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星の砂を君に 第5話 静かな日常の綻び


星の砂を君に

第5話 静かな日常の綻び

                      

 いつもの喫茶店。

 窓際の席に座ると、自然と彼の姿を探してしまう。

 昼過ぎ。

 扉が開く音に振り向く。

「瞳」

 低い声。

 彼だった。

 その瞬間、胸の奥がゆるむ。

「今日、このあと行っていい?」

「ん? いいよ」

「じゃあ、一緒に帰ろうか」

 私は少し笑って頷いた。

「俊明さん、お昼食べたの?」

「まだ」

「じゃあ、何か作ろうか」

「ありがとう」

 彼は少しだけ目を細めた。

「カレーにしようかな。どう?」

「いいね」

そのやりとりは自然で、もう他人ではなかった。

気づけば、隣にいることが自然になっていた。

喫茶店から、徒歩10分。

2人でゆっくり歩いた。

「お水でいい? 味噌汁作る?」

「カレーに味噌汁?」

「うちの実家、そういうタイプなの。具だくさんで」

 そう言うと、彼は小さく笑った。

「面白いですね」

「野菜いっぱい入れて、ちゃんと食べなさいって。長寿の秘訣らしいよ」

 私もつられて笑う。

 二人で食べるカレーは、いつもより少しだけ優しい味がした。

「具、大きめなんだね」

「うち、昔からこうなの」

 福神漬けか、らっきょうか。議論はおこなわれた。

 そんな話さえ、どうでもよくて楽しかった。

「次はトンカツ乗せてもいいですね」

「目玉焼きでも、いい?」

そんな未来の話までしていた。

映画館で買ったお揃いのマグカップに、コーヒーを注ぐ。

「明日、日曜日ですよね」

「うん」

「また来ませんか?」

「はい。お伺いします」

 二人は笑った。


カレーと味噌汁

     

 夕方。

 スーパーで買い物をして、彼の部屋へ向かう。

『ちょっとお酒も買っちゃう?』

『いいね』

すぐに、返事が来た。

そんな軽いやりとりが、やけに楽しかった。

 ピンポン。

「いらっしゃい」

 いつもの静かな部屋。

 イルカのモビールが、やわらかく揺れていた。

「落ち着くね、この部屋」

「物が少ないだけです」

 彼はそう言って笑った。

「今日は何作るの?」

「オムレツ」

 卵を焼く音が、静かに広がる。

 並んでキッチンに立つ時間は、もう特別ではなかった。

 自然に肩が触れる距離。

「ケチャップ係、お願い」

「任せてください」

 二人は笑い合った。

 食事のあと、グラスを軽く合わせる。

「今日さ」

 彼が少しだけ間を置く。

「泊まっていく?」

 一瞬、時間が止まった気がした。

 少しお酒も入っていた。

「……うん」

 私は小さく頷いた。

 その夜。

 言葉は少なかった。

 けれど距離は確かに近くなっていく。

 安心と緊張が同時にある不思議な時間。

 彼の手が触れるたびに、胸の奥が静かに熱を持った。

 もう戻れない場所に来ている気がした。

     ◇

 それからしばらく、そんな日が続いた。

 いつもの喫茶店。

 仕事帰りの食事。

 自然に彼の部屋へ行くようになった。

 彼も、来るようになった。

 土曜日と、日曜日は、当たり前のように一緒に過ごしていた。

 気づけば、日常の中心に彼がいた。

     ◇

会社では、変わらない毎日。

お局の視線。

小さな嫌がらせ。

「彼氏できたんじゃない?見て、新しいネックレス」

誰かの声。

でももう、どうでもよかった。

お局グループのネタ探しに付き合う余裕もなかった。

     ◇

 彼は、確かにそこにいた。

 特別な理由なんていらなかった。

 カレーを食べた日も、オムレツの夜も、
 その全部が静かに積み重なっていた。

 クリスマスの日も、
 水族館の日も。 

 だから疑う理由がなかった。

     ◇

 でもある日。

 いつもの喫茶店に行っても、彼はいなかった。

 次の日も。

 その次の日も。

「忙しいのかな」

 そう思ってメッセージを送る。

 既読はつかない。

 通知も動かない。

     ◇

 一週間が過ぎた。

 こんなことは一度もなかった。

 胸の奥に、小さな不安が芽生える。

 どうしたんだろう。

 仕事帰り。

 気づけば彼のアパートの前に立っていた。

 扉の前。

 鍵はかかっていた。

 表札も、荷物の気配もない。

 静かすぎる。

 嫌な予感だけが広がる。

     ◇

 翌日、もう一度訪ねた。

 それでも何も変わっていなかった。

 思い切って大家に聞いてみた。

「ここの方、いらっしゃいますか」

 返ってきた言葉は静かだった。

「ご家族の方が来て、引き払われましたよ」

 頭の中が真っ白になる。

「……引き払う?」

 何も聞いていない。

 何も言われていない。

 理由も分からない。

「どういうことですか」

「個人情報ですので」

 それ以上は、何も返ってこなかった。

     ◇

 消えた。

 彼が、消えた。

 スマホを見ても、既読はついていなかった。

     ◇

 帰り道。

 バッグの中のネックレスと指輪。

 あの日、彼がくれたもの。

 それだけが確かにそこにある。

 そっと身につけた。

 光が揺れるたび、胸が痛む。

 あの人は、本当にいたのだろうか。

 それとも、最初からいなかったのだろうか。

 空を見上げた。

 何か大切なものが、

 指の隙間からこぼれ落ちてしまった気がした。

 

 バッグの中には、星の砂だけが静かに残っていた。


 私はそれを握りしめた。



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