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【学園アイドルマスター】篠澤広のサンフェーデッドが美味しすぎる件について

サンフェーデッダーの諸君、ご機嫌麗しゅう。
この時分どうお過ごしであろうか?
私はと言えば来たる毒ガス訓練に向けてサンフェーデッドをうめ…うめ…している今日この頃である。
結論から言おう、この歌「美味すぎる」のだ

「天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、サンフェーデッドなり」と、かの紀貫之も仮名序に記していることは非常に有名famousであり、もはや言及するところには値しないだろう。

この歌を聴けば、大きいうねりの中に篠澤広がぽつんと佇んでいて、それでいて決してそのうねりに飲み込まれるわけではない。そのようなイメージを得る。そのアンバランスさこそがこの歌の醍醐味であり、真価であり、そして旨味だ。私は轟音の中にある透き通るような広の声が耳にすっと入ってくる感じが大好きだ。

だがしかし、ここで、ただ相手の表面をなぞって「好き」とだけ言うことは発情期のホモ・サピエンスならどの個体であろうが有意に認められる特性であり、我々サンフェーデッダーにはさらにもう一歩踏み込んだ「なぜ自分が好きだと思ったのか」という感情の言語化が求められる。

その手がかりとして歌詞の意味とかも色々考えよう。

あ、日焼け止め塗らないままでいたな
あんなにも大きな声が
肌すれすれに来ることも
光は指輪みたいになること、も 
いずれ全部 明るい道の
秘密のように思い出す

引用 サンフェーデッド

最初に思ったのはこの部分は篠澤広がアイドルから卒業したとき、または今から遠く離れた未来でアイドルとして活動している、どちらにせよ未来の篠澤広がステージ上の過去の自分を回想しているという構図の歌詞ではないかということだ。

ステージとは「陽・日(観客の注目)」が当たる場所であり、「日焼け止め」とは何か篠澤広にとってステージに立つ(=アイドルとして生きる)上で、もとの世界(大学を卒業し、将来が約束されていた時分)に戻るための保険ということなのだろう。
また、日焼け止めを「塗らなまいまでいた」ことからその「保険」を篠澤広は敢えてしなかったことが伺える。(恥ずかしいかな、筆者は「サンフェーデッドから学マスに入ったキ千ガイ」であるため、学マスのストーリーを大して読んでおらず、作中で言及されているのかもしれないこの「保険」について何一つ理解することができない。)

そして、ステージ上で観客の大きな声援が「肌すれすれ」に届く事、客席へ伸ばした手と照明が重なり自身の指に指輪のように光が回折している事など、自分の今までの人生、アイドル生をいずれ思い出す、と、そういうことなのだろう。

また、ただ思い出すのではない「明るい道の秘密」のように思い出すのだ。
ここでいう明るい道とはかつて篠澤広に約束されていた明るい未来のことであり、アイドル活動をする上で篠澤広は自身の過去を公表していなかったための「秘密」ということなのだろう。
さらに言えば、ここはただ単に、明るい道に秘密を隠しておくことができないように、はっきりと自分のアイドルとして歩んできた道を思い出すということを表しているのかもしれない。
もしくはその両方の意味を持つのだろうか。

両方の意味を持つのだとすれば、この部分の歌詞は「きっと未来の自分はアイドルとして活動してきたことを、大学通っていて人生が約束されていた頃と同じように克明に思い出すようになるだろう」というニュアンスになる。
すなわち、ここでの篠澤広は「アイドルも勉強と同じぐらい得意になるぞ!」だ。うめ…うめ……

僕たちは いつ出会うだろう?
出会うときは
僕にとって正しい人の
僕にとって正しい声でいる

ここでの「僕にとって正しい人」とはプロデューサーまたはファンという二通りの解釈ができる。

しかし、ここでの「正しい人」とはファンのことであると私は考える。

ここでの「正しい人」がプロデューサーのことだとするのならば、この部分での篠澤広はアイドルとしてプロデューサーと出会う前、即ち大学生の時分の篠澤広ということになり、これ以前、以後の歌詞との繋がりが見えづらくなる。

一方で、もしこの「正しい人」がファンだとするならば、ここの部分はこれから篠澤広と出会う未来のファンに対して「いつ出会うのか」という問いを投げかけている。と、そういう風に受け取ることができ、そちらの方がより自然だろう。

また、その他にも「正しい人」がファンであるという根拠はあるが、それら根拠はこの部分以降の歌詞と関連したものであるため、その都度ここに立ち戻って言及し、解説する。

游ぶ指先や睫毛や 
髪留めがあなたたちの姿を覚えている 
煌きと暗やみの層に躍り入る
僕のことを誰かが見てる 
安心して僕は帰らないほらね

ここの歌詞が一番好きだ。美味い。

「あなたたち」というのは一つ前の歌詞の「僕にとって正しい人」達のことだろうし、きっとそうなれば「僕にとって正しい人」とはやはりファンのことなのだろう。

未来の篠澤は「指先」や「睫毛」、「髪留め」など全身でステージから見えるファンのことを覚えている。
この前半部はそういう意味合いの歌詞になる。

そして後半、「輝きと暗闇の層に踊り入る」という部分では、はたはたと明暗を繰り返すような、風に吹かれる蝋燭の火のような篠澤広のアイドル活動の危うさを、また、大学を飛び級で卒業し、安定した未来が確約されていた「輝き」の人生から、成功する保証は何一つない、自分に一番向いていないアイドルとして先の見えない「暗闇」の人生に足を踏み入れたことを表しているのだと思う。

と、ここまで書いたが、ここの1つ前の部分、そして、このあとの部分において、ステージやそれに表されるアイドル活動の事を「日の差す」場所と言及している所から、むしろ「輝き」が日の当たっているアイドルとしての今の自分であり、「暗闇」が過去の自分を表しているのではないかと取ることもできる。

その場合、篠澤広は自身の過去の栄光や功績を「暗闇」、または何かそれに準ずる隠し事のように感じているということであるし、それこそが「明るい道の秘密」なのかもしれない。(その場合過去の秘密は広にとって嫌でも見えてしまうものということであり、なかなか酷な話だと思う。)また、広は自身の過去をなぜそのように感じているのか、そこにもまた謎が生まれる。

どちらにせよ、ここで、その「僕」を見ている「誰か」もきっと「あなたたち」であり「僕にとって正しい人」の「ファン」だ。

1つ前の歌詞から続く、「正しい人」「あなたたち」「誰が」は固有名詞を出さないものの、一連の流れを形成しており、その都度要素を掬い上げていくとこれらの指す対象が全て「ファン」であることが伺えるといった仕組みになっている。ここも美味ポイントだね。

そして、その後の「僕は帰らない」にてもう元の人生に戻る気はないということ、アイドルとして生きるということがはっきりと表されているのがここの部分で最も表したかった事柄だろう。即ち広の決意表明である。かわいい。

どこでもああ何度でも
目を瞑るほど日が差す方で
僕は言う
僕は禁じる
僕は覚える
僕は踊る
僕は慄く
僕は生れる
僕は褪せる
僕は判断する

この「日の差す方」というのがステージのことなのは明白だ。2つ前の日焼け止めの部分でも言及したように、「ステージ」とはすなわちファンからの注目、「日」の差す場所だ。

また「目を瞑るほど」という箇所からファンの気迫に当てられている篠澤広を容易に想像することができる。かわいいね。

そして「僕は〜」から続く8つは篠澤広の歌う楽曲や篠澤広のアイドル活動を表しているのではないだろうか。また、篠澤広というアイドルの活動の様々な側面を映し出しているようにも思える。

先程の歌詞の「もう元の人生には戻らない」という決意表明から引き続いて何度でもアイドルとして、様々な篠澤広の側面をファンに見せながら歌い続ける、という意思を感じることができる。

th-th-th-th-th-things made me who I became today without knowing who made them, tapes, records, books, everything I found great was sunfaded.

今日こんにちの自分を形作る、誰が作ったのかもわからない自分で見つけた素晴らしいテープ、レコード、本、などの物は全て日に焼け、色褪せていた。」

つまり何を言っているのか意訳すると

「今の私は色褪せた素晴らしいものたちによって形作られた」

ということだ。

こここそが(ここ王騎、コココなので)サンフェーデッドの一番伝えたいところ、即ち「トロ」の部分であると私は思う。(一番最後にトロ、っぱ最初はギョクからよ、てやんでい)

つまりこの歌の作者は、長谷川白紙は、篠澤広のように、「日に焼け色褪せた」名作たちから自分が形作られたという風に述べている。ここで、「いや、作品批評は作品単体の範疇で収めなくてはいけなくて〜、作者や制作環境にまで言及するのは違くて〜」とかいうやつ、その通りだ。黙れ。犯すぞ。

当然、日に焼けているならば、それらの本やテープなどの保存環境は少なくとも良くはないハズであり、その分不適当な環境で扱われていたということなのだろう。

つまり、ここでは、素晴らしい物は全て「不適当な」場所に置かれていたということが氏により述べられている。

「不適当な場所にある素晴らしいもの」、それこそ自分に向かないアイドルという世界に身を置く篠澤広そのものではないだろうか。

篠澤広の素晴らしさを受け取った私や、他の誰かがそこから未来の自分を形作り、次世代の長谷川白紙のような素晴らしい表現者になればいいと私は強く思う。

このように難解に見える歌詞も、その一つ一つを紐解けば、篠澤広が過去と向き合いアイドルとして生きる決意を固める、一種の選手宣誓のような内容であることが伺える。かわいいね、広。

また曲自体の魅力の話に戻れば、例えるならこの曲には、サウナのなかで氷を口に入れているときのような、サウナの熱と氷、炎天下の砂浜とかき氷、インドカレーとマンゴーラッシーのごとく正反対の関係にあるからこそ、絶対に相容れない者同士だからこそ織りなせる対比がお互いを引き立て合う美しさがある。それが一層旨味を引き立てるのだ。

これを成し得ている要素こそ、轟音のベースだのギターだのドラムだのエフェクターだのの中で、篠澤広の声が一つ芯を持ってかき消されずにある意味独立しているところだ。(あれはどうなっているのか音楽に詳しい人にぜひ教えていただきたい。)

飲み込まれずにいるからこそこの対比は成立しているのだ。だがしかし決して篠澤広の声は強いわけではなく、ある種の危うさも孕んだような可憐で、細い声だ。

あとは単純に広の声もかわいい(ここ大事)し、それが轟音のようなバンドとのコントラストによって引き立てられているというのだからもう犯罪級である。

この歌は少なからず自分の耳に革命を起こした

ポップスとかオルタナとかシューゲイザーとか全然わかんないけどこの歌が好きだ

この歌を通してシューゲイザーってジャンル自体にも興味が湧いたのでマイブラとかスローダイブとかも聞いてみようと思う。おすすめのバンドとかあったら教えてほしい。

最後に、この歌は美味すぎるので、現在絶賛耳介の満腹中枢を焼き切っており、誰かが止めない限り私は耳が千切れるまでこの曲を聴きつづけるだろう。私の耳とサンフェーデッダー諸君、そして篠澤広に光あれ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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