準富裕層のリアル
気づけば、同世代の誰かが「資産3000万を超えた」と言い、 飲み会の帰り道では“老後2000万問題”が当たり前の話題になっている。 けれど、ほとんどの人は知らない。 平均的なサラリーマンの収入でも、構造さえ理解すれば、中年にはアッパーマス層に普通に届くという事実を。
運がよければ、準富裕層にも、 なんなら富裕層の入口にだって手が届く。 これは才能でも努力でもなく、ただの構造理解だ。
だからこそ、救いでもあり、残酷でもある。
準富裕層になっても、生活はほとんど変わらない。 徳を積んだわけでも、善行を重ねたわけでもない。 何かを成し遂げたわけでもない。 当たり前のように仕事は続き、上司には叱責され、部下には舐められる。 資産が増えても、人生の手触りは変わらない。
そして、「何も成し遂げていない」という事実はごまかせない。
高級車に乗る勇気もない。 ブランドものも似合わない。 達成感もない。 ただ、なるべくしてなっただけ。
準富裕層という肩書きは、人生の物語を豊かにしてくれるわけじゃない。 むしろ、静かに積み上がった資産が、 「特別なことは何もしていない」という事実をより鮮明に照らしてしまう。 これは救いであり、残酷でもある。
むしろ、資産を積み上げる過程で染み付いた貧乏性は、不治の病のように残る。 コンビニで水を買うときは一番安いものを選ぶし、そもそも水筒を持ち歩くからコンビニには寄らない。 複利を味方につけるために身につけた習慣は、資産が増えても抜けない。
思春期の趣向もそのままだ。 中二病をこじらせたまま、古着のリバースウィーブを集め続けている。 気づけば50着ほどになった。
薄汚れたスウェットは、中年には笑えるほど似合わない。 ただでさえ疲れの滲む顔つきと、重力に逆らえなくなった体つきに、 “薄汚れた古着”を重ねると、途端に「生活に押しつぶされたおじさん」になる。 若い頃なら“味”になった汚れも、中年になるとただの“だらしなさ”に変換される。 古着は若者には似合い、老年にもまた似合うのに、 中年だけはそのどちらの余白も持ち合わせていない。
だから、定年後は毎日違う色のリバースウィーブを着るつもりだ。 その時に合わせる用に、いまはレプリカのデニムを育てている。
結局のところ、趣向なんて思春期から変わらない。 持っていないカラーのリバースウィーブを見つけると欲しくなる。 でも、相場以上の値段では絶対に買わない。 欲望は思春期のまま、判断は中年のまま。 この二重構造が、準富裕層のリアルだ。
資産は積み上がった。 けれど、生活は変わらない。 変わらないまま、ただ静かに時間だけが経つ。 準富裕層とは、そういうところだった。
