星の砂を君に 第1話 星の砂 有孔虫の秘密
星の砂を君に あらすじ
駅前の喫茶店で出会った、資格勉強中の男女。
静かな日常の中で少しずつ距離を縮めた二人は、やがて恋に落ちる。
彼が沖縄から持ち帰った小さな「星の砂」。それは有孔虫という海の生き物の殻だった。
しかし突然、彼は姿を消す。
残された主人公は、彼の過去と真実を知るため沖縄へ向かう。
そこで明かされる別れの理由と、もう一つの命の存在。
失った恋の先で、予想外の真実に触れながら、彼の想いは家族へと受け継がれていく。
星の砂がつなぐ、喪失と再生の物語。

星の砂を君に
第1話 星の砂 有孔虫の秘密
雨上がりの午後だった。
駅前の喫茶店には、コーヒーの香りと静かなピアノの音が流れている。
私は窓際の席に座り、開いたままの参考書を見つめていた。
四十三歳。
独身。
都内で事務職として働いている。
気づけば「今さら何かを始める年齢じゃない」と、
自分で決めてしまっていた。
毎日それなりに忙しい。
大きな不満もない。
けれど、時々思うことがあった。
私は、このままでいいのだろうか。
朝起きて仕事へ行き、帰宅して眠る。
休日は掃除と洗濯。
そんな日々を繰り返しているうちに、気づけば四十代になっていた。
だから何か始めたかった。
資格でも取ろうと思った。
けれど何を目指したいのかは、自分でもまだ分からない。
参考書だけが少しずつ増えていった。
カタカタカタ。
ふと、キーボードを打つ音が聞こえた。
顔を上げる。
斜め前の席。
ノートパソコンに向かう男性がいた。
見覚えがある。
先週もいた。
その前も。
いつも同じ席で、何かを勉強している。
穏やかな人だった。
派手さはない。
けれど不思議と目を引く。
どこかで会った?
そんなはずはない。
静かなのに、深い。
そんな印象だった。
数日後。
私はまた喫茶店を訪れた。
そしてまた彼がいた。
少しだけ嬉しかった。
名前も知らない人なのに。
その時だった。
店員が運んできたコーヒーに手が触れそうになる。
「あっ」
慌ててカップを押さえようとした瞬間。
別の手がそっと支えた。
「あぶない」
顔を上げる。
彼だった。
「ありがとうございます」
「いえ。こぼれなくて良かった」
そう言って笑う。
優しい笑顔だった。
春の日差しのような。
それが私たちの最初の会話だった。
それから少しずつ話すようになった。
仕事帰り。
同じ時間。
同じ喫茶店。
気づけば自然に会話が始まる。
「資格の勉強ですか?」
彼が聞いた。
「一応。でも何を目指しているのか、自分でもよく分からなくて」
「分かります」
彼は笑った。
「僕も人生やり直し中なので」
「人生やり直し中?」
「宅建です」
机の上のテキストを見せてくれる。
宅地建物取引士。
分厚い参考書だった。
「難しそう」
「難しいです」
彼は苦笑した。
「でも、やってみようかなって」
窓の外では雨雲が切れ、光が差し始めていた。
彼はコーヒーを一口飲む。
そして少し遠くを見るような目をした。
「昔は別の道を目指していたんです」
「そうなんですか?」
「ええ」
それ以上は語らなかった。
けれど、その横顔に少しだけ寂しさが見えた。
私はそれ以上聞かなかった。
人には話したくないこともある。
私にもあるように。
「宅建の勉強、大変そうですね」
私が言うと、彼は参考書を閉じた。
「まあ、好きでやってるので」
「前から不動産関係のお仕事だったんですか?」
彼は少し考えてから首を振った。
「違います」
そして、コーヒーカップに視線を落とす。
「昔は歯科医師になりたかったんです」
思わず顔を上げた。
「歯科医師?」
「ええ。ずいぶん昔の話ですけどね」
そう言って笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。
「でも人生って、思った通りにはいかないじゃないですか」
窓の外へ視線を向ける。
雨上がりの空に、小さな光が差し込んでいた。
「だから今は、新しい夢を追いかけています」
机の上には宅建の参考書。
何度も開かれた跡があった。
私はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
けれど不思議だった。
なぜだろう。
その話の続きを、いつか聞いてみたいと思った。
三度目に会った日だった。
彼は小さな紙袋を差し出した。
「沖縄に帰ってたんです」
「沖縄?」
「実家です」
袋の中には、小さなガラス瓶が入っていた。
白い砂のようなものが詰まっている。
光を受けてきらきらと輝いていた。
「綺麗……」
「星の砂です」
私は思わず笑顔になった。
本当に小さな星みたいだった。
「これ、砂じゃないんですよ」
「え?」
「有孔虫っていう海の生き物の殻なんです」
彼はスマートフォンを取り出した。
そこには青い海の写真が映っていた。
透き通るような海。
白い砂浜。
どこまでも続く空。
「綺麗ですね」
「実家の近くなんです」
彼の声が少し柔らかくなる。
「疲れた時は、海を見に行くんですよ」
写真の海は静かだった。
優しく呼吸をしているように見えた。
私はその海に見覚えがある気がした。
もちろん行ったことはない。
それなのに懐かしかった。
「不思議だよね」
彼は瓶を見つめながら言った。
「生きていたものが、誰かの宝物になるんだから」
私は小さな瓶を手のひらに乗せる。
小さな星たち。
流れ星のかけらみたいだった。
「死んでも、誰かの宝物になれる。」
彼は静かに笑った。
私はその言葉を繰り返した。
死んでも、誰かの宝物になれる。
不思議な言葉だった。
「良かったら、どうぞ」
彼はそう言って、瓶を私に差し出した。
私は星の砂を見つめた。
「ありがとうございます」
胸の奥に、小さな灯りがともるような気がした。
店の窓の外では夕暮れが始まっていた。
オレンジ色の光が街を染めている。
私はガラス瓶をそっと握りしめた。
温かかった。
ただのお土産なのに。
なぜだろう。
この人と出会ったことが、何かの始まりのような気がした。
その時の私はまだ知らなかった。
この小さな星が、日常の形を静かに変えていくことを。
まるで、海に落ちた一粒の流れ星のように。

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