名前を忘れたドラゴンと三日月の鍵
街の喧騒が引き潮のように消える頃、路地裏にひっそりと**「夜を売る屋台」**が店を開きます。
店主は顔のない影のような男。並んでいるのは、ただの闇ではありません。
「いらっしゃい。今日は、極北のオーロラを混ぜた深い紺色か、それとも恋人たちが囁き合うための淡い宵闇かい?」
そこへ、一頭の大きなトカゲのような生き物がふらりと現れました。体躯は立派ですが、その瞳は迷子の子猫のように心細げに揺れています。彼は自分の誇りも、故郷も、そして**「名前を忘れたドラゴン」**でした。
「店主、俺の名前を買い戻したいんだ。代わりにこれを出す」
ドラゴンが差し出したのは、鈍く光る銀色の**「三日月の鍵」**。それは、かつて彼が守っていた「夜の扉」を開けるための唯一の道具でした。名前を失った彼は、その扉を二度と開けることができなくなり、鍵だけが手元に残ったのです。
店主は鍵を手に取り、まじまじと眺めてから、静かに首を振りました。
「お気の毒に。名前というものは、売ったり買ったりできる代物じゃない。だが、この鍵に合う『夜』を君に貸してあげよう」
店主は屋台の奥から、ひと瓶のインクのように黒い夜を取り出し、ドラゴンの背中にふわりとかけました。すると、ドラゴンの鱗が星空のように瞬き始めます。
「さあ、その鍵を空にかざしてごらん。名前は誰かに呼ばれるのを待っているんじゃない。君が、自分の物語を思い出すためにあるんだ」
ドラゴンが三日月の鍵を高く掲げると、夜空にカチリと音が響きました。
その瞬間、彼は思い出したのです。自分が「夜を運ぶ者」であったことを。
名前を思い出したドラゴンは、屋台の店主に一度だけ深く頭を下げると、新しい夜を纏って銀色の空へと舞い上がっていきました。

