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【業裏】 学習塾はなぜ1970年代に急成長したのか


高校・大学進学率の上昇と、公教育への不信が生んだ「影の教育産業」の誕生



(1)放課後の「もうひとつの学校」


吾輩が子どもの頃の記憶を持つ世代なら、誰しも一度は体験したはずだ。夕暮れどき、ランドセルを家に置くやいなや、今度は別の鞄を持って街へ出る。駅前のビルの一室、あるいは住宅街の小さな建物。蛍光灯の白い光の下、黒板とプリントと問題集が待ち構えている。学校が終わっても、勉強が終わらない。それが「塾」という場所だった。

現代の日本において、学習塾はもはや当たり前の風景である。文部科学省の調査によれば、公立中学生の通塾率は6割を超え、公立小学校でも4割近くが何らかの学習塾を利用している。しかしそれは必然ではなかった。学習塾が「影の教育産業(shadow education)」と呼ばれる独立した産業として日本社会に根を張ったのは、1970年代のことである。

なぜその時代だったのか。受験競争の激化、進学率の急上昇、そして公教育の限界——複数の力が重なり、日本の子どもたちを夕暮れのビルへと向かわせた。その構造を丁寧に解きほぐしてみたい。



(2)塾の来歴——江戸の寺子屋から昭和の受験産業まで


まず歴史をひと回りしておく。「塾」の概念そのものは、日本において非常に古い。平安時代には有力貴族が家庭教師や私的な学習の場を設け、教養としての和歌を学んでいた記録がある。しかし庶民の教育が広く花開いたのは江戸時代である。寺子屋が全国に広がり、幕末には全国で16,000軒以上が存在したという。読み書きそろばんを教える実用的な場であり、職人の子も商人の子も、それぞれに学んだ。江戸時代の識字率の高さは、この民間自発的な教育インフラに支えられていた。

明治以降、近代的な学校制度が整備されると、国家が教育を一元管理するようになった。しかし学校制度は「みんなに同じことを同じペースで」という性格を持つ。その均一性ゆえに、はみ出す者が必ず現れる。補いたい者も、先へ進みたい者も、学校の枠の外に居場所を求めた。戦後、進駐軍の教育改革によって新制学校が発足し、6・3・3・4制が定まると、進学のための競争は段階的に激化していく。

1960年代、第一次ベビーブーム世代(団塊の世代)が中学・高校受験の時期を迎えると、第一次塾ブームが到来した。高度経済成長のなかでサラリーマン家庭が急増し、「子どもには高学歴を」という親の願いが、補習スタイルの塾を急増させた。これが1970年代の大爆発への助走だった。



(3)進学率という名の「地殻変動」


1970年代を理解するには、まず数字を見なければならない。

高校進学率は1958年の53.7%から上昇を続け、1974年には90.8%に達した。わずか16年で、高校は「選ばれた者が行く場所」から「ほとんどの子が行く場所」へと変わったのである。同時期、大学(四年制)への進学率は1958年の8.6%から1976年には27.3%へと急上昇した。厚生労働省の白書が示すとおり、1972年には大学進学率が20%を超えている。

数字だけでは実感が伴わないかもしれない。もう少し具体的に言おう。1950年代、大学に行けるのは同世代のおよそ10人に1人だった。それが70年代には4人に1人になった。この変化がもたらしたのは、単なる「進学者の増加」ではない。競争の質的な変化である。

かつて高校受験・大学受験は、元来勉強好きな者や、裕福な家庭の子弟が挑む特別な関門だった。しかし進学率が上がると、競争の場に「準備が十分でない」多数の参加者が流れ込んでくる。学校はそれに対応しきれなかった。教室の規模は大きく、教師は忙しく、授業は多数の平均に合わせて進む。そのしわ寄せが両端に向かった——授業についていけない「落ちこぼれ」と、物足りない「吹きこぼれ」である。



(4)「落ちこぼれ」という言葉の誕生


「落ちこぼれ」という言葉が社会問題として認知されたのは、まさにこの1970年代のことだ。高校進学率が9割に達したとき、高校の教室には学力・学習意欲ともに非常に幅広い生徒が混在することになった。中学までは義務教育の均一カリキュラムで何とかなっていたものが、高校に入ると教科の難度が上がり、差が一気に顕在化する。

学校側の対応には限界があった。40人前後が詰め込まれた教室で、教師が個別の遅れに丁寧に対応するのは物理的に難しい。授業は進む。わからないまま進む。そうした子どもを持つ親が向かった先が塾の補習クラスだった。

一方の上位層はどうか。進学率の上昇は受験競争の上位においても激化をもたらした。限られた難関大学の定員を、かつての倍以上の受験生が争うことになったのである。1979年に導入された共通第一次学力試験(共通一次)は、「入試地獄」を緩和する目的で設計されたが、結果的には偏差値による大学序列化を固定化し、受験産業をかえって活況に導いた。偏差値という数値が「自分の位置」を可視化すればするほど、一点でも上を目指す競争心が煽られる。塾の「進学クラス」はここに商機を見出した。



(5)公教育への不信——「学校だけでは足りない」という感覚


進学率の上昇と受験競争の激化だけが塾ブームの理由ではない。もうひとつ忘れてはならない要因がある。公教育そのものへの、静かな、しかし根の深い不信感だ。

1970年代の公立学校は、いくつかの構造的問題を抱えていた。まず、学習指導要領の画一性である。「みんなに同じ内容を同じペースで」という設計思想は、経済成長期の均一な労働力育成には適していたかもしれないが、進学率上昇とともに多様化した生徒集団には対応しにくかった。教師の努力とは別に、制度的な硬直性があった。

次に、入試と学校教育の乖離である。特に大学入試においては、学校の定期試験と入試問題の間に大きな差があった。入試に出る「難問・奇問」を学校の授業では扱わない。しかし受験生にとっては入試こそが本番である。ここに「学校では教えてくれないことを教える場所」としての塾の価値が生まれた。

さらに、当時の学歴社会の文脈では、どの大学に入るかが就職や社会的評価に直結していた。1970年代にはOECDが日本の学歴偏重を「学歴病(Diploma Disease)」として指摘するほど、日本の受験熱は国際的にも異様に映っていた。親の目に映る現実は単純だった——子どもの将来は入試の結果にかかっており、学校の授業だけではその準備が足りない。塾はその「足りない部分」を埋める存在として、強烈な実需に支えられて拡大した。



(6)産業としての「第二次塾ブーム」


こうした複合的な背景のもと、1970年代には「第二次塾ブーム」と呼ばれる爆発的な拡大が起きた。それ以前の塾は個人経営が主流で、先生が自宅の一室で数人を教えるスタイルが一般的だった。それが1970年代に入ると、数百人規模の生徒を抱える企業型・法人型の集団塾が登場し、さらにフランチャイズ形式の塾チェーンも生まれた。

注目すべきは、この時代には「塾に通いたい子の数よりも、塾の数のほうが多かった」とも言われていることだ。需要を先取りするように、あるいは需要そのものを作り出すように、供給側が膨張した。商機を嗅ぎつけた経営者たちが次々と参入し、街のビルの一室に看板を掲げた。

塾は二極化した。一方は補習塾——学校の授業についていけない生徒を対象に、基礎を反復する。もう一方は進学塾——難関校合格を目標に、学校の先を行くカリキュラムで生徒を鍛える。この二つのモデルが並立したことで、塾は「勉強が苦手な子が行く場所」でも「頭のいい子が行く場所」でもなく、「ほとんどすべての子が、何らかの形で通う場所」へと変貌した。

参議院の経済調査によれば、1970年に2万4000円だった子ども一人当たりの年間教育費は、その後数十年で約16倍に増加している。学習塾という産業の成長は、その数字に鮮明に刻まれている。



(7)江戸の寺子屋との不思議な相似


ここで少し立ち止まって、遠い時代との類似に目を向けてみたい。

江戸時代の寺子屋は、幕府や藩が整備した公的教育(藩校)では手が届かない庶民の需要に応えて、民間から自然発生した。個人経営で、地域密着で、生徒の習熟度に合わせた個別対応が持ち味だった。

1970年代の塾ブームも構造が似ている。国家が運営する公立学校という「公教育」が全員を均一に扱う制度的限界を持つとき、その外側に、個別の需要に応える民間の教育市場が形成される。江戸の寺子屋と昭和の学習塾は、1000年近くの時を隔てながら、同じ社会的メカニズムの産物である。

ただし決定的な違いがある。寺子屋には「競争」という要素がほぼなかった。子どもたちはそれぞれのペースで読み書きそろばんを身につけ、卒業試験も偏差値もなかった。一方、昭和の塾は受験競争の申し子として生まれた。競争こそが存在理由だった。この差が、ふたつの「民間教育」に全く異なる色合いを与えている。



(8)「影の教育」が映し出すもの


教育社会学の文脈では、学習塾のような公教育の外側に形成される私的な教育機会は「シャドウ・エデュケーション(影の教育)」と呼ばれる。影というのは、公教育という「本体」があってはじめて輪郭を持つ、という含意だ。

この比喩はなかなか正確である。塾のカリキュラムは、学校のカリキュラムを前提として設計されている。入試制度が変われば、塾の内容も変わる。学習指導要領が「ゆとり」に転じた2000年代には、学力低下を心配する親が塾に殺到した。制度の変化が塾の需要を直接左右する——これが「影」の宿命だ。

だが影は本体を映すだけでなく、本体の不備も映す。学習塾の繁栄は、公教育が「すべての子どもの学びを保証できていない」という事実の鏡像でもある。もし公立学校が落ちこぼれを出さず、意欲ある生徒に十分な挑戦の機会を与えていたなら、塾に行く理由の半分は消えていたはずだ。

「なぜ1970年代に学習塾が爆発的に広がったのか」という問いへの答えは、結局こういうことではないか——進学率の上昇によって教育機会が民主化される一方、その民主化が公教育の均一システムの限界を露わにし、その隙間を民間の学習産業が埋めた。塾ブームとは、教育の「大衆化」と「個別化」の要求がぶつかったときの、市場による一つの解答だった。

その解答が完璧だったかどうかは、別の話である。塾に通える家庭と通えない家庭の間で、教育格差は拡大した。放課後の時間を受験対策に使い果たした子どもたちが、何かを失ったかどうかについても、静かに問い続けられてきた。しかし産業としての学習塾は、一度根を張ったら抜けない。夕暮れのビルに今日も明かりが灯る。





【参考文献・資料】


1. 文部科学省「学校基本調査 年次統計(進学率)」

2. 厚生労働省『平成23年版 労働経済の分析』第2章第1節「経済社会の推移と世代ごとにみた働き方」

3. 国立社会保障・人口問題研究所「性別高等学校・大学への進学率:1950〜2003年」

4. 文部科学省「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告」(平成20年)

5. 経済産業省「特定サービス産業動態統計調査」

6. 藤田正人(株式会社成学社)「学習塾の現状と今後」(2023年)

7. コトバンク「受験戦争」(執筆:黒川直秀)

8. Wikipedia「大学共通第1次学力試験」

9. 年次統計.com「大学進学率」

10. ホームメイト・リサーチ「進学塾の歴史」



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