蒼き森の約束
その森は、迷い込んだ者が二度と戻れないと言われる「時の淀み」だった。しかし、ハルカは迷ったのではなかった。彼女は、来る日も来る日もその場所を探し続けていた。
あの日、光の粒子となって消えたカイトの、最後の言葉を信じて。
「もう一度だけ会えるなら、あの紫陽花の咲く小径で」
その約束から、もう三年の月日が流れていた。
ハルカは、カイトが愛用していた古びた革のショルダーバッグを肩にかけ、深く、暗い蒼に染まった森の奥へと進んでいった。足元を照らすのは、無数に瞬く小さな光。それは蛍ではなく、失われた時のかけらだという。
小径を曲がると、一面に紫陽花が咲き乱れる場所に辿り着いた。雨の名残をたたえた花びらが、月光を吸い込んで淡い真珠のような輝きを放っている。ハルカは立ち止まり、バッグの紐を強く握りしめた。
その時、森の空気がかすかに震えた。
目の前の空間が、まるで水面に波紋が広がるように揺らぎ始める。そして、光り輝く星屑が集まり、ひとつの形を成した。
「……ハルカ」
その声は、風のように優しく、耳元ではなく心に直接響いた。
そこに立っていたのは、あの頃と変わらない、優しい微笑みを浮かべたカイトだった。しかし、その姿は透明で、体の中から青白い光と無数の粒子が溢れ出し、夜空へと溶け込んでいる。
「カイト……!」
ハルカの瞳から、大粒の涙が溢れ、足元の紫陽花を濡らした。彼女は駆け寄り、その姿を強く抱きしめようとした。
けれど、彼女の両腕はカイトの体をすり抜け、夜の冷たい空気だけが残った。
「ごめんね、ハルカ。今の僕は、君の想い出の中にしか存在できないんだ」
カイトは、申し訳なさそうに、そして慈しむような眼差しで言った。
ハルカは泣きながら首を振った。
「いいの……。もう一度会えた、それだけで……」
彼女は震える右手をゆっくりと差し出した。カイトもまた、同じように光の手を伸ばす。
二人の指先が、空中で触れ合った。
その瞬間、ハルカの手のひらに、カイトの確かな「温もり」が伝わった。それは、この世の誰よりも知っている、優しくて、少しゴツゴツとした、カイトの手の感覚だった。
カイトの光の手が、ハルカの手をそっと握り返す。その仕草に、彼女の心は一気にあの幸せだった日々へと引き戻された。
「僕を忘れないで」
「忘れるわけない……一生、忘れない」
二人は、ただ見つめ合った。言葉はいらなかった。指先から伝わる想いだけで、すべてが通じ合っていた。
「ハルカ、僕はもう行かなきゃいけない」
カイトの姿が、次第に薄くなり始める。体から溢れる光の粒子が、先ほどよりも激しく森の奥へと吸い込まれていく。
「カイト、行かないで!もっと一緒にいたい……」
「約束しよう。いつか、君が旅を終えて、本当の僕に会いに来るその日まで。この森で、ずっと待っているから」
カイトは、最後の力を振り絞るように、ハルカの手を強く握った。そして、その表情は、出会った頃のような、晴れやかで、混じりけのない笑顔だった。
「さようなら、ハルカ。僕の、かけがえのない人」
ハルカの手から、カイトの温もりがすうっと消えた。
光り輝いていたカイトの姿は、一瞬にして弾け、万華鏡のような光の波となって、蒼き森の彼方へと消え去った。
小径には、ふわりと舞う光の粒子と、静かに佇む紫陽花だけが残された。
ハルカは、カイトが消えた空間を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くした。
しかし、彼女の心は、先ほどまでの絶望ではなく、不思議な静けさに満たされていた。
彼女は、肩にかけたバッグを愛おしそうになでた。そして、カイトと繋いだ右手のひらを、自分の胸にそっと当てた。
そこにはまだ、カイトの温もりが、確かに残っている気がした。
「……うん、いつか、また。必ず会いにいくからね」
ハルカは、涙を拭い、深く息を吸い込んだ。
その瞳には、別れの悲しみではなく、再会を信じる強い決意が宿っていた。
彼女は、カイトが残してくれた光の小径を、一歩、また一歩と、前を向いて歩き始めた。この森の記憶を、一生の宝物として心に刻んで。

#3つのお題に空想のひらめきを
#片桐みかんさん企画
みかんさん、宜しくお願いします🙇⤵️
