物語 ~ある恋の物語①~
先日、スプレッドシートを整理していたら、すっかり存在を忘れていた“ほぼ完成しているお話”が出てきました。
連続投稿が50回を超えた節目でもあるので、それなりに長いお話を少しずつ分けて公開していこうと思います。
①立ち飲み
初夏の夜。
終電ぎりぎりの電車で品川から帰り着き、京急川崎の改札を抜けた瞬間、お腹の底がぐうと鳴った。
空腹というより、今日一日の疲れが形を変えて押し寄せてきたようだった。
「この時間だと、チェーン店かしら…」
そう思いながら歩くが、どの店も決め手に欠ける。
アーケードを外れた路地で、立ち飲み屋の灯りがぽつんと浮かんでいた。
「ここでいいか」と、吸い寄せられるようにカウンターへ。
「生とカシラ。それから煮込みとハムカツください」
残業の夜は、こういう食事に落ち着くことが多い。
自分への言い訳を胸の内でつぶやきながら、生ビールと煮込みをカウンター越しに渡される。
悲しくなるほど、ささやかな夕食だ。
カウンターでは、老紳士たちがすでに出来上がり、楽しげにグラスを合わせていた。
横にはビールケースを積んだだけの簡易テーブルがあり、中年の男女が寄り添うように座っている。女性の艶やかな服装に、「同伴だろうか」と勝手に邪推をしてしまう。
「あいよ、ハムカツとカシラね〜」
差し出された皿には、立ち飲み屋で覚えた味「カシラ」と、毎回欠かさず頼む「ハムカツ」。薄いハムを何枚も重ねて揚げた、あの懐かしいジャンクさ。
それを一口かじり、ビールを流し込む。
一日の疲れが、喉を通る泡と一緒にどこかへ消えていく。
撮り貯めして、週末に一気見している『孤独のグルメ』のように心の中で解説を考えていたそのとき、背後から声が——
「あの〜、川田さんですよね」
その声に、思わずビールを吹き出しそうになった。
こんな深夜の立ち飲み屋で名指しされるとは思わず、反射的に振り返る。
そこには、すらりとした若い男性が立っていた。
・・・
「あ、〇〇の……」
〇〇は、先日、部長と“サシノミ”をした帰りに寄った、部長お気に入りのBar。
普段はほとんど行かない世界だけど、その日は流れで席についた。
彼は、そのとき私の目の前に立っていたバーテンダーだ。
「覚えてくれてたんですね。嬉しいです」
弾む声がまっすぐ届く。
だが、申し訳ない。
名前まではどうしても思い出せない。
「ごめん、名前……なんだっけ」
正直に言うと、彼は一瞬だけ固まり、次の瞬間には弾けるように笑った。
「さとしです。顔は覚えてくれてたのに、名前は忘れちゃったんですね」
少しいたずらな笑顔だった。申し訳なさを煽るようだ。
おばさんの記憶力は、期待されるほどのレベルではない。
そういえば、名刺をもらった気もするが…どこにしまったかな?
「ごめんね、今日は、もう帰るつもりだからお店にはいけないよ?」
反射的に口をついて出た。
疲れた夜に、余計な駆け引きはしたくない。
「大丈夫ですよ。今日はオフですから」
彼は軽く笑って言う。
その笑顔が本心なのか営業なのか、判断がつかない。
まじめなのか、ただの癖なのか。
彼は私の横に立ち、
「僕も生ビールとハムカツください」
とカウンターに声を掛けた。
「ハムカツ、美味しそうだったので…」
そう言って、少しだけ頬を緩めた。
その仕草が、思いのほか自然だった。
届いたビールで軽くグラスを合わせ、ふたりでハムカツにかじりつく。
彼のは揚げたてで熱々、私のは少し冷めて食べやすい。
「あっつ、でも美味しい」
そう言ってビールを煽るたび、彼の二の腕が隆起する。
その筋肉の動きが、酔いのまわり始めた視界にゆっくりと滲んで、気づけばぼんやりと見とれていた。
彼が何か話しているのは分かる。
ただ、疲れと酔いが心地よく混ざり合って、言葉が遠くに聞こえる。
「川田さん、聞いてます?」
その声だけは、はっきり届いた。
一瞬で意識が戻る。
「あぁ、ごめん。疲れててさ。ちょっとぼーっとしてた」
そう言うと、彼はまた柔らかく笑い、
「お疲れなんですね。川田さんって、社畜さんなんですか?」
と尋ねてきた。
“社畜さん”という言い方に、若さがにじむ。
「楽しんでやっているから、社畜ってほどじゃないよ」
激務でも、やりがいがある。
搾取されている感覚もない。
「ふ〜ん……不思議な答え方するんですね」
彼は少し考えるように視線を向けてきた。
弱さを見せて寄りかかる、そんな展開を求められているのかもしれないが、そういうのはどうにも性に合わない。
「まぁ、いっか。次はお店の方に来てくださいね」
その一言を残し、彼は自分の分だけをさっと支払って店を出ていった。
ぽつんと残された私は、何杯目か分からないハイボールを飲みながら考える。
普通、こういう場面はこっちが払ってもいいのかな?
そう考えてみると、彼は潔い性格なのかもしれない。
その夜、私が出した結論はそれだけだった。
