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少しだけ先へ

《あらすじ》
仕事一筋で三十代となった川田は、深夜の立ち飲み屋で
若いバーテンダー・さとしと再会する。
名前すら覚えていなかった相手から向けられる真っ直ぐな好意に
戸惑いながらも、心は少しずつ揺れ始める。
年齢差、仕事への誇り、孤独、そして自嘲。
揺れる気持ちを否定しようとするほど、彼の言葉や笑顔が胸に残る。
一方で、日常を支える後輩・石井の存在も大きくなっていく。
仕事での失敗、偶然のすれ違い、期待と諦めの往復。
そんな中、さとしから届いた一本の電話が、川田の止めていた心を再び動かしていく──“少しだけ先へ”進んでしまう、大人の恋と揺れの物語。

《1》
初夏の夜。
終電ぎりぎりの電車で品川から帰り着き、京急川崎の改札を抜けた瞬間、
お腹の底がぐうと鳴った。
空腹というより、今日一日の疲れが形を変えて押し寄せてきたようだった。

「この時間だと、チェーン店かしら…」

そう思いながら歩くが、どの店にも決め手に欠けている。
アーケードを外れた路地で、立ち飲み屋の灯りがぽつんと浮かんでいた。
「ここでいいか」と、吸い寄せられるようにカウンターへ。

「生とカシラ。それから煮込みとハムカツください」

残業の夜は、こういう食事に落ち着くことが多い。
自分への言い訳を胸の内でつぶやきながら、生ビールと煮込みをカウンター越しに渡される。
悲しくなるほど、ささやかな夕食だ。

カウンターでは、老紳士たちがすでに出来上がり、楽しげにグラスを合わせていた。
横にはビールケースを積んだだけの簡易テーブルがあり、中年の男女が寄り添うように座っている。
女性の艶やかな服装に、「同伴だろうか」と勝手に邪推をしてしまう。

「あいよ、ハムカツとカシラね〜」

差し出された皿には、立ち飲み屋で覚えた味「カシラ」と、
毎回欠かさず頼む「ハムカツ」。
薄いハムを何枚も重ねて揚げた、懐かしいジャンクさ。
それを一口かじり、ビールを流し込む。
一日の疲れが、喉を通る泡と一緒にどこかへ消えていく。

録り貯めして、週末に一気見している『孤独のグルメ』のように心の中で解説を考えていたそのとき、背後から声が——

「あの〜、川田さんですよね」

その声に、思わずビールを吹き出しそうになった。
こんな深夜の立ち飲み屋で名指しされるとは思わず、反射的に振り返る。
そこには、すらりとした若い男性が立っていた。
一瞬、記憶を探る。

「あ、Barの……」

Barというのは、先日、部長と“サシノミ”をした帰りに寄った、
部長お気に入りの店。
普段はほとんど行かない世界だけど、その日は流れで席についた。
彼は、そのとき私の目の前に立っていたバーテンダーだ。

「覚えてくれてたんですね。嬉しいです」

弾む声がまっすぐ届く。
だが、申し訳ない。
名前まではどうしても思い出せない。

「ごめん、名前……なんだっけ」

正直に言うと、彼は一瞬だけ固まり、次の瞬間には弾けるように笑った。

「さとしです。今井さとしです。顔は覚えてくれてたのに、
 名前は忘れちゃったんですね」

少しいたずらな笑顔だった。申し訳なさを煽るようだ。
私のプライベートの記憶力は、期待されるほどのレベルではない。
そういえば、名刺をもらった気もするが…どこにしまったかな?

「ごめんね、今日は、もう帰るつもりだからお店にはいけないよ?」

反射的に口をついて出た。
疲れた夜に、余計な駆け引きはしたくない。

「大丈夫ですよ。今日はお休みですから」

彼は軽く笑って言う。
その笑顔が本心なのか営業なのか、判断がつかない。
まじめなのか、ただの癖なのか。
彼は私の横に立ち、

「僕も生ビールとハムカツください」

とカウンターに声を掛けた。

「ハムカツ、美味しそうだったので…」

そう言って、少しだけ頬を緩めた。
その仕草が、思いのほか自然だった。
届いたビールで軽くグラスを合わせ、ふたりでハムカツにかじりつく。
彼のは揚げたてで熱々、私のは少し冷めて食べやすい。

「あっつ、でも美味しい」

そう言ってビールを煽るたび、彼の二の腕が隆起する。
その筋肉の動きが、酔いのまわり始めた視界にゆっくり滲んで、
気づけばぼんやりと見とれていた。
彼が何か話しているのは分かる。
ただ、疲れと酔いが心地よく混ざり合って、言葉が遠くに聞こえる。

「川田さん、聞いてます?」

その声だけは、はっきり届いた。
一瞬で意識が戻る。

「あぁ、ごめん。疲れててさ。ちょっとぼーっとしてた」

そう言うと、彼はまた柔らかく笑い、

「お疲れなんですね。川田さんって、社畜さんなんですか?」

と尋ねてきた。
“社畜さん”という言い方に、若さがにじむ。

「楽しんでやっているから、社畜ってほどじゃないよ」

激務でも、やりがいがある。
搾取されている感覚もない。

「ふ〜ん……不思議な答え方するんですね」

彼は少し考えるように視線を向けてきた。
弱さを見せて寄りかかる、そんな展開を求められているのかもしれないが、そういうのはどうにも性に合わない。

「まぁ、いっか。次はお店の方に来てくださいね」

その一言を残し、彼は自分の分だけをさっと支払って店を出ていった。
ぽつんと残された私は、何杯目か分からないハイボールを飲みながら考える。
普通、こういう場面はこっちが払ってもいいのかな?
そう考えてみると、彼は潔い性格なのかもしれない。
その夜、私が出した結論はそれだけだった。

《2》
照りつける太陽。
地面は陽炎のように揺れ、セミはひたすら鳴き続けている。
東京の夏は本当に恐ろしい。

できれば涼しいオフィスに籠もって、この気温が落ち着くまで仕事をしていたい。そう思いながらも、出先に行かなければならない日もある。
取引先との打ち合わせで降り立った「本郷三丁目駅」。
出口を出た瞬間、引き返したくなるほどの熱気が身体を包んだ。

「川田主任、アッツイっすねぇ〜」

カラカラと笑う後輩、石井 充に、少し不満げに返す。

「石井くんが打ち合わせをリモートにしなかったからでしょ」

個人的にこのエリアは「不忍池」や「国立現代建築資料館」、
「赤門」など、プライベートで探索したい場所だ。
だけど、今日は仕事。
照りつける太陽に辟易しながら、取引先へ向かった。

「それではこの案で進めていきましょう。次回はリモートで。ハハハ」

担当者の乾いた笑いが、会議室に響いた。
ビルに入った瞬間、私と石井くんが同時に漏らした「あぁ〜」を見られていたのだ。

“うっ……はずかしい”

心の中で赤面しながら、油断した自分を呪う。

「なんか、半笑いでしたね……」

取引先のビルを出てから、石井くんが漏らした。
蒸し返せば、彼がリモート会議を提案しなかったのが原因……
いや、もう何も言うまい。

「私、赤門見たいんだけど、場所分かる?」

話題を逸らすもりで話掛けると、石井くんはすぐに切り替えて答えた。

「あ、わかりますよ。こちらです」

流石の切り替え。
企業人たるもの、このくらいの切り替えがなければやっていけない。
そう思いながら、彼の案内する方へ歩き出した。

東京大学本郷キャンパスにある、あの「赤門」。
正式名称は「旧加賀屋敷御守殿門」。加賀藩前田家ゆかりの門らしい。
今では東大の象徴としてテレビでもよく見る風景だ。

「おぉ……赤い……」
「いや、赤門ですから」

サラリーマンがする会話としては、なかなかシュールだ。
どこかの漫才のようだなと思い、ちょっと恥ずかしい。
門は改修工事中で閉鎖されていたが、朱色の姿はしっかりと見えた。
何人かの学生が奥へ歩いていく。

日本最高峰の学び舎の学生といっても、見た目で特別な違いがあるわけではない──そう思っていたところで、見覚えのある後ろ姿が視界に入った。

初夏の深夜に、不思議な再会をした彼だ。

かなりの歩幅で、ずんずんと赤門の方へ向かっていく。
“別に声を掛けるような間柄でもないか……。”
そう思いながら、去っていく背中を目で追った。

「いやぁ……流石東大生ですね。利発そうな子ばかりだ」

石井くん……見た目で判断できるなら、君はもうエスパーだよ。

「暑いし、さっさと事務所に帰りましょう。」
「えぇ〜、近くにメロンソーダの美味しいところがあるんで、
 寄っていきましょうよ」

メロンソーダか……悪くない。
そう思い、石井くんの提案通り──いや、これは彼の策略か?
喫茶店に寄ってから事務所へ戻ることにした。

「やったねっ」

満面の笑みで喜ぶ彼を見ながら、おすすめの喫茶店へ移動した。


「赤門」でさとしくんを見かけてから数日後、
私はいつもの立ち飲み屋にいた。
今日も終電ギリギリまでお疲れ様でした──と自分を労いながら、
生ビールを流し込む。
冷えたビールが喉を通るだけで、暑さも疲れも一気に溶けていく気がする。
やきとりを一口かじったところで、背後から声がした。

「今日も遅いんですね」

聞き覚えのある声だ。

「さとしさんは今日はお仕事ですか?」

軽い警戒とカウンターのつもりで返す。

「あれ、今日は驚いてくれないんですね」

クスクスと笑う。無邪気な笑顔だ。

「今日も休みなんですよ。
 川田さん、先日、赤門のところにいませんでしたか?」

今度は本当にビールを吹き出しそうになった。

……見られていたのか。

「あぁ……取引先が近くにあってね。
 帰りにちょっと寄ってみたの。私、お上りさんだからさ」

軽い自虐を添えて返す。

「なるほど…あ、ビールとハムカツください〜」

今夜もこの子は、自然に私の隣に立った。
そんな感覚を覚えながら、運ばれたビールで乾杯した。

「学生さん……というか、東大生だったんだね」

言ってから、少し決めつけがましかったかと後悔する。
だが彼は気にした様子もなく、

「苦学生してます」

と笑った。
奨学金やバイトで学費を賄う学生は珍しくない。
その言葉が、妙にリアルに響いた。

「今日はなんとなく、川田さんがここに来てるんじゃないかって。
 この前、赤門で見たときから気になってて」

……意図が読めない。
言葉としては成立しているのに、意図がうまく掴めない。
赤門で見かけて気になった──そこまでは分かる。
でも、だから私に会いに来た? なぜ?
逡巡しながら考え込んでいると、

「聞いてます〜?」

前回と同じ台詞だが、状況は違う。
酔っているわけではなく、ただ彼の言葉の意味を探っていただけだ。

「聞いてる聞いてる。見かけたから、また話したくなったの?」

精一杯考えて出てきた言葉がこれとは……。

「そうそう。川田さん、壁打ち役ぴったりだから」

無邪気に笑う。
東大生は、例えに使う言葉まで企業向けなのか。
「壁打ち」──自分の考えを誰かにぶつけて、
反応や気づきを得るための対話。
つまり“思考の整理のための相手”だ。
いやいや、東大生相手に壁打ちなんて、荷が重いに決まってる。

「それは光栄だけど、力不足は否めないかな」

その言葉を聞き、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「それこそ、ご謙遜ですよ」

その笑みの裏に何があるのだろう。
そう思いながらも、彼の表情に心が揺さぶられている自分がいた。

《3》
大学を卒業して今の会社に入り、もう十数年が経つ。
言い訳に聞こえるかもしれないが、仕事が楽しくて、ただただ前だけを見て走ってきた。
その間、多少の色恋がなかったわけではない。
けれど私は、いつも仕事を選んだ。それほどに、今の仕事が好きだった。
目の前でビールを煽り、楽しげに話しかけてくるこの子は、そんな私に何を求めているのだろう。

「さとしさんは、この辺に住んでいるの?」

探るように、慎重に質問を投げかける。

「自分、実家が川崎で、実家暮らしなんですよ。
 母子家庭なもんで、なかなか家を出る決心がつかなくて」

少し自嘲気味に笑いながらそう言った。
母親を支えながら暮らしていることは立派だと思う。
けれど、その自嘲はどこから来るのだろう。

「友人には、お前はマザコンかよってよく言われるんですけどね」

あぁ、その言葉を受けての自嘲なのか。
大人になって一人暮らしをしてみると、親のありがたさは嫌というほど
分かる。
学生のうちは、きっとそこまで実感がないのだろう。

「家の負担にならないように実家で暮らしているなら、立派よ。
 胸を張っていいと思う」

その自嘲を、少しでも払ってあげたかった。
私の言葉を聞いた彼は、しばらく黙って、ただじっと私を見つめてきた。

「な…なに?」

そのまっすぐな眼差しに、思わず心臓が跳ねる。
酔いとは別の熱が、頬にじわりと広がった。

「いや、川田さんは……やっぱり大人の女性だなって思って」

それは……あなたよりずっと年上なんだから、当然でしょ。
心の中でそう呟きながら、年齢差を改めて思い知らされる。

「そうよ。」

その動揺をごまかすように、笑って返した。

「大学は何年生なの? というか、さとしさんはいくつなの?」

自分の中の動揺を押し込めるように、矢継ぎ早に質問を投げた。

「今年卒業で、22歳ですよ」

22歳。私とは一回り以上離れている。
相手にとっても、私にとっても普通に考えれば恋愛対象とは言えない──
そう思うことで、胸の奥のざわつきを必死に抑え込んだ。

「そっか、そろそろ内定も出ている頃かな? というか、
 さとしさんは就職するの?」

少し冷静になり、若い子に話しかけられ、
浮かれた心を諫めるように"年上の人"であることを意識した話し方をした。

「民間の方で内定はいただいてますが、
 本命は国家公務員なので、まだですね」

堅実だ。
若いのに、しっかりと足元を見据えて進もうとしている子だと感じた。

「すごいね。しっかり考えてるんだ。
 じゃあ、まずは民間の内定おめでとうの乾杯だ」

素直に彼の考え方に感心し、その喜びを一緒に分かち合いたいと思った。

「ありがとうございます」

はにかむ笑顔がまた可愛らしい。
お互いのグラスを合わせ、ちょっとした祝杯とした。
そうしていると、ふいに──

「あの…川田さん、連絡先とか聞いていいですか?」

ハイボールを吹き出しそうになった。
治まっていたはずの動揺が、一気に噴き出してきた。
心臓が早鐘のように打ち始める。……いや、落ち着け私。
これは社交辞令だ。よくあるやつだ。
こんなことで動揺するなんて、どうかしている。

「なになに〜?
 おねぇさんの連絡先なんて聞いたって、何の得にもならないよ〜?」

自分でも分かるほど薄っぺらな反応だった。
でも、こんな浮ついた自分を悟られたくなかった。
だけど、彼は真剣な眼差しをこちらに向けながら、

「また、一緒に食事に行きたいんです」

刺さる。
もう、それ以外の言葉が見つからない。
語彙力がもっと欲しいと思うほど、まっすぐに胸に入ってくる。
一回り以上年下の男の子に言われて、撃ち落とされそうになる自分がいる。
なんとも情けない。
情けないのに、心臓の鳴り響く鼓動が、それを否定してくれない。

「しょうがないなぁ…。」

スマホを取り出してやりとりをした。
手が震えているのが分かる。
バレたくないので、自分のアドレスを表示したままカウンターに置いた。

「ありがとうございます!!」

嬉しそうな声にときめく自分が情けない。
お互いに支払いを済ませて、店の前でお別れをした。

「必ず連絡しますから!!」

スマホを片手に、嬉しそうに手を振る彼を見て、思わずホッとする。
深夜の暗闇の中、蒸し暑さが少しだけ和らいで、家路がほんのり色づいて見えた。

《4》
朝、目が覚めて身体を起こす。
少し身体が重く感じる。
白湯を飲んでから鏡の前に立つ。

「あ……隈ができてる」

昨夜、帰宅してからも彼との会話を何度も反芻していた。
乙女というには、もう少し通り過ぎているのだろうか……。
でも、今、私の中にあるのは、
そんなドラマみたいな展開はない。
という、至って冷静な判断だ。

お酒の力もあって、昨日は舞い上がっていた。
相手の気持ちを確かめたわけでもないのに、勝手に盛り上がって、
ルンルン気分で家路を歩いたのだ。
ときめいたのも事実。
でも…。
鏡に映る自分を見ながら、ため息が漏れた。

自分は、ただの人生の先輩で、話しやすい年上というだけなのだ。
それを勝手に組み替えて、恋愛感情みたいなものに仕立て上げている。
なんとも情けない……。

身支度を整えながらスマホの画面を覗くと、着信履歴が残っていた。
そういえば、連絡先を教えたときに「ワン切りしますね」と言っていた。
これが、彼の電話番号なのだろう……。

私は、その番号を登録しないまま家を出た。


出社すると、石井くんがすでに出社していた。

「あ、主任、おはようございます」

いつもの朝だ。
私は気持ちを切り替えるように挨拶を返した。

「石井くん、おはよう」

すると、石井くんはじっと私の顔を見つめて、

「主任、夜更かししました? 隈できてますよ」

なかなか鋭い。
おかしいな、ちゃんとコンシーラーで誤魔化したはずなのに……。

「あ、ちょっと録画してたドラマを見てたら夢中になっちゃって」

思いついた言い訳を口にして、そのままお手洗いへ向かった。
鏡を覗くと、そこまで目立つようには見えない。
石井くんは、なかなか目敏いな。そう思いながら、
クッションファンデを叩き込んでさらに隠すことにした。

仕事は、繁忙期に入っていた。
青い想いをかき消すように、私は目の前の業務に没頭した。
そして、改めて思う。
私は、この仕事が好きなのだ。

そんな日々が一週間ほど続いた、ある日のこと。
部長が臨店してきた。
繁忙期の私たちに、さらに喝を入れに来たのだろう。
朝礼では長々と自分語りをしたあと、部署全体が見渡せる席に腰を下ろし、PCを眺めたり、スマホをいじったりしている。
偉くなるというのは、こういうことなのかな。

「昼飯に付き合え」

部長が私の島までやってきて、そう言った。
本当はパンでも片手に仕事を続けたかったが、これはやむを得ない。
石井くんはニコニコしながら、

「ゴチになりまーす!!」

と陽気に言った。
こういう素直さと愛嬌のある子は、きっと出世するだろう。
心からそう思った。
昼食は、事務所からそう遠くないうなぎ屋だった。
おひとりさまでも安くて三〜四千円はする。
とても気軽に入れる店ではない。
そう思えば、感謝の気持ちも自然と大きくなる。
そして、それを見越した部長の選択なのだろう。

「部長、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

食後、お礼を述べて頭を下げる。

「うんうん。君らの島はいつも頑張ってくれているからね。
 これくらいのお返しはさせてくれ。」

会社に戻ろうとしたとき、視界の端にそれが入った。
さとし君が、女性と二人で歩いている。
思わず立ち止まり、目で追ってしまったところで──

「主任…?」

石井くんの声で我に返った。

「ごめん、ちょっと知り合いに似た人が歩いていたから」

石井くんは、私が見ていた方向に視線を向けて、

「ふ〜ん…そうですか。」

どこか含みのある返しをしてきた。
その視線は、さとしくんの方を捉えていた。

大学生なのだから、恋人がいても何もおかしくはない。
私の想いなんて、結局は独りよがりなのだ。
今さら何を思うことがある。
あれ以来、彼から連絡が来ることもなかったのだから。
会社へ向かう道すがら、見てしまった事実を受け入れ、
自分の中の考えをひとつずつ整理していった。

その日も結局、終電近くまで仕事をして家路についた。
京急川崎駅を出たところで何か食べようかと思ったが、
いつもの立ち飲み屋の明かりが目に入ったが、
考えを変えてコンビニへ向かった。
家に着くと、着替えをし、化粧を落とし、スキンケアをしながら
コンビニで買ったお弁当をレンジに入れる。
無機質な機械音が鳴り始め、庫内のほのかな明かりを眺めながら、

「これでいいんだ」

何が“いい”のかは分からない。
それでも、自分にそう言った。

温まったお弁当をテーブルに置き、缶ビールを開けたそのとき、
スマホに着信があった。
登録はしていない。
していないけれど──彼の番号だと、すぐに分かった。

恐る恐る通話ボタンを押し、スピーカーモードにした。

「川田さんですか」

間違いなく、彼の声だ。
自分はなんて勝手なのだろう。
あの翌朝から今日まで、ずっと彼への想いを否定し続けて、
動かしようのない事実をこの目で見て、気持ちに整理をつけ、
十分に納得したはずなのに──
それでも、心臓はまた、勝手に鼓動を早めていた。

《5》
「遅い時間だとは思ったんですけど……川田さんと会えるのって、
 いつもこのくらいの時間だったので。つい、電話してしまいました」

時間はすでに深夜0時を回っている。
思えば、あの立ち飲み屋で彼と出会ったのも、このくらいの時間だった。

「そうね。ちょうど今帰ってきたところなの。
 でも、急にどうしたの?今頃電話をかけてくるなんて」

彼はどう受け取っただろう。「今頃」という言葉を。
この遅い時間のことだと思うのか、それとも――あれから何日も経って、という意味に聞こえたのか。
そもそも、そんな探りを入れるような相手ではないはずなのに。

「あの、食事の約束……どうしても行きたくて。
 あれから色々調べてたんです。
 川田さん、もしよかったら……今度、一緒に食事に行きませんか」

声のトーンで緊張が伝わってくる。
そして、その言葉が真っすぐに私に向けたものだという事も分かる。
でも…

「私は別にいいんだけど……さとしくんの彼女さんとか、大丈夫なの?」

意地悪な言い方だ、と自分でも思う。
口をついて出たその言葉には、認めたくない嫉妬が、少し混じっていた。

「えっ……俺、付き合ってる人なんていませんよ」

その言葉は、思いがけない衝撃だった。
じゃあ、あの時一緒に歩いていた人は誰だったの?
彼は、私をどう思っているの――。
いくつもの感情が一気に押し寄せて、心の中がざわつく。

「そ、そうなんだ……。なら、大丈夫だね」

にやけているのかもしれない。
何もわかっていないくせに、何を浮かれているんだろう。
そんな自分を、どこか冷めた目で見つめているもう一人の私がいる。

「じゃ…じゃあ・・・」

慌ててスケジュール帳を開いて、候補の日をいくつか伝えた。
約束は、再来週の金曜日。十九時、品川駅で。
約束を済ませ、電話を切った。
うきうきする気持ちと、現実を見ようとする冷静さが胸の中で
ぶつかり合っている。
その衝突でさえ、どこか楽しいと思ってしまう自分がいる。
これはもう、有頂天と言ってしまっていいのだろう。


翌日からの私は、完全に浮かれていた。
どこか上の空で、担当している仕事にも身が入らない。
高校生の頃、初めて男性とデートの約束をした時の気持ちに似ている。
その後もいろいろな出会いがあったはずなのに、どうして今になって、あの頃の感覚がよみがえるのだろう。

そんな浮ついた心は、ありえないミスを犯した。
顧客からの仕様変更の要望を見逃したまま、最終発注をかけてしまった。
直接の担当は石井くんだったが、最終確認者は私だ。
仕様変更そのものはすぐに対応できる。
けれど、すでに生産に入ってしまった分の損失と、新たに作り直すことで発生する納期の遅れ――。
会社にも顧客にも、確実に迷惑をかけてしまった。
最悪だ…。
浮ついた気持ちで仕事をした私が、すべての原因だ。

上司は寛容に受け止めてくれたものの、私自身、すぐに顧客へ連絡を入れ、直接訪問のアポイントを取った。
顧客の会社へ向かう道すがら、石井くんは真っ青な顔をしていた。

「すみません……俺の確認が甘かったせいで」

私は、石井くんの肩に手を置き、

「石井くんだけの責任じゃないわ。私の確認が足りなかった。
 顧客には、ちゃんと説明して、誠意をもって謝りましょう」

そう言いながら、頭の中ではすでに、新しい納期の調整や、損失に対する補償、あるいは値引きの必要性を考えていた。

さっきまで胸の奥にあった、あの青い浮ついた気持ちは、跡形もなく消えていた。

「御社にはいつもお世話になっていますので、これくらいの遅延でしたら
 問題ありませんよ。ある程度バッファーを取っていますので、こちらで
 なんとか調整します。」

いつも対応してくれる担当さんの言葉に、心底救われた。
私と石井くんは、何度も感謝を伝えながら深く頭を下げた。

「石井さんの顔色が尋常じゃなかったからね。
 あれじゃ責められませんよ、ハハハ」

担当さんは、少し冗談めかして言った。
確かに、石井くんの顔色は本当にひどかった。
まるで、この世の終わりでも見たような顔をしていた。
顧客の会社を出た後、石井くんは、俯いたままだったが、

「俺、迷惑かけないようにもっと頑張ります。」

と私の方を見て、力強く言った。

「うん。期待してる。」

彼は、きっと成長する。そう感じる眼差しだった。
その日は、会社に戻って報告を済ませ静かに終わった。
それから約束の日までは、浮つくどころか――浮つく余裕すらないまま過ごすことになった。

《6》
約束の日――。私は、普段なら絶対に帰らない時刻に会社を出た。
石井くんが「えっ」という顔をしていたけれど、そんなに意外だったのだろうか。

十九時少し前、品川駅に着いた。
行き交う人の波はいつも通りで、以前高輪口にあった SHINAGAWA GOOS はもうない。
再開発で新しいビルが建つらしい。
同僚たちと GOOS のテラスでお疲れ様会をしたのは、もう何年前だっただろう。
そんな思い出を思い浮かべながら階段を降りると――
正面に、彼が立っていた。

「川田さん!!」

お互い視線で認識しているはずなのに、大きな声で私を呼ぶ。
その声に、胸が少しだけ高鳴る。
"浮かれるな。私"
私は、気を引き締めるように自分を諫めながら、笑顔で彼の方へ向かった。


高輪口を出て、五分ほど歩いたところにあるイタリアン。
こんな場所に、こんなお店があったんだ――そう思わせる佇まいだった。
ビルの一階には、ピザの写真が大きく貼られた看板。
中に入ると、大きなカウンターと、いくつかの半個室。
カジュアルだけれど、崩しすぎていない感じが心地いい。
コンクリートの中庭が見える半個室に通された。

メニューを見ると、やっぱり“ワイン推し”だよね、と思う。
ワインは悪酔いするからあまり得意じゃない。
でも、きっと彼の周りの子たちは、こういう店でワインを
飲むのが“普通”なんだろう。
私は迷わず、メニューの下にひっそり載っていた「クラフトビール」を
選んだ。
彼は、クラフトビールの下にあった「シードル」を頼んだ。

「乾杯」

オシャレなお店で、男性と二人きりで向かい合って飲む。
これって、たぶん“デート”なんだろう。

こんな感じは、いつ以来だろう。
私はいつも、遠慮してノンアルコールを飲んでみたり、
好きでもないカクテルを頼んでみたり、
“彼氏”という存在に気を使いながら過ごしていた気がする。
でも、今、彼を目の前にした私は、迷わず「ビール」という
いつもの選択をした。
出会い――いや、あれは再会になるのか。
あの立ち飲み屋での再会で、私は自分の日常という“素”を見せている。
だから、取り繕う必要がない。
その気楽さが、心地よかった。

他愛のない会話が続く。大学のこと、就職のこと。
彼の話は、私の過去と比べてもどこか眩しく感じられた。
会社にも大卒の子は入ってくるけれど、ここまで偏差値の高い大学からの
入社は聞いたことがない。

私の所属する部門に大卒の子が来たのは――最後は「石井くん」だったか。
ふと、石井くんの「えっ、主任もう帰るんですかっ?」という、あの寂しそうな顔が思い浮かんで、思わず笑ってしまった。

「え、どうされたんですか?」

私が突然笑ったことに、彼はすぐ反応した。

「ごめんなさい。普段あまり早く退社しないから、
 今日早く帰るって言った時の職場の反応を思い出しちゃって」

“特定の誰か”を思い出した、なんてことは言わない。

「そうなんですね。やっぱりいつも遅くまで仕事されているんですね」

彼は、労わるように優しい口調で言った。
どうしても仕事の話になると、昔の記憶が甦る。
今まで良い顔をされた記憶がなかった。

「そんな遅くまで会社に尽くして」
「仕事優先で何が楽しいんだ」
「お前は、どうせ今日も仕事だろ」

数々の暴言とも罵声とも取れる言葉を受けてきた。
それは私が選んだことなんだから、しょうがない。
それが、私なんだ――。それが私の出した結論だった。

「寂しくないんですか?」

ふいに彼が、ぽつりと呟いた。
その一言で、胸の奥に押し込めていた感情が一気に噴き出した。

"仕事は楽しいから大丈夫"
"でも、寂しくないわけがない"
"そんなこと、わかってもらいたいと思わない"
"自由にさせて"

涙が一筋だけ流れた。
ほっておいてほしかったのか
構ってほしかったのか
――自分の感情なのに、私には分からなかった。

彼は慌ててバッグからハンカチを取り出し、そっと私の頬を拭った。

「すいません。俺が生意気なことを言ったから…」

彼は狼狽していた。
面倒くさい女だと思われたかな――

「ごめんね。やっぱりさ、仕事優先でこれまでやってきたから……
 寂しいとか思ったことはなかったけど、さとしくんに改めて
 そう言われたら、わけわからなくて涙出ちゃった」

たぶん、取り繕ってはいない言葉だと自分でも思いながら口にした。
彼は何かを察したのか、複雑な表情を浮かべながら、
もう一度涙を拭おうとしてくれた。
私は「もう大丈夫」と言って、自分のハンカチを取り出した。

「川田さん、俺……川田さんの支えにはなれないですか?」

彼は意を決めたように、まっすぐこちらを見てそう言った。

《7》
「支えになれないですか」

その言葉を、私はどんな気持ちで受け取ったのだろう。
ただ一つ分かるのは、「なぜ」という感情。

「支えるって……あなたが? 私を?」

声は少しくぐもっていたと思う。
それでも、目線を逸らすことなく彼は言った。

「自分が力不足なのは分かっています。
 でも、“川田さん”の支えになりたいんです。」

真剣なのは伝わってくる。
その気持ちは嬉しいと思った。
けれど、それ以上に私の中に溢れ出す“嫌な感情”があった。
理性を精一杯振り絞って、感情を抑えながら言葉を選んだ。

「さとし“さん”は、私の何を知っているの?
 どんな仕事をして、どんな立場にいるか。」

彼は、少したじろいだ。私は続けて言った。

「あなたは、私の名前も年齢も知らないよね。
 そんな、私のことを何も知らないあなたが、私の何を支えるの?」

これまで、ずっと深入りしないために留めていた言葉を、重ねるように吐き出した。

「私も、あなたのことを知らないわ。
 学校は知っていても、どんな専攻をしているのか、
 どんな友人がいるのか、何も知らない。
 そんな人に、私が自分の何を支えてほしいと思うの。」

いつもと同じだ。
結局、私はこうやって自分に防衛線を張って、相手を拒絶する。
傷つけられる前に、距離を置いてしまう――。

「じゃあ、貴方のことを教えてください。
 僕は、これまで貴方との関係が心地よくて……
 ずっと踏みとどまっていました。
 でも、それじゃダメなんだって気づきました」

真っすぐな目だ。偽りのない純粋さ。
そのまっすぐさが、これまで私を心地よくさせてくれていた。
でも――。

「ごめんなさい。今はもう考えられない……。
 少し冷静にならないとね……。ごめんね」

私は財布からお金を出し、そっとテーブルに置いた。

「いや、ここは僕が……」

彼の言葉を遮るように、ただ首を振って店を出た。
彼は、それ以上なにも言えず、私の方を見つめていた。

品川駅へ向かう道、涙を拭きながら前を向いた。
一回り以上離れた男の子に、あんなふうに感情を剝き出しにして。
なんて情けない大人なんだろう――私は。


週明け、私は大阪へ向かう新幹線の中にいた。
隣の席には、石井くんが座っている。
発注ミスで迷惑をかけた工場へ、今後のためという名目で訪問することになった。
ついでに、普段は直接会えない顧客回りも兼ねて――。

気分は最悪だった。
仕事に影響が出ないよう、週末に気持ちを切り替えようとあれこれ試したものの、大した効果はなかった。
暗澹とした気持ちを引きずったままだった。

事前のWEB会議で謝罪は済ませており、工場の担当者も理解を
示してくれていた。
だからか、訪問自体に重苦しい空気はなく、形式的なものと
言えるのかもしれない。
そのせいか、石井くんは前回の顧客訪問の時よりも元気な様子で、
私にスケジュールの確認をしてくる。
「今日は先方の工場に伺って、そのあとアポイントが取れている
 顧客の会社を二件回るんですよね。
 明日は、アポイントが午後からになっちゃいましたから、
 少しゆっくりできそうですね」
出張が多い仕事ではないから、石井くんが浮かれる気持ちも分かる気がした。
だから、彼の楽しげな様子に水を差す気持ちにはならなかった。

「工場に伺ったあと、すぐに回るから、昼食の時間はないよ」

水は差さないけれど、ささないけれど、注意は必要だ。

「そうですね。そう思って、東京駅でお弁当を買っておきました」

石井くんのこの元気さが、少しだけ私の気持ちを軽くしてくれた。

大阪駅に到着し、タクシーで工場へ向かう。
東京と変わらない気温と湿度に少し辟易しながら、
カバンから訪問時に渡す包みを取り出した。

「わざわざお越しいただきありがとうございます」

工場では、社長と工場長、担当の方が出迎えてくれた。
一通り謝罪を述べ、虎屋の羊羹を渡す。

「高級品じゃないか! 申し訳ないね、気を使ってもらって」

社長は一気に上機嫌になった。
こういう時、何を渡すかで反応は随分と変わる。
今回の選択は、成功だったと言えるかもしれない。

工場での面談は終始和やかな雰囲気だった。
その後の顧客回りも恙なく終わり、ホテルにチェックインした。
フロントで時計を見ると、二十時少し前だった。

「石井くん、私会社に報告のメール入れるから、ご飯は各自で食べましょう」

そう言ってルームキーを受け取り、エレベーターへ向かった。

"ちょっと素っ気なかったかな……。"

別にメールなんて、10分もあれば終わる作業だ。
ホテルの周りには飲食店がいくつもある。
一緒に夕食くらい行ってもよかったのかもしれない。
そんなことを考えながら部屋に入り、
荷物からPCを取り出して報告メールを書き、送信ボタンを押した。
時計を見ると、二十時を少し回ったところだった。
やはり、大して時間はかからなかった。
少し考えてから、スマホを手に取り電話をかける。

「あ、主任お疲れ様です。どうされました?」

「メール送付終わったから、まだ夕食食べてないなら一緒にどうかなって」

「本当ですか! 自分、今シャワー浴びたところなんで、すぐ用意します!」

あ、シャワーか……。
電話を切ったあと、ふと思った。
確かに一日中歩き回っていたのだから、シャワーを浴びてもよかった。
でも、食事に行くのに時間がかかるし、何より化粧が落ちるのは勘弁してほしい。
そう思い直し、少し荷物を整理してからロビーへ向かった。

《8》
ホテルのすぐ近くにある居酒屋――。
同僚と夕食を取るなら、結局のところ居酒屋がいちばん便利だ。
飲み物も食べ物も種類が多く、誰の好みにも左右されない。
私たちはビールと、思い思いの料理を注文した。

「お疲れ様。」
「お疲れ様です。」

軽くグラスを合わせる。
その小さな音だけで、今日の疲れが少しだけ和らいだ。
ビールが喉を通る心地よさが、昼間の暑さを癒してくれる。
石井くんは一杯目をあっという間に飲みほし、すぐさま二杯目を注文した。

「明日も仕事なんだからね。少しは自制しなさいよ。」

自分でも小姑みたいな台詞だと思いながら、彼のペースに釘を刺す。

「大丈夫っす。自分、お酒は強いので」

にかっと会心の笑みを浮かべる。
確かに、会社の飲み会だけじゃなく、彼が落ち込んだ時に
飲みに行ったことも何度かあるが、
前後不覚になった姿を見たことがない。
それどころか、どれだけ深酒をしても翌日にはいつも通りの笑顔で会社にいる。
“ザル”というやつなのだろう。

いくら同僚とはいえ、ずっと仕事の話を続けるのもどうかと思い、彼の趣味について聞いてみた。

「自分、写真撮るのが好きなんですよ。
 休みの日はカメラ片手にいろんな場所へ撮影に行くんです」

少し意外だった。
彼はいわゆる“陽キャ”の部類だと思っていたので、休日は友人たちと集まって盛り上がるタイプだと勝手に思い込んでいた。

「そうだ。今年の春に浜離宮へ行った時の写真、見ます?」

浜離宮――広大な庭園だった記憶があるが、休みの日にわざわざ足を運ぶ場所としては、私にはあまり馴染みがない。

「そうなんだ。それは見てみたいな」

そう答えると、彼は向かいの席から立ち上がり、私の隣に腰を下ろしてスマホの画面を開いた。
思わず身体が少し硬直したが、画面に映し出された菜の花や梅の花の鮮やかさに、すぐに目を奪われた。

「綺麗だね……スマホで撮ったの?」
「いや、これはデジイチで撮ったものをダウンロードしたんです。」
「デジイチ?」
「あ、デジタル一眼レフカメラです。」

ちゃんとしたカメラを持っているらしく、本格的な趣味のようだ。
一通り写真を見せてもらうと、彼は元の席に戻った。
そこからは、彼が撮影に出かけた場所の話や、そこでのちょっとしたエピソードを肴に、二人で大いにお酒を酌み交わした。

自分の中にあった暗い感情を吹き消すように、お酒をぐいと煽った。
それは“やけ酒”とは違う。誰かがいて、ただ楽しく飲めるお酒だった。

店を出て、ホテルまでの道、隣を歩く石井くんを見た。
いつも笑顔を絶やさない。少し頼りない後輩だと思っていたが、
今日の工場の段取りや顧客への対応を見ても、一人前と言える成長を見せていた。
安心して任せられる同僚なんだと思えた。
ホテルへ向かう途中、コンビニに寄った。
私はお茶を買うついでに、赤ワインのボトルとチーズを手に取った。

「主任、まだ飲むんですか?」
「あなたの部屋で飲み直すのよ。もう少し付き合いなさい。」

自分の部屋には、帰ったらすぐシャワーを浴びるつもりで、あれこれがベッドの上に置きっぱなしだ。
それを見られるのは、さすがに避けたい。
そして――もう少し、一人ではない時間が欲しかった。


石井くんの部屋。
よく考えると、男性の部屋を一人で訪れるのは何年ぶりだろう。
とはいえ、お酒片手の色っぽさとは無縁の訪問だ。
部屋の広さは自分の部屋と同じで、テーブルはない。
私たちはそれぞれベッドに腰を下ろし、木製のラゲッジラックの上にワインとチーズを置いた。
コップは……まあ、湯呑で我慢か。
お酒を飲んでいる間は楽しい気分でいられたけれど、
一人で部屋に戻ったときの反動が怖かった。
だから、酔いつぶれるためにワインを選んだ。

「乾杯〜」

自分のテンションが少し上がっているのが分かる。
湯呑に注いだ赤ワインは、どこか薄く見えて、わずかに渋さを感じた。
その渋みをチーズで紛らわせながら、私は陽気に話し続けた。

「だから、部長は〜…」
「ははは、そうですよね。絶対そうでしたよね。」

楽しい。素直にそう思えた。
赤ワインはみるみるうちに減っていく。

「もう少し飲みます?」

湯呑にボトルを傾けたとき、数滴しか落ちなかった。
その瞬間、石井くんがそう言って立ち上がり、財布を取ろうとした。
私は反射的に彼の腕を掴んでいた。

「いかないで…」

寂しいと思った。
すぐそこのコンビニなのだから、すぐ戻ってくるのは分かっている。
それでも、行って欲しくないと思った。
その瞬間、彼は私に覆いかぶさってきた。
私は抵抗しなかった。ただ目を閉じた。
彼は、そっと私の唇に自分の唇を重ねてきた。

――翌朝
私は、石井くんのベッドで目が覚めた。
隣では、彼が静かに眠っている。
床に散らばった自分の下着を拾い上げ、身につけた。
最低だな…。

……なぜか、涙が止まらなかった。
電話の横に置かれたメモに走り書き残し、部屋を出た。
自分の部屋に戻り、シャワーを浴びながらも涙は止まらなかった。
あの人のことを思い出し、胸が締めつけられる。
なんて身勝手なんだろう。
私は、あの人の想いに応えられるような人間じゃない…。

《9》
シャワーを出た後、身支度を整えてからPCを立ち上げる。
上司から届いていたメールを確認し、受領の旨と今日のスケジュール、帰社予定時刻を返信した。
作業中も、頭の中だけはもやが晴れない。
この後、否が応でも石井くんと顔を合わせる。
どんな表情で向き合えばいいのか。
彼は、私をどんな目で見るのか。
考えたところで答えは出ないと分かっているのに、
浮かんでは消える思考が、胸の奥をじわじわと占領していく。
考えても仕方ない――
そう思い込むように息を吐き、PCを閉じた瞬間だった。
部屋の呼び鈴が鳴り、心臓が跳ね上がる。
反射的に扉の方へ目を向け、壁の時計を見ると、ちょうど10時になっていた。
彼の部屋に残したメモで約束した時間だ。
胸の奥がざわつくまま、恐る恐るドアノブに手を掛ける。
正直に言えば、まだ心の準備なんてできていない。
それでも意を決してドアを開けると、石井くんが立っていた。
少しぎこちない笑顔で、

「おはようございます。」

と声をかけてくる。
私はまともに顔を見ることができず、
「おはよう…。」と返すのが精一杯だった。
まだPCを出したままだったので、いったん部屋に入ってもらう。
心臓の鼓動がうるさくて、自分の声までかき消されそうだ。
耳鳴りがしそうなほどだった。

「あの、主任…。」

石井くんが、申し訳なさそうに口を開く。
視線が揺れているのに、言葉だけはまっすぐだった。

「すみませんでした。
 自分、こんなことになってしまって……。
 ただ、気持ちが何もなかったわけじゃないんです。
 それだけは、わかってほしくて。」

誘ったのは私だ…。彼が謝る必要は何もない。

「こちらこそ、ごめんね…。
 私が誘ったようなものだから、そんな気に留めることはないよ。」

ほんの少し…本当にほんの少しだけど、彼の言葉で心は楽になった。
石井くんは、私を見て

「今回のことは、申し開きはできないと思っています。
 でも……俺、前からずっと主任に憧れていました。
 ただ、まだ自分が横に立てる人間だと思えていなくて……」

そこで一度、彼は息をのみ、視線をそらさずに続けた。

「だから……時間をいただけませんか。
 ちゃんと、貴方の横に立てるようになったら——
 そのとき、告白するチャンスをください。
 今回のこと……後悔させないようになりますから。」

力強い言葉だった。
そして、その言葉が本気であることが、ひしひしと伝わってきた。

「ありがとう……。
 私も、ちゃんとあなたと向き合えるように、頑張る。」

いくつもの言葉が浮かんでは消えて、結局それしか言えなかった。
石井くんのことも、さとしくんのことも——
私は、私には勿体ないほどの情熱を、二人から与えられている。
だからこそ、逃げてはいけない。
自分自身と向き合わなければ。
そう、静かに心の中で決意した。


出張を終えてから、石井くんの仕事への姿勢は目に見えて変わった。
これまでは誰かの補佐に回ることが多く、自分が主担当でもどこか他人に頼るようなところがあった。
それが今では、自ら先頭に立ち、仕事を動かす側に回っている。
部長も「石井は、今回のミスで一皮むけたな……」と感心していた。
私と組む機会は減り、少し寂しさもあった。
それでも彼は、以前と変わらない笑顔で話しかけてくれる。
その快活さは相変わらず眩しかった。

そんな日が続いたある日、私は部長に個室へ呼び出された。
特にミスをした覚えはない。
上司に呼ばれるというのは、理由が分からなくても落ち着かないものだ。

「石井のことなんだが、マニラの現地工場立ち上げに出向させようかと
 思うんだけど、どう思う?」

我が社の近年最大のプロジェクト——海外生産拠点の立ち上げ。
業績が伸びる中で、ついに執行部が動いた一大型案件だ。
ここに抜擢されるのは将来の幹部候補だと、社内でも噂で持ちきりになっていた。

「石井は、前はどこか他人任せで頼りない印象だったが、
 ここ最近は自分で仕事を回して、いくつも大きな案件を獲ってきている。
 ミスはあったが、将来性があると役員も推している。」

すごいことだ。
素直に驚きながらも、胸の奥に小さな痛みが走った。

「そうですね……。悔しいですけど、彼は適任だと思います。」

胸の痛みを押し隠しながら、私は素直に答えた。
部長はうなずき、すぐに石井くんを呼び出した。
会議室に部長と私。
入室した石井くんは、状況を察したのか、わずかに身体を強張らせる。

「石井、お前、マニラの工場立ち上げの件は知っているな?」
ドアが閉まるのを待って、部長が問いかけた。
「はい。社内でも噂は持ちきりなので……」

少し安堵したような声で石井くんが答える。

「お前、そこで立ち上げメンバーとして半年マニラに行けるか?」
「え……。」

戸惑いが一瞬だけ表情に浮かんだ。
突然の話なのだから当然だ。
だが、彼はすぐに姿勢を正し、

「行かせてもらえるなら、ぜひ挑戦させてください!」

と、間髪入れずに答えた。
"すごい"
私は、彼の反応を素直に称賛するしかなかった。

――その日の夕方。
石井くんは休憩室に私を誘い、冷たい缶コーヒーを手渡してきた。

「俺、このプロジェクトがすごい成長のチャンスだと思ったんです。」

いつもの笑顔ではなく、真剣な表情で。
まっすぐな眼差しを向けながら続けた。

「このプロジェクトをやりきったら、すごい成長できると思う。
 主任……この前俺が言ったこと、覚えてくれていますか?」

覚えていないわけがない。
あの時の言葉を軽く扱うようなことはしない。

「うん……」

戸惑いながら答えると、彼は一歩踏み込むように言った。

「俺、がっつりやって、貴方の横に立てる自信をつけてきます。
 その時は……俺にチャンスをください!」

“がっつりやって”という言い回しがいかにも彼らしくて、思わず笑いそうになった。
普通なら“告白をします”だろうに、“告白のチャンスをください”という言葉も、彼らしい。

「分かった……」

笑いをこらえながら答えると、

「主任!俺、まじめに言ってんすよ!」

と、冗談めかして責めてくる。
そのやり取りが、やっぱり彼らしいと思えた。
その日からちょうど一月後、石井くんはマニラに旅立った…。

《10》
石井くんがマニラに出発する二週間前。部内で送別会が開かれた。
いつもは端の席に座り、会が始まると、黙々とお酌をして回る石井くんも、
今夜ばかりは会場の真ん中に座らされ、次々と注がれる酒を受けている。

――将来の幹部候補。

今回の異動は、会社の彼への期待を形にしたようなものだ。
部内でも、彼を見る目は確実に変わったと思う。
そんな彼を遠目に眺めながら、彼との会話を思い出していた。

「主任、なんでボーっと飲んでるんですか!」

お酌攻勢がひと段落した隙をついて、石井くんが私のところへやってきた。
手にしたビール瓶を軽く傾け、注ぐ仕草を見せる。

「新卒だったあなたが、こんなに立派になったなって思ってただけよ」
「ハハハ、本当、逞しく鍛えてもらいました。まだまだ頑張りますよ!」

そう言うと、あの時の会話を忘れていないと言わんばかりにウィンクをしてきた。
心臓がキュッと縮むような感覚に襲われ、私は慌てて、

「向こうでホームシックにならないようにね」

とだけ返した。
その後も宴会は続き、やがてお開きとなった。


京急川崎駅へ向かう電車の中――。
男性陣は、これから女性のいる店に行くような話をしていたので、
私は早々に抜けさせてもらった。

ふとスマホを見ると、着信履歴があった。
さとしくんからの着信だ。
初めて電話をくれたあの日は、私が仕事を終える時間を気にしてくれていた。
でも今回は、送別会が始まる頃の時間だ。
電車はちょうど京急蒲田駅に着き、停車していた。
逡巡して、折り返そうかと一瞬考えたけれど――
川崎まですぐだ。
そう思い直し、スマホをそっとしまった。
再び動き出した電車の中で、私は考えていた。
あれからもう二ヶ月近くが経つ。
私は、彼に冷たい言葉を並べて、その場から逃げた。
彼に支えてもらうという選択肢も、もしかしたらあったのかもしれない。
ただ、それ以上に――私のことをまだ知らない彼に身を寄せることが、
どうしようもなく不安だった。

「ふぅ…」

流れ良く外の景色を眺めながら、ただ、ため息が漏れる。
彼のまっすぐな気持ちは、本当に心を洗われるようで、眩しい。
でも、それは彼の若さゆえの魅力でもある。
それは、石井くんにも言えることだ。
この二人から好意を向けられている自分が変わらなければ、
答えはきっと導き出せないのだろう。


電車は京急川崎駅に到着した。
構内を歩き、改札の外へ視線を向けると――彼が立っていた。

「川田さん、急に押しかけるみたいになってすみません。」

さとしくんは、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ううん、大丈夫。電話、折り返せなくてごめんなさい。
 今日は会社で飲み会があって、確認できなかったの。」

冷静に返しながらも、心臓は早鐘を打っていた。
まさか直接来るとは思っていなかった。

「川田さんと、少しお話がしたくて…」

私は周囲を見回し、近くのオープンバーへ彼を誘った。
席に着くと、二人ともノンアルコールを注文した。
彼の眼差しから、これからの“話”は真剣に聞くべきだと分かったから。

「先日は、自分の気持ちばかり優先してすみませんでした。」

彼はまず謝罪から切り出した。

「そんなことないよ。私も感情的になってしまって…ごめんね。」
時間が空いたことで、冷静に彼の言葉を受け取れるようになった――私はそう感じた。

「あの後、自分が言ったこと、川田さんが言ったこと、
 ずっと考えていました。
 言われた言葉の意味が分からないとかじゃなくて、
 自分はどうすればいいのかって。
 気持ちは本気なんです。だから…」

以前と変わらないストレートさの中に、私への配慮が滲んでいる。
それが素直に嬉しかった。

「俺は、川田さんのことをもっと知りたいと思ったんです。」

彼はまっすぐに私を見つめて言った。

「今、川田さんに大切な人はいますか?」

不意の質問だった。
石井くんの顔が浮かばないと言えば嘘になる。
でも、それが確かな“何か”かと言われれば、まだ分からない。

「今はまだ分からない。そんな気持ちがあるのは確か。
 ごめんね、こんな言い方しかできなくて。」

私は、偽りのない気持ちを伝えた。
彼のまっすぐさには、誠実に応えたいと思ったから。

「その相手が自分であってほしいとは思いますが…
 そこまで自惚れるほど能天気じゃないんですよね。」

彼は少し自嘲気味に笑った。

「この前のやりとりがあってから、自分がいかに子供だったか痛感してて…
 社会も知らないのに、川田さんの何かを支えようなんて…ないなって…」

会わない間、彼はずっと悩んでいたのだろう。
そう思うと、胸が締めつけられるようで――私はなんて残酷なんだろうと感じた。

「わ…」

私が言葉を返そうとした瞬間、彼が先に口を開いた。

「俺、春から社会人になります。
 一年や二年で川田さんの気持ちが分かるようになるなんて、
 きっと無理です。
 でも、死に物狂いで働いて、胸を張って川田さんの前に立ちたい。
 そう思っています。」

彼の目はその決意が本気であることを物語っていた。
悩み続けて出した答えなのだと分かった。

「なので…それまで待っていてもらえませんか?」

真剣な眼差し。茶化す余地なんてない。
でも――。

「さとしくん…一年も二年も、あなたを待つっていうのは…
 さすがに約束できないよ。
 気持ちは嬉しいけど、今はそうとしか言えないよ。」

最後の言葉は、自分への保険。
なんて情けないのだろう。

「それで大丈夫です。言質取ったなんて思いません。」

ここまで来ても、彼は清々しいほど真っ直ぐだった。
そう思った――のに。

「たとえ一年、二年先に川田さんに良い人がいても、
 俺が奪えるようになってみせますから!」

……思ったのになぁ、と私は心の中で呟いた。
それと同時に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。

「そっか…でも、その間にさとしくんの方に良い人ができる可能性
 だってあるでしょ。」

気持ちを保ち続けるのは重労働だ。
それを年単位で続けるなんて、本当に大変なことだ。
少し気持ちを落ち着かせたくて、私はそう言った。

「今は、ないと断言しておきます。
 いつか…あなたの前に胸を張って立てたら、
 その時はあなたを名前で呼びますね。」

まっすぐな目で、彼は少し笑い顔を見せてそう言った。
少し意地悪な気持ちが胸をかすめたけれど、素直に応えることにした。

「そう。私は、川田美奈。名前で呼びたいなら、知っておかないとね。」

笑顔でそう返した。
店を後にして、彼と並んで歩いた。
駅までの道を歩きながら、私は考えていた。
私はどうすればいいのかな……。
暗くて先の見えない道、
これからの自分を思い描いていた。

《11》
春が来た。
駅から会社へ向かう道沿いにもソメイヨシノが咲き誇り、
ただそれだけで気持ちが少し明るくなる。
去年の同じ頃、私はどんな気持ちで歩いていたのだろう。
桜を見る余裕もなく、ただ会社へ向かっていた気がする。

夏にさとしくんと出会い、私は大きく揺さぶられた。
今までになかった年下からのアプローチに浮かれたり、
電話のたびにソワソワしたり……
まるで少女のように“恋の予感”にときめいていた。
そんなときめきも、結局は自分の“意地”のようなプライドが邪魔をして、
私は彼を拒絶してしまった。
そして私は、勝手に傷つき、その寂しさを紛らわせるように
石井くんに身を寄せた。
そんなフラフラしている私に、
石井くんもさとしくんも、ありったけの好意を向けてくれた。
それは本当に嬉しかった。
でも同時に、私自身が変わらなければいけないとも強く思った。
たとえ、彼らが私を見限ってしまうとしても私は少しだけ先へ進まないといけない。


仕事は相変わらず多忙だった。
それでも周りの助けがあって、私は与えられた役割を
きちんと果たせていた。
そんなある日、部長との昼食中に

「川田、最近ずいぶん丸くなったな」と言われた。
「私、そんなヤバそうな人でした?」

恐る恐る尋ねると、部長は笑って首を振った。

「いや、そういう意味じゃない。
 前はどこか“自分がやらなきゃ誰がやる”って意地になっているように
 見えたんだ。でも今は、周りをよく見て仕事ができていると思うよ。」

言われてみれば、そうなのかもしれない。
以前の私は、仕事が楽しくて、手放すことすら惜しんで
全部抱え込んでいた。

「それは……あると思います。」
「今の気持ちを忘れずにやれるなら、
 近いうちに“島”を任せるのも悪くないな。」

部長は満足げにそう言った。
その言葉は、私に足りなかったものをひとつ教えてくれた。

部長の言葉どおり、私は下半期から課長に昇進した。
これまでのように自分で仕事を進めるだけではなく、
部下たちにどう動いてもらうか、この仕事の楽しさをどう伝えるか――
そんなことを考えながら働くようになった。
私の昇進と、新しい“課”の発足を祝う飲み会が開かれた。
課員たちは口々にお祝いを言ってくれる。
「川田課長、主任のときはちょっと近寄り難かったんですよ」
「でも、仕事をすごく分かりやすく教えていただいて……」
いろんな声が聞こえてきて、胸の奥がじんわりと温かくなった。

これまでの私は、どこかで壁を作っていた。
ここから先に踏み込まれたら、今まで積み上げてきたキャリアが
壊れてしまうんじゃないか――そんな不安をずっと抱えていた。
そんな私を、彼らは一歩先へと踏み出させてくれた。
私は、並んで歩ける人を選びたい。
支えてくれる人でも、守ってくれる人でもなく——
一緒に歩ける人を。
私の気持ちは、決まっていた…。


木枯らしの吹く街角。
私は一人、カフェの席で彼を待っていた。
約束の時間、さとしくんは少し緊張した面持ちで姿を見せた。

「お久しぶりです。突然呼び出されたので、何かと……」
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いえ。それで、大事なお話があるって」

さとしくんの緊張が痛いほど伝わってくる。
私は彼の眼をまっすぐ見て、言葉を選んだ。

「私、この一年ずっと考えていたの。
 自分がどれだけ優柔不断で、頑固だったか。
 だから、ずっと答えを出せずにいた」

彼の喉が小さく動く。私は続けた。

「私には、思ってくれている人がいます。
 そして、その彼がいたから、私は変われたと感じている。
 彼と共に並んで歩みたいと思えたの。
 だから」

続きを言おうとした瞬間、彼が静かに言葉を重ねた。

「呼ばれたときから、そうじゃないかと思っていました。
 全部言わないでください。振られる覚悟はしていましたから……」

笑顔だった。
少しの沈黙のあと、彼のホットコーヒーが運ばれてきた。
彼はそれを一口飲むと、

「その相手の方は……
 いや、その人は、あなたと共に歩める人なんですか?」

と、穏やかな笑顔で言った。

「うん。」

私は迷わず答えた。
それを聞いた彼は、どこかすっきりした表情で、

「あなたが幸せになれるなら……悔しいけど、あきらめます。」

そう言って、コーヒーをもう一口飲んだ。

「あぁ…やっぱり悔しいなぁ…。」

さとしくんは、俯いきながら、そう漏らした。
心にチクッと針を刺されたような、そんな痛みがした。

――カフェの前
お互い、それ以上多くを語ることはできなかった。
さとしくんは「それじゃあ!」とだけ言って去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は涙を流していた。
そして、小さく、

「ありがとう」

と呟いた。


丸の内仲通りから見る夜の東京駅は、とても綺麗だ。
私は、その景色の中にただ立っていた。

今日、彼=石井くんは帰ってくる。
何の確証もなく、まだ自分の自信も半信半疑。
石井くんが私を受け入れてくれるかどうかなんて、わからない。
不安で押しつぶされそうな気持ちを抱えたまま、駅の方を見る。
人影がこちらへ向かってくる。
心臓の鼓動が少しずつ早くなる。
その姿は、間違いなく彼だ。
距離が縮まるほどに、胸の奥で鼓動が跳ねる。

「――美奈、ただいま!」

石井くんは両手を広げ、とびっきりの笑顔で私を包み込んでくれた。

~FIN~

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