『出来ません』を肯定してみた
「これやっといてもらえる?」
「出来ません」
会社の新人に目を合わせてそう言われた。
「あーもうこれ何ゆうても『出来ません』って最終なるやつやな」
仕事でよくある新人あるある。断った新人側が悪く言われがちですが指示を出した上司側にも問題はある。
「相手が100悪いってゆうたら何も変わらんし、こっちが悪いとこはどこやろか。」
この「出来ません」を全て肯定したとしたら責任は上司側なのでは。こんな考え方の話だ。
1、【1から10まで全てやって。
説明書も渡さずこんな言い方はしてないだろうか?
料理を普段しない人に完成品だけ見せて「次はこれ作ってね」そう言われると
「出来ません」そう言わざるを得ない。
次に「失敗」を責めてはいないか。忙しいときに先輩がやってしまいがちな「あ、もういいわ!こっちでやっとくから」仕方なくやった事でもこう言われると堪える。】
2、【怖くて「出来ません」と言わせてることはないか
最後に、それが出来てしまうと、責任を押し付けられるんじゃないか。
そう感じさせられること。
仮に会社でPCの修理が出来る人が一人なら、全部をその人に押し付けることになるだろう。
出来てしまうとそればかり押し付けられるんじゃないか。
それが嫌になる。
いつの時代も「新人の考えることはわからない」上司も新人だった頃はそう思われたことがあったはずだ。】
解決策はある。
「新人の考えることはわからない。」と、
言われて嫌だったことをついさっき、新人にしてしまうところだった。
1から10まで、とは言わず3までやったら確認させて。
こういえばハードルはかなり下がる。
それを積み重ねて10までやって貰えばいい。
次に仕事ができる自分を「正義」としていないか。
「新人が育たないと困る」それをわかりながら、自分でやってしまっていないか。
さらに新人が失敗すると自分に跳ね返ってくるのをめんどくさがってはいないか。
最後に、PC修理が一人だけ出来たなら「二人いればもっといいよね」と思いながら「自分には出来ないけど」と同じことを言っていた結果が現状。
「そうだ、新人に押し付けよう」そう上司側はなっていなかったか。
新人の「出来ません」を「いやぁそれはちょっとおかしいで。なぁそう思うやんな?」と、同僚を味方につけ、数で自分の主張を押し切ったことはないだろうか。
「客観的に考えたらこっちの非が大きく感じるな。」
新人だったころの「洗礼」として理不尽を受けて来た。
「もう洗礼みたいなんやめて、こっちができることやってみよか」
