮かんだ言葉も同じだった。
今思えば「なぜ」が正解だったのかもしれない。
人は思いもよらない出来事に直面すると、語彙力が一瞬でどこかへ飛んでいくのだろう。そう思いたい。
混乱した頭で、ようやく絞り出した言葉は、
「あ、ありがとう……」
だった。
そう言ってしまった以上、部屋に上げないわけにはいかなかった。
A子は靴を脱ぎ、ワンルームの狭い廊下兼キッチンを抜けてリビングへ進んだ。
そして買ってきた食材を手早く袋から取り出し、
「ひゅうさんはこちらで休んでいてください」
と私をリビングへ促し、自分は入れ替わるようにキッチンへ立った。
テーブルに置いたままのコーヒーはすっかり冷めていた。
それを口にしながら、私はまた考えを巡らせた。
状況は明らかに異常で、頭の中のアラームが最大限に鳴り響いていた。
何を求められているのか。何を求められることになるのか。
心臓はいつになく早く鼓動し、理由のわからない汗が額をつたった。
そして、私は考えるのをやめた。
キッチンのほうを見ると、A子は手慣れた様子で食材を切っていた。
多少は自炊をするので一通りの調理道具は揃っているが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。そんなことを考えながら、どこか遠い目でその姿を眺めていた。
しばらくして、A子の手製の昼食がテーブルに並んだ。
「いただきます」と声を合わせ、食事をいただく。
主菜、副菜、ご飯、お味噌汁。
きちんとした食事だ。味付けは薄すぎず濃すぎず、とても美味しい。
ふと感想を言おうとした瞬間、頭の中が高速回転した。
①「いい味付けだね。いいお嫁さんになりそうだね。」
→コンプラ的にアウト
②「いい味付けだね。これならいつも食べたいね。」
→おねだりみたいでアウト
③「いい味付けだね。食事のあとは……」
→論外
「いい味付けだね。」
結局、その一言しか言えなかった。
それでもA子はどこか満足そうに微笑んだ。
食後、洗い物をしようと立ち上がったが、A子は「私がやります」と言って、さっさと食器を手にキッチンへ向かった。
手際よく洗い終えると、タオルで手を拭きながらこちらを振り返り、
「また来ますね」
とだけ言い、玄関へ向かおうとした。
しかしドアノブに手をかけたところで、ふとこちらを振り返り、
「私がここへ来たことは、“秘密”ですよ」
と静かに言い残し、部屋を後にした。
ドアが閉まった瞬間、汗が一気に噴き出した。
いや、実際にはずっと汗をかいていたのかもしれない。
よく考えると、食事中も気の利いた話のひとつもできていなかったことに気づく。
情けない。
しかし、それ以上に引っかかるのは——なぜ彼女はうちに来たのだろう、という一点だった。
食事を作り、ともに食べ、後片付けまでして帰っていく。
私が独身でもっと若ければ、なんとなく理由を想像できなくもない。
だが今は結婚もしているし、若くもない。恋愛感情という線はまずないだろう。
さみしい……?
いや、それなら同世代の友人と遊ぶほうが自然だ。
彼女は暗いわけでも、人付き合いが苦手そうでもない。
職場で見る限りの印象なので、実際は違うのかもしれないが。
ただ、自分を選ぶ理由はどこにもない。はず……。
ここで自惚れるほど私は若くはないのだ。
翌週、A子はいつも通り職場にいた。
普通に仕事の話をし、お互いの進捗を確認し、他の課員も交えて笑い話をした。
そこにいたのは、まぎれもなく「いつものA子」だった。
なんだったんだろう。
一時の気の迷いだったのか。
そんなふうに思い、あの出来事は忘れることにした。
そして1ヶ月が経ち、A子が訪ねてきた日の翌月の土曜日。
再び、A子はやって来た。
前回と同じように食事を作り、ともに食べ、他愛のない話をし、洗い物をして——そしてA子は、何事もなかったかのように帰っていった。
帰り際、
「お邪魔しました。また“秘密”でお願いします」
と言い、人差し指を唇にそっと当てて無邪気に笑うと、A子は帰っていった。
その背中を見送りながら、再び理由を考えてみたが、やはり明確な答えは浮かばなかった。
それからA子は、毎月第三土曜日になると私の部屋を訪れるようになった。
食事を作り、ともに食べ、他愛のない話をし、洗い物をして帰っていく。
帰り際には必ず「“秘密”ですよ」と言い、人差し指のジェスチャーと無邪気な笑顔を残して帰っていくのであった。
何度か食事中に「どうして来るのか」と尋ねようとしたが、そのたびに話題をそらされてしまった。
また、毎回食材を持参してくるのでお金を渡そうとしたが、これもきっぱりと断られた。
そんな毎月の定例的な儀式が続いていた年度末、A子の転勤が決まった。
本社からは遠く離れた地域で、たしか以前に聞いた彼女の出身地だった。
転勤が決まった月の第三金曜日、部内で送別会が開かれた。
A子は少し涙ぐみながら、皆に感謝の言葉を述べていた。
私はその姿を見ながら、
「これで秘密の儀式も終わりかな」
と、どこかほっとしたような、そして少しだけ残念な気持ちを抱えていた。
最初はどれだけ考えても理由がわからず、
何が起きているのか理解できないまま、
毎回冷や汗をかきながら食事をともにしていたはずだった。
それがいつの間にか、毎月の楽しみになっていたことに気づいた。
「今日は送別会でたくさん飲んだし、明日は来ないだろう」
そう高を括っていた。
翌日——
A子は、まるでそれが当然であるかのようにやって来た。
いつものように食事を準備し、ともに食卓を囲む。
A子は初めて訪問について言及をした。
「いつも責めたりせず、私が押し掛けるのを受け入れてくれてありがとうございました。」
あぁ…責めるという選択肢もあるか…。
思いつかなかったな…。
「調子に乗って、毎月訪問したのにそれでもちゃんと受け入れてくれて嬉しかったです。」
追い返すとか、鬼の所業じゃないか…。
でも、そういう選択肢もあるのか…。
言葉はそこで途切れた。
いつものように洗い物をしようと立ち上がった彼女に、
「最後くらい、私がやるよ」
と声をかけた。
その瞬間、A子はそっと私に抱きついた。
しばらくして離れると、涙を含んだ声で、
「ありがとうございました」
とだけ言い、荷物をまとめて玄関へ向かった。
そして部屋を出るとき、いつものように振り返り、
「ここであったことは“秘密”ですよ」
と言い、いつもの仕草と涙交じりの笑顔を残して去っていった。
私は、その言葉に笑顔で応えるのが精一杯だった。
そうして、私と彼女の「秘密」は終わった。
文末にて。
改めて、フィクションかノンフィクションかは、皆さまのご想像にお任せしたいと思います。
ちなみに、この話がフィクションなら、私はただの著者です。
けれどノンフィクションなら、私は「秘密」を守らなかった悪い奴です。
そのパラドックスごと、皆さまのご想像にお任せしたい。
