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『ゴールド ―境界の国―』第7話 「月雫石 ―届かなかった時間―」

『ゴールド ―境界の国―』

第7話 「月雫石 ―届かなかった時間―」



月の国は、静かだった。

月の国

光の国のような眩しさはない。
炎の国のような熱もない。
森の国のような生命のざわめきもない。

ただ、夜の延長のような空気だけが続いている。

ノアは、その国にいた。

ゴールドとして各国を巡る任務の途中だった。


そこに、一人の老人がいた。

「……来てくれたのか」

老人は弱い声で言った。

ノアは黙って頷く。

「月の国に行ったら必ずご様子を伺う様にとの事でした」

老人は小さく笑う。

「アトラスは、元気じゃな。」

「はい」

「彼は、私の教え子だ。」

「そうでしたか。なぜ療養の為に森の国へ行かなかったんですか?」

ノアは思わず聞いていた。

老人は少し驚いた顔をしたあと、小さく笑った。

「行ったよ」

そう言って、自分の手首のブレスレットをそっと撫でる。

月雫石が、窓から入る月明かりを受けて静かに揺れた。

「十分、生き延びさせてもらった」

少しだけ咳き込み、窓の外へ目を向ける。

「森の国はな、壊れたものを戻す場所じゃない」

「人を、少しずつ整えていく場所なんだ」

「痛みは軽くなる。歩けなくなった足が少し動くこともある」

「でもな」

老人は静かに笑った。

「消えた時間までは、戻らない」

しばらくして、もう一度空を見る。

「最後にいたい場所くらい、自分で決めたかった」

「ここには守るものがあるからな」

「人は結局、自分が大切にした場所へ帰るんだ」

ノアは何も言えなかった。

「私には、遅くに授かった二人の娘がいる。」

「実は、娘に、まだ会えておらん」

その言葉は、長い時間を背負っていた。

「ずっと探している。でも、会えない」

ノアは何も言えなかった。

老人は続ける。

「もう……体も長くはもたない。」

「会いたかった。ただ……会いたかった」

月の国の空気は静かすぎて、その言葉だけが落ちていくようだった。

ノアの視線が、老人の腕に止まる。

月雫のブレスレット。

銀色。

静かな光。

それは、ただの装飾ではない。

この国では、月雫一族の証。

ノアは息を止めた。

「それ……」

老人はゆっくりと腕を見る。

「これか?ずっと昔から持っている。代々伝わるものなんだ。」

ノアの中で、何かが繋がる。

月雫一族。

ノアは、思い出していた。

森の国へ向かう列で見た少女。

手首にあった同じ銀の印。

あの時の…。

今、目の前にあるのは…。

同じ形。

ノアは静かに言う。

「このブレスレット……見た事があります」

老人は少しだけ目を細める。

「同じものだとしたら、娘だ」

空気が止まる。

娘…。

ノアは小さく息を吐く。

「……生きてる」

老人の目が揺れる。

「会えるのか?」

ノアはすぐに答えられなかった。


制度がある。

距離がある。

時間がある。


「……分からない」

正直な答えだった。

老人はそれでも、静かに笑った。

「それでもいい。生きておったか」

老人は涙ぐんだ。

嬉しそうに笑う。

老人の机の上に、古い写真があった。

手に取る。

そこに写っていたのは、優しく笑う父と母、そして生まれたばかりの女の子だった。


愛する命

ノアは、もう一つのものに気づく。

老人の机のそばには、もう一枚写真があった。

そこには、同じ父と母に抱かれた、生まれたばかりの女の子が写っていた。

ノアの胸の奥が、静かに揺れる。

「……姉妹?」

老人の声が小さくなる。

「そうだ。その子も……まだいるのか?」

ノアは答えられない。

でも、確かに分かっていた。

ミレアは生きている。

そして、その姉もどこかで生きている可能性がある。

その事実だけが、静かに重かった。

老人はゆっくり目を閉じる。

「会わせてやりたかった」

その声は、風よりも弱かった。

ノアは写真を見つめる。

失われたものではなく、まだ繋がっているもの。

天衡舘で過ごした五年の月日は、ノアの中に「平等」という言葉の重さを残し続けていた。

ノアは小さく言う。

「きっと、会えますよ」

それは確信ではなかった。

それでも、言葉にしなければ消えてしまいそうだった。


森の国の夜は、静かだった。

だがその静けさの中で、確かに何かが動き始めていた。

ミレアは、森の国で薬草を煎じていた。

湯気の向こうで、薬草の香りだけが静かに漂っていた。

「ミレアさん。お父様と、お会いした事はありますか?」

「いいえ。」

「お父様らしき方と出会いました。」

「え?」

「お会いしてみませんか?」

「……」

「会いたくないですか?」

「いいえ。そういう事は」

「では、ご一緒しますよ」

窓の外では、森が風に揺れている。

この国は治癒の国。

壊れたものを戻す場所。


二十の儀式の日。

ミレアは、そこに立っていた。

手の中には、一枚の紙がある。

それは、二十の儀式を終えた者だけに許される例外だった。

家族と再び会うための申請書。

会うか。
会わないか。

その二択はあまりにも重い。

戻せないものもある。

「会いたい」

その気持ちは、確かにある。

でも同時に、もう一つの感情もあった。

未熟な自分のまま、会いたくはない。

ミレアは紙を見つめたまま、動けなかった。

そこへ、静かな足音が近づく。

管理者が立っていた。

「申請は出さなくてもいい」

ミレアは顔を上げる。

「どういう意味ですか」

管理者は淡々と答える。

「会うことは権利だが、義務ではない」

その言葉は優しかった。

けれど同時に、逃げ道でもあった。

ミレアは唇を噛む。

選ばないという選択。

それは、会いたいという気持ちを否定することになるのか。

それとも…。

守ることになるのか。


ミレアの胸の奥で、何かが静かに揺れていた。

あの時は、迷ったけれども会った方がいい。

ミレアは、決断した。

「お願いします。私を父の所に連れて行って下さい」


森の国から月の国へ


森の国から月の国までは、決して近くはなかった。

数日後……。

ミレアが辿り着いた時には、すべてが静かになっていた。

ほんの少しの時間が、許してはくれなかった。

「お父様……」

会うことは出来なかった。

その存在は、ずっと遠くにあった。

机の上の古い写真。

冷たく冷え切った部屋。

ノアは小さく言った。

「もう……遅かったのですね」

「ブレスレット確認して下さい。間違いありませんか」

窓から差し込む月明かりに、銀の印が静かに揺れていた。

「残念ながら、間違いありません。本物です」

二つのブレスレットは、同じ輝きを放った。

「ミレアさん。泣いてもいいのですよ」

「はい…」

写真の中には、自分らしき新生児が写っていた。

そして、その隣には、もう一枚の写真があった。

ミレアは写真を見つめたまま、息を止めた。

「……この人は?」

ノアは少しだけ沈黙してから言った。

「姉の可能性があります」

ミレアの指が、わずかに震える。

ずっと感じていた空白に、形が与えられていくようだった。

嬉しいのか、怖いのか分からない。

ただ胸の奥が、静かにざわつく。

会いたい。

でも…。

その想像だけが、彼女の足を止めた。

姉は…。

まだ、生きているかもしれない。


森の国は少し雨が降っていた。

昨日のことがまるで、なかったかのように優しく降っている。

月の国で見た一枚の写真。

月雫のブレスレット。

その可能性だけが、彼女を立たせていた。

彼女はゆっくりと目を閉じた。

思い出すのは、あの写真。

優しく笑っていた姉。

そして、生まれたばかりの自分。

ここでは皆、それぞれの選択を抱えている。

誰も他人の答えに触れない。

お姉様も、まだサインしていなかったのだろう。

そのとき、心の奥に小さな声が落ちる。

「本当に会いたいのか」

ミレアは、初めて気づく。

会うことは、再会ではない。

現実と向き合うことだった。

お姉さまは、会いたいと思ってはいないかもしれない。

自分も、躊躇っている。

お姉様は……お姉様だ。

それでも………。

「こんな私では……まだ、会えない」

その瞬間、森の風が少し強くなる。

そして、彼女は止まり深く息を吐いた。

選ばないという選択。

それは逃げではなく、時間だった。


森の国の空は静かだった。

けれど、胸の奥だけは静かになれなかった。


両目から涙が溢れた。


月雫のように。


静かに……。



(第7話 終)


境界の国

#創作大賞2026
#ファンタジー小説部門

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