考えすぎない。抗いすぎない。ひとつずつ生きてみる。
いくつかの小さな気づきがあった。
考えすぎない。
無理に抗わない。
すぐに答えを出さない。
そんなふうに、少し力を抜いて生きてみる。
今日は、そんなことを考えた一日だった。
「やる前」が、いちばん大変かもしれない
朝、目が覚める。
まだ布団のなかにいるうちに、今日やらなければならないことを思い浮かべる。
・仕事のこと
・人との約束
・細かな用事
・返信しなければならない連絡
・帰ってきてからやること
ひとつひとつは、それほど大したことではない。
それなのに、全部を一度に思い浮かべた瞬間、「今日は大変だな」と、うんざりしてしまう。
HSS型HSPである自分には特に、こういうことがよくある。
実際に何かが起きたわけではない。ただ、これから起こることを頭のなかで先回りしてしまう。
「これは面倒そうだ」
「これをやったら疲れそうだ」
「このあとにも、まだあれがある」
そんなふうに、まだ始まってもいない一日の大変さを、朝から一通り味わってしまう。
ところが最近、少し不思議なことに気づいた。
いざ始めてみると、案外できてしまうのだ。
ひとつ目を終える。すると、次のことにも取りかかれる。
「思っていたほど大変ではなかったな」と思う。
そして一日の終わりには、「なんだ、今日もちゃんとやれたじゃないか」と思う。
考えてみれば、これは当たり前のことなのかもしれない。
頭のなかでは、まだ何も始まっていない。だから、いくつもの仕事や出来事が、一度に自分へ向かってくる。
けれど現実では、基本的にひとつずつしかできない。
メールを一通返したら、次は資料をひとつ確認する。
その次に誰かと話す。
そうしているうちに、一日は少しずつ進んでいく。
つまり僕は、「今日一日」を大変だと思っているのではなく、「今日一日に起こることを全部まとめて想像すること」に疲れていたのかもしれない。
そう考えると、少し気が楽になる。
未来を正確に予測する必要はない。
朝の時点で、「今日は大変な一日になりそうだ」と決めつけなくてもいい。
まず目の前のひとつをやってみる。
できたら、次のひとつへ進む。
最近は、それだけで十分なのだと思うようになった。
考えることが得意な人ほど、考えることによって疲れてしまうことがある。
だから、ときには考える前に動いてみる。
やってみれば、思っていたより簡単なこともある。
そして何より、「自分は案外できる」ということを、自分自身が思い出せる。
今日も、全部を背負って一日を始めなくていい。
ひとつずつでいい。
そう思えるようになったことが、最近の自分にとって、小さな変化であり、うれしい発見である。
「知っている」を、いったん飲み込む
人と話しているとき、「それ、知っています」と言いたくなることがある。
自分が知っていることが話題に出ると、つい口を挟みたくなる。
「それはこういうことですよ」
「実は、こうなんです」
そんなふうに、自分の知識を相手に伝えたくなる。
悪気はない。
むしろ、会話を盛り上げたいとか、相手の役に立ちたいという気持ちから出てくることもある。
けれど最近、仕事でお客様と話をしていて、ひとつ気づいたことがある。
「知っていること」と「話していいこと」は、同じではない。
自分が知っているからといって、すぐに口に出す必要はないのだ。
そして、相手の話を最後まで聞いてみる。
すると、不思議なことが起こる。
最初は「それは知っている」と思っていた話のなかに、自分の知らなかった事情や、その人にしかわからない感情が見えてくる。
知識としては同じことでも、その人がなぜそう考えたのか、なぜそれを大切にしているのかまでは、聞いてみなければわからない。
人の話を聞くというのは、情報を集めることではないのだと思う。
その人の世界を、少しだけ見せてもらうことなのかもしれない。
だから、知っていることほど、慎重に扱いたい。
知識は、持っているだけなら静かなものだけれど、ひけらかした瞬間に、相手との間に小さな壁をつくることがある。
「自分は知っている」
「あなたは知らない」
そんな関係に、いつの間にかなってしまうからだ。
一方で、「それは知っています」という言葉を飲み込むと、相手は安心して続きを話せる。
そして話を聞いているうちに、自分の知識も少しずつ深くなっていく。
知識を増やすことだけが、学ぶことではない。
知っていることを、あえて使わない。
すぐに答えを出さず、相手の言葉を待つ。
そこにも、ひとつの学びがあるのだと思う。
最近は、「知っている自分」を見せることより、「知らないことを教えてもらう自分」でいることのほうが、ずっと豊かな時間をつくれるのではないかと思っている。
会話では、言葉を足すことだけが大切なのではない。
ときには、ひとつ言葉を飲み込む。
その小さな余白が、相手の話を引き出してくれる。
そしてその余白のおかげで、これまで見えていなかったものが見えてくる。
「知っている」を手放すことは、知識を捨てることではない。
相手をもっと知るために、自分の知識をいったん脇に置いておくこと。
それは、人と丁寧につきあうための、小さな礼儀なのかもしれない。
「生きること」の結論めいたもの
なぜか分からないが、ふと「生きること」とはこのようなことなのでないか、と考えた。
生きるということは、結局のところ「自然の法則の範囲のなかで生きる」ということなのではないか。
経済的に大きな成功を目指す人もいる。
毎日の小さな目標を一つずつ達成しようとする人もいる。
家族と穏やかに暮らし、ほどほどに働いて、安定した毎日を送りたいと考える人もいる。
目指すものは、それぞれ違う。
けれど、どんな生き方を選んだとしても、僕たちは自分の意思だけで世界をつくることはできない。
眠らなければ疲れるし、食べなければお腹が空く。
年齢を重ねれば身体は変化する。
人と関われば、相手の感情や都合にも左右される。
お金を稼ぐには誰かに価値を提供する必要があり、
社会のなかで暮らす以上、法律やルールから逃れることもできない。
つまり、人間は自由に生きているようでいて、実際にはたくさんの
「決められた条件」のなかで生きている。
脳の仕組みもそうだ。
僕たちは、何かを欲しくなったり、不安になったり、誰かと比べたりする。
危険を避けようとする一方で、新しいものを求めることもある。
そうした心の動きの多くは、自分で一から選んでいるというより、人間という生き物に備わった仕組みの影響を受けている。
そう考えると、「自分の人生を自由にデザインする」という言葉が、
少し違って見えてくる。
人生は、好きなように何でも描ける白いキャンバスではないのかもしれない。
むしろ、すでにいくつもの線が引かれている紙の上で、その範囲のなかで自分なりの絵を描いていくものなのだろう。
だからといって、なにもかもを諦める必要はない。
むしろ、できないことを知ることで、できることが見えてくる。
自然に逆らって無理をするよりも、自分の身体や心の性質を知る。
社会の仕組みを理解する。
他人を思い通りにしようとせず、人には人の事情があると知る。
そのうえで、自分はどんな一日を送りたいのかを考える。
成功したい人も、穏やかに暮らしたい人も、結局は同じ世界のなかで生きている。
違うのは、与えられた条件のなかで、何を大切にして生きるかということなのだと思う。
自由とは、何でもできることではない。
自分を取り巻く法則を知り、その範囲のなかで、自分らしい選択を重ねていくこと。
今日、そんなことを考えた。
人生は思っているより不自由で、だからこそ、思っているより自由なのかもしれない。
