自己紹介|HSS型HSP 30代 うつ病・中退・離婚をのりこえて|はじめてのnote
大学中退、学歴なし。
うつ病10年、ひきこもり。
仕事は全く続かない。
結婚11年、夫に「飽きた」と言われて離婚。
そんなHSS型HSPの私が、自分らしい生き方を手に入れるまでのストーリーです。
1.自己紹介
はじめまして、りなと申します。

私はHSS型HSPで、
「やってみたい!」というアクセルと、「ちょっと待って…」というブレーキを、どちらも全開で持っている気質です。
長い間、自分の繊細さや二面性をどう扱えばいいのかわからず、
生きづらさを抱えながら過ごしてきました。
その経験をきっかけに、
今は「HSPさんが自分らしく輝く人生を生きられるように」という想いで、HSPさん向けの活動をしています。

おかげさまで、
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そんな私ですが、ここに至るまでの道のりは決して順調なものではありませんでした。
たくさん悩んで葛藤し、傷ついた経験もたくさんあります。
今回は私がどんなふうに生きてきたのか。
そして、どんなふうに「自分らしさ」にたどり着いたのか。
そのストーリーを少しだけお話しさせてくださいね。
2.人を信じられなくなった10代
私は小さい頃から、とても繊細な子どもでした。
母によると、他人に抱っこされただけでギャン泣きし、とにかく環境の刺激に敏感だったそうです。
他の人が気にしないような、音や光、匂い、肌触り、そして「人の気配」にまで影響を受け、
いつも頭はズキズキし、心はドキドキしていました。
一方で、とても真面目で、親の言うことをよく聞く「いい子」でもありました。
でも実は――目立ちたがり屋で、人に頼られるのが大好き。
小学校では、イベント委員やクラス委員をよく引き受けていました。
しかし、その「目立つ存在」であることが、いじめの標的になってしまいました。
「りなちゃん以外の人、来てください」
「私、あなたのことが嫌いだから」
そんな言葉を、みんなの前で平気で言われるようになりました。
それだけではなく、担任の先生までいじめに加担するようになり…
「〇〇ちゃん、おはよう!」と私が声をかけただけで呼び出され、
「“〇〇ちゃん、おはよう”じゃなくて、”おはよう”だけにしなさい」と、怒られました。
親に相談しても、返ってくるのは「皆勤賞は取りなさい」という言葉だけ。
誰も私の味方ではない。
誰も私のことをわかってくれない。
そんな孤独と悲しみが、私の心を静かに蝕んでいきました。
3.容姿を嘲笑され、人が怖くなった高校時代
高校に入ると、ストレスで体重が増え、肌荒れもひどくなりました。
すると今度は、赤の他人から後ろ指をさされるように。
「ヤバ…キモいんだけど…」
「女の顔が崩れてる」
そんな声が毎日のように聞こえてきました。
電車でも、学校でも、誰かが私を見て笑っては笑っていました。
その頃から、人の視線に極端に怯えるようになり、
私の自己肯定感は、底の底まで落ちていきました。
ストレスで体調も崩れ、予備校も休みがちに。
そんなある日、先生から電話がかかってきました。
「そんな生ぬるいこと言ってたら、ロクな大人にならない!」
1時間以上の説教。
私以外の全ての人が、敵に見えるようになっていました。
涙が止まらない。
心が壊れていく感覚。
「誰か助けて…」
数えきれないほど、一人涙を流して泣いていました。
毎日がつらくて、どうしようもなくなったある日、
ネットで調べた結果、「うつ病」という言葉が浮かび上がりました。
「私、うつ病かもしれない。病院に行きたい」
そう勇気を出して母に伝えました。
でも、返ってきたのは
「あんた、そんなに元気なのに病気なわけないでしょ」という言葉。
私は、ずっとひとりで泣いてきました。
誰にも涙を見せず、耐えてきました。
なので、親は私の本当の苦しさを知らなかったのです。
4.夢を否定され、自分を見失った大学時代
そんな中でも、勉強は頑張っていました。
農業や航空宇宙に進みたいという夢もありました。
でも、尊敬する父に「そんな所に行って何になる」と言われて猛反対され、
勧められるまま、片道2時間の建築系大学へと進学しました。
実力以上の大学だったこともあり、授業についていくのが精一杯。
人間関係も思うようにいかず、居場所がないと感じることが多くなりました。
でも完璧主義な私は、毎週出される課題を必死にこなし、
学科1位の成績をおさめることができました。
けれど、それがかえって自分にプレッシャーをかける原因となり、
次第に心も身体も限界へ。
3時間睡眠の日々が半年ほど続いたころ、
ある朝、ついに布団から起き上がれなくなりました。
「うつ病ですね。それも重度です」
そう医師に告げられたのです。
そこから、私の中にあったものがすべて崩れ落ちました。
生きることにも、未来にも、何ひとつ興味が持てなくなっていきました。
5.社会のレールから外れた私
何日寝ても、何か月寝ても、何年寝ても、変わらない日々。
同級生は進学し、卒業し、社会に出ていく。
でも、私は中退して、そのまま、ただ時間だけが過ぎていく。
「私は、もう社会のレールから外れたんだ」
泣いても、喚いても、その事実は変わらない。
自分を責め、親を責め、過去を恨みながら、ただ虚しく日々が流れていく。
医師に相談しても、カウンセリングを受けても、「気にしすぎですね」と言われ、
何ひとつ伝わらない。何ひとつ、分かってもらえない。
生きることに疲れ、強い薬の副作用にも疲れ果てて、
私は人生を終わらせようと、オーバードーズを2度繰り返しました。
とても危険な状態でしたが、どちらも母が見つけてくれ、救急搬送され、なんとか命をつなぎとめました。
6.それでも「普通の人生」を望んで
そんな絶望の中にいた私ですが、心のどこかで「普通の人生」を、まだあきらめきれずにいました。
「なんとかして、みんなのように働きたい」
そう思い、うつ病の治療を続けながら、派遣社員として働きはじめました。
仕事は、駅の定期券売り場での販売案内。
人と関わることは本来好きで、頼られるとやりがいも感じていました。
でも、とにかく、ものすごく疲れる。
家に帰ると、何もできないほど、心も体も消耗してしまう。
「治療中だから」だけでは、片づけられない。
何か、もっと深いところで、私は疲れきっていた。
鳴り響く券売機の音。
まぶしすぎる照明。
モヤっとした空気。
慣れないスーツの締めつけ。
四方八方から感じる、視線の圧力。
「接客の仕事は好き。でも、この環境が合わない」
そう感じていた頃、私は運命的な出会いをきっかけに、結婚し、契約満了を機にその仕事を退職しました。
7.自分らしい働き方とは
結婚後は、うつ病の治療と家事に専念することにしました。
でも、夫に養ってもらっていることが、どこか肩身が狭く、
「私は社会から取り残された存在なんだ」と思い込んで、一人で涙を流していました。
私は早々に“自分らしい働き方”を探しはじめました。
でも、外で働くことを考えると、派遣時代の反動から対人恐怖症が悪化し、
一人で電車に乗ることさえできなくなってしまったのです。
そこで、家で自分のペースで稼げる方法はないかと、いろいろ模索しはじめました。
だけど、専門的な知識もなければ、他人より秀でた才能もない。
スキルも、経験も、何もない。
当時はまだ在宅ワークも今ほど普及しておらず、見つかる仕事も限られていました。
それでも「なんとかして家で稼ぎたい」と調べた末にたどり着いたのが、“ハンドメイド”。
特別にハンドメイドをしていたわけではなかったけれど、
大学時代に製図や模型の成績が良かったことを思い出し、
「手先の器用さなら、もしかして活かせるかもしれない」と思ったんです。
でも、プロでもない私が、お金をいただくなんて……とすごく抵抗がありました。
しかも当時は匿名配送もなく、自分の住所を記載して商品を送ることにも不安がありました。
だけど——
「社会のレールから外れた私が、ここで稼ぐ力をつけなかったら、もう一生ダメかもしれない…」
そう思って、勇気を出して、作品を作り、販売してみたんです。
初めて売れたのは、レース糸で編んだ1,200円のピアス。
「購入されました」の通知を見たとき、飛び上がるほど嬉しくて泣きました。
価値のない存在だと思っていた私が、誰かの手に届いた。
そんな気がして、心が震えました。
そこから私は夢中になって工夫を重ねました。
どんなものが売れるのか?
説明文の書き方は?
宣伝の仕方は?
写真の撮り方は?
売れるジャンルは?
調べて、試して、学び続ける日々。
ビジネス書も読みはじめて、経営やお金の流れ、マインドの作り方も学びました。
そして気づいたのです。
「大学を中退して、社会のレールから外れた私が自分の道を切り拓くには、“起業”しかない!」
最初は月2〜3万円の売り上げでしたが、少しずつ伸びていき、やがて月15万円を超えるまでになりました。
その後も「家でできることはないか?」と模索を続けました。
懸賞、ポイントせどり、クラウドワークスでのライティング、観葉植物の販売、LINEスタンプ作成、不要品販売……
この頃から私は「これってお金になるかな?」と常に意識するようになり、
普段の買い物でも「これはいずれいくらで売れるだろう?」と損益まで考えるようになっていました。
8.再び壁にぶつかり、自分を知る
とはいえ、当時はまだ副業や在宅ワークへの理解も浅く、
私の夫やまわりの人は、「外で働き、キャリアを積むのが当たり前」と考えていました。
そのため、私は「家で内職している変わった人」と思われていたのです。
肩身が狭くなり、うつ病の症状が落ち着いてきたタイミングで、再び外に出て働くことにしました。
次に選んだのは、ホームセンターでのレジとサービスカウンター業務。
自宅から近く、店内も広いので「今度こそ大丈夫かもしれない」と期待していました。
実際、閉鎖的な職場ではなかったし、スタッフの目も気にならなかった。
空調も効いていて、快適なはずでした。
……でも。
BGMが常に鳴り響き、
各ブースでは販促用の音楽が流れ続け、
照明は強すぎて、レジ画面は眩しすぎる。
商品のPOPも情報が多くて、頭がクラクラする。
お客様の多さもあって、毎日、めまいや頭痛に悩まされました。
家に帰ると、もう動けない。
ただただ、ぐったりする自分。
体力のなさに、絶望しました。
それだけではありません。
上司からちょっと指摘されただけで、一週間も落ち込む私。
「少し気をつけてね」と言われただけで、「私はなんてダメなんだ」と自己嫌悪に陥る。
周りを見れば、みんなはケロッと笑っている。
上司と冗談を言って楽しそうにしている。
なのに私は、涙が出るほど落ち込んでいる。
自分の心の弱さに、呆然としました。
「これは……治さなきゃいけないのかも」
そう思って本屋に行き、ある1冊の本と出会いました。
それが、HSPに関する本だったのです。
その瞬間、すべてのモヤモヤが晴れました。
「私、繊細さんだったんだ」
そこから心理学の本を手に取り、少しずつ自分との向き合い方を学んでいきました。
そして、長かったうつ病の通院も終わり、ようやく自分のことが分かってきました。
私は、五感が敏感で、刺激を受けやすい。
人の言葉に深く傷つき、長く引きずってしまう。
会社のような閉鎖的な場所よりも、自由な環境が好き。
——ようやく、心から思えたんです。
「私の人生は、ここから始まるんだ」って。
9.もう全部終わらせようとした日、世界が輝きはじめた
しかし、
「結婚生活に飽きた。離婚したい。」
結婚10年目、夫に突然そう言われました。
まさに、青天の霹靂でした。
それまで、家庭を支えながら、仕事にも全力を注いできた私の努力が――
すべて水の泡になったように感じました。
それから夫は、私を無視するようになりました。
私の顔を見れば、大きなため息をつき、あからさまに嫌な態度を見せる。
一緒にいることを避け、少しでも気に入らないことがあると、嫌味を言うようになりました。
私は、これまで感じたことのないストレスを感じました。
信じていた人に、一方的に捨てられる。
自分の頑張りを、まるで意味のないものとして扱われる。
私は、自分の存在意義がわからなくなってしまいました。
数ヶ月、仕事に行けなくなり、楽しんでいたハンドメイドの仕事にも手がつかなくなりました。
けれど、落ち込んでいる暇もないほどに、別の不安が頭を埋め尽くしました。
「離婚したら、このままでは生きていけないーー」
でも、以前の仕事にはもう戻る気力がない。
そこで私は、時給が良かった登山用品店で働きはじめました。
登山をされるお客様に、必要な装備を提案して販売する仕事。
もともと接客が好きだったので、やりがいを感じていました。
ですが、毎回接客が終わるたびに呼び出され、注意を受けるようになりました。
「その山にはその装備はダメ」
「ゴアテックスの機能説明が不十分」
「ウールと化学繊維の違いが分かっていないね」
登山用品は、お客様の命に関わる大切な道具。
正しい知識で案内しなければならないので、常に誰かが私の接客に耳を傾けていて、注意される毎日でした。
しかも、私が働いていたのは、坪効率が全国一位の店舗。
狭い店内には商品がぎっしり並び、常時10名以上のスタッフが動き回っていました。
土日祝日ともなれば、店内はお客様でごった返し、まるでお祭りのよう。
繊細な私にとって、毎日が情報過多。
しかも、接客のたびに注意を受ける。
ヘトヘトになって帰宅しても、そこには不機嫌な夫がいる。
――どこにも、自分の居場所がない。
ある日、仕事へ行こうと玄関を出たそのとき、家の中から
「あいつ、4ねばいいのに!!!!!」と怒鳴り声が聞こえました。
また別の日には、仕事中に「全然違う!!今まで何を学んできたんだ!!!」と、
お客様の目の前で怒鳴られました。
その瞬間――
もう、すべてが嫌になりました。
仕事もうまくいかない。
家庭もうまくいかない。
人生も、うまくいかない。
生きる意味が、まったく感じられなくなりました。
私は、生まれて初めて、遺書と遺言書を書きました。
本気で、人生を終わらせようと考えていたのです。
そして、決行直前――
波乱万丈な自分の人生に、終止符を打とうとしていました。
しかし、そのとき。
「どうせ人生終わらせるなら、最期の一回くらい、本気で人生楽しんでみるか…」
そんな言葉が、ふっと心に浮かびました。
その瞬間、自分の中で何かが切り替わったのです。
10.どん底から見えた、ほんとうの「わたしの人生」とは
何一つ、状況は変わっていない。
けれど、不思議と世界がキラキラと輝きはじめたのです。
辞めそうなほどツラかった仕事も、私に冷たかった夫も、なぜか愛おしく思えてきました。
「みんな必死に生きているんだな…」と。
そう思うと、自分に対しても、人に対しても、寛容になれたのです。
「現状は変えられなくても、見方は変えられる。」
思考がガラッと変わり、はじめてワクワクするような未来を想像するようになりました。
綺麗な服を着て、いつもニコニコして、自分が心から安心できる人たちに囲まれている。
心からやりたい仕事を、自分のペースで楽しんでいて、満たされている。
毎日、そんなイメージをして、ワクワクしながら過ごしていました。
すると、職場では
「職場の人は、私が可愛くて仕方がないから教えてくれるんだ」
と思えるようになり、
指摘を受けても笑顔で返せるようになって、自分からも話しかけるようになりました。
だんだんと、仕事が楽しいと思えるようになっていったのです。
家にいて、夫が無視をしても、
「私は理解できないけれど、夫には夫の世界がある」
と思えるようになり、
夫の言動を客観的に見ることができるようになって、よい距離感を保てるようになりました。
ずっと「仕事と家」の往復だけだった私が、
おしゃれに興味を持ち始め、買い物に行くことが増えました。
これまで、たくさん読んできた心理学の学びが、少しずつ花開き始めて、
「このときは、こんな思考をすれば良いんだ」と、自然と対処できるようになっていました。
そして、長年、人に恐怖を感じて、仕事以外で人と関わることを避けてきた私が、
はじめて「いろんな人と交流したい!」と思えるようになったのです。
「自分と同じような人と仲良くなりたいな」
そう思って、HSP交流会に参加しました。
正直、とても緊張しました。
仕事以外で人と会うなんて、10年以上ぶりのことだったからです。
でも、そこで出会ったHSPさんたちは、驚くほどやさしく、あたたかくて――
そして、私ととてもよく似ていました。
私が長年ひとりで抱えてきた、些細だけれどつらかった悩みにも、
「分かるよ」と言ってくれる人たち。
無理に盛り上げなくても、ただそこにいるだけで安心できる空気。
「ああ、私はずっとこういうつながりを求めていたんだ」
心の奥から、ふっと安心が湧き上がるのを感じたと同時に、
「HSPさんたちに、人生を捧げたい!!」と、心に決めました。
そこから私は、
「私の人生、自由にやりたいことをやって生きよう!」と思い、
離婚をして一人暮らしを始め、新しい自分の道を歩きはじめました。
11.HSPさんが自分らしく生きるには
私が人生を通して分かったことは、
まず、思考と環境を整え続けることです。
今の現状がどんなに辛く苦しくても、
他人は変えられません。
過去も変えられません。
変えられるものは、自分の思考を変えていくこと、自ら環境をつくることなのです。
HSPさんは、環境感受性が高い気質をもっているため、
環境から受け取る影響が他の人より高く、良い環境では良い影響を、
悪い環境では悪い影響を受けます。
だからこそ、自ら環境をつくる側に回ることが大切なのです。
それは日常のちょっとした工夫もそうですし、
働くときも自分が心地よいと思える環境をつくったり、探し続けるのです。
そしてその環境は1つじゃないとダメと思わず、たくさんの心地よい環境をつくっていくのです。
そして、思考というものは自分が知らず知らずのうちに、悪い環境から悪い影響を受け、
どんどん歪み偏っていきます。
そして、それが”普通”だと思うようになってしまいます。
すると、その思考が現実に影響していき、あらゆる事象を歪んだメガネで見るようになっていきます。
そうならないために、まずは、自分の思考の歪みに気づき、自分を正しく受け入れることが大切です。
そして、感情にながされず、この時はこの対処をしようと、自分が流されない工夫をしていくのです。
今までの思考は、自分に合わない環境の中で、長い間蓄積されてできたものです。
その思考を整えるには時に同じくらい時間がかかる場合がありますが、
日々整え続けていけば、大きな変化が現れ、理想の自分になるようになります。
私はこのnoteを通して、HSPさんが自分のペースでゆっくり楽しみながら自分の経験をnoteで仕事ができるようにサポートをしています。
12.最後に
私が今日もこうして活動できているのは、私一人の力ではありません。
これまで多くの人たちが、その時その時私にサポートをしてくれたのです。
はじめて交流会を開催しようとした日。
オンラインコミュニティを運営したいと思った時。
メンタルサポートをしたいと思った時。
コーチとして活動したいと思った時。
書ききれないほど、多くの人に協力してもらい、助けてもらい、教えてもらい
今の私がいます。
私、一人では辿り着けないところへ、
たくさんの人たちが背中を押してくださって辿り着くことができ、今も私は歩み続けています。
だからこそ、私はあなたが辿り着けないところへ背中を押す人たちの一人になれたらと思っています。

