司馬遼太郎『峠』の誤謬|はじめてのnote
皆様、初めまして。遠山広行と申します。自己紹介は後日、改めてさせて頂きます。早速ですが、亡くなって30年近い国民的な大作家の版を重ねる人気作品にケチを付けて、全く申し訳ございません。『峠』は幕末の越後長岡藩の家老河井継之助を描いた司馬遼太郎氏(1923-1996)の長編小説ですが、失礼ながら???となる意味不明な記述があるのです。凡そ歴史小説家ならば絶対に犯さないと思われるミスが、昭和41年11月に始まった毎日新聞での連載の最終章〜同43年10月の新潮社単行本〜同社文庫本(昨令和6年購入の私の手持ちで38刷)の長きに渡って、現在まで延々と公刊されています。同新聞の担当編集者、新潮社の単行本&文庫改版の担当者、司馬遼太郎全集に同書を採録した文藝春秋社の担当者、長岡市教育委員会・同市の郷土史家、幕末〜近代史の(『峠』を読了済みの)専門家のほか、司馬遼太郎ファンのお歴々まで、皆々様が気付かなかったのが不思議です。と言っても、気付かない人は全く気付かないかも知れません。また気付いても華麗にスルーしている方も居るかも知れません。以下ネタバレを含みますので、これから同書を読みたい方、映画版の『峠 最後のサムライ』をまだ観てない方は読み進めないで下さい。陰暦に造詣の深い専門家には重大問題だと思いますが、そうでない方には全くどうでも良い事柄だと思います。肝心なストーリーには全く抵触しない、些細と言えば些細な事柄です。




問題の箇所は『峠』の最終章「八町沖」にあります。手持ちの新潮文庫版下巻(38刷)ですとP.406の後ろから2行目、「陰暦でかぞえると、きょうは十四日なのである」です。全く残念です。もしこれが罷り通るなら、『天才バカボン』のテーマ曲の如くおひさまが西から昇ります。 少し遡ってP.403の5行目には「〜作戦地にむかったのは、七月二十四日なのである」とあります。さらにもう少し遡ってP.393の8行目には「以上のすべては、七月二十四日昼までに達しおえた」とあります。これらは全て北越戊辰戦争の「八丁沖の戦い」(慶応四=明治元年[※]七月二十四〜二十五日、西暦1868年9月10〜11日。司馬氏は八町沖と表記。以下今後の投稿も含めて全て、陰暦は漢数字で、陽暦=太陽暦、即ち現行のグレゴリオ暦はアラビア数字で表記します)を描いた部分なのですが、司馬氏も陰暦で全体の話を進めておいて、七月二十四日に十四日の月が出ているのです。言い換えると、二十四夜🌗に十四夜の月🌕が昇ってしまっています。凡そ歴史小説家ならば絶対に犯さない間違いを犯しているのです。読み返す度に、今でも目が回ります。
[※]慶応四年は九月八日(10月23日)に明治元年に改元され、公式には元日(1月25日)まで遡って適用されますが、当時の状況を慮って以下も慶応メインで表記します。
ここで日本の陰暦(=旧暦、太陰太陽暦)に大雑把に触れますと、新月・朔🌑になる瞬間を含む日を毎月一日(朔日)として、月の満ち欠けを第一の基準にする暦です。日付と月の相がリンクしていて、三日の夜は文字通りの三日月🌒で、十五日は十五夜でほぼ満月🌕になります。こんにちでも、毎年八月十五日は中秋の名月🌕🎑でお馴染みですね(令和7年は10月6日)。二十三日くらいで下弦の月🌗、さらに二十九日(小の月)か三十日(大の月)の晦日(みそか、つごもり)を経て新月🌑の一日に戻ります。月の満ち欠けは平均して約29.53日で、小の月と大の月は6ヶ月ずつの12ヶ月でおよそ354日(29.53x12=354.36)となり、太陽暦の1年の約365日から約11日短くなるので、三年弱でひと月分短くなる頃に閏月(うるうづき)を挟んで、太陽暦に近づく様に補正します。細かく言うと二十四節気の中気を使います。閏月を挟むのはおよそ19年で7回くらいです。明治の改暦以前の幕末は当然陰暦で、司馬氏も『峠』の作品中ずっと陰暦を使ってます。因みに、太陽暦に近付ける補正をしない純粋な太陰暦もあります。イスラム世界の「ヒジュラ暦」は有名ですね。第9月には断食(ラマダーン)をします。わたくし暦の研究は大好きで、今後もnoteに取り上げたいと思います。
承前。
弊害は『峠』を原作とした映画『峠 最後のサムライ』にも及んでしまい、八丁沖の緊迫した場面に象徴的に月が雲から現れるシーンも丁寧に描かれてます。雲に半分くらい隠れてはいますが、一瞬出る月は明らかに二十四夜の月(通常はほぼ下弦の月🌗)ではない感じです。全ては顕れていないので、再編集は免れそうです。良かったですね。
一体全体、司馬氏ほどの方が何故こんな酷い間違いを犯したのか疑問で、手掛かりを求めて新潟県長岡市の八丁沖古戦場パークを昨令和6年9月に訪れました。



見出し&サムネ画像もその時の物です。以下碑表より引用。
八丁沖古戦場
八丁沖は長岡の東北郊外、百束、大黒あたりから南は富島、亀貝にいたる南北約5キロにわたる大沼沢地であった。
河井継之助は長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにしてこの八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画した。そして慶応四年(1868)七月二十四日午後七時ごろ行動を開始し、全軍六00余名声をひそめて潜行し、七月二十五日未明に宮島へたどり着き、大激戦のすえ宮下の新政府軍前線基地を占領した。さらに、全軍を四手に分け、長岡城めざして猛進撃に移った。不意を突かれた新政府軍は必死に防戦したが、昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功した。
継之助のこの八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なのを察知し、巧みにその虚をついた作戦として現在でも高く評価されている。
昭和六十三年(1988)建立
長岡市
「慶応四年(1868)七月二十四日午後七時ごろ行動を開始し」と日時が細かく記されているのは収穫でしたが、司馬氏の誤りに対して決定的な手掛かりはありませんでした。
更に考察を深めて、『峠』下巻P.264L4に「〜越後長岡の旧藩士今泉鐸次郎翁はその著『河井継之助伝』(この『峠』もこの労著に負うところが多い)のなかで、」とあるところの目黒書店刊『河井継之助傳』の復刻版(象山社、税別12,000円)を購入して、精読してみました。
全編旧漢字旧仮名遣いで辟易しましたが、こんにちではスマホで手書き入力可能の漢字辞典アプリがあり、読解もだいぶ容易になりました。昔は紙の漢和辞典で一生懸命に部首と画数で調べましたが、隔世の感です。難読漢字でも威力を発揮するので、ご存知ない方にはご利用をお薦めいたします。
閑話休題。
すると、遂に誤りの根源を発見しました。P.509に「斯くて七月廿四日」と、二十を一文字で表す旧字の廿で七月二十四日以降を記述しているのに対して、P.521では何の前触れも脈絡も無くいきなり「十四日の月は出で」と十日もタイムリープしています(下記画像傍線)。つまり、『河井継之助傳』の十と廿の誤植(または誤記)が原因だと推測出来ます。何故増補改訂版でも訂正されていないのかは謎ですが、まぁ、それはどなたかに謎解きして頂きましょう。


飜って司馬遼太郎氏ですが、幾ら底本に誤植があったとしても、歴史小説家ならば不都合に気付きませんでしょうかね? 陰暦廿四日に十四日の月が出ていれば、整合性が取れないでしょうに、理解に苦しみます。今さら故人に言っても仕方ないので、現実問題として著作権保有者と新潮社及び全集に採録している文藝春秋社(以下三者)にはいずれ改訂版を出して頂き、新たな編集部注または解説を付けて頂きたいなと思います。弘法も筆の誤りです。是非是非、宜しくお願いいたします。

最後にエピローグとして、八丁沖の戦い当日の月の出を見ておきましょう。八丁沖古戦場パークのおよその位置(東経138°53'25.25"、北緯37°28'23.16")から秒以下は切り捨てます。東側は標高100〜400mほどの山が迫ってますが、簡易的に仰角ゼロの眼高(標高3m)とします。かわうそ@こよみのページさんで計算してみます。
すると、1868年9月10日は月の出が23時14分(方位66)で、正午月齢は22.9。当然ですけど下弦から更にもう少し欠けた月で、十四夜の小望月とは程遠いです。『峠』本文のP.406L8以降では夜十時ごろには既に月が昇っていて、雲の一部が異様に明るいのだそうです。まぁ、司馬氏らしい感じです。この辺りは昭和40年代の創作で月の出のシミュレーターなどありませんし、やむを得ないかなとも思います。ひょっとしたら司馬氏も構想からその描写ありきで、件の「十四日の月は出で」を目いっぱい膨らませたのかも知れません。だから肝心要の二十四日がすっぽり抜け落ちてしまって、十四日の思い込みに囚われたのかも知れません。が、いずれにせよ、駄目なものは駄目だと思います。慶応四年七月二十四日は慶応四年七月二十四日であり、十四日ではありません。タイムリープものの空想歴史小説ならともかく。もし司馬氏が夢にでも出て来てくれたら、認識を聞いてみたいです。揚げ足を取って人物が小さいと、大喝を頂戴するかも知れませんけど。
因みに、かわうそ@こよみのページさんの無料メールマガジン(下記)は、暦好きにはとても面白いと思います。不定期の「暦のこぼれ話」は特に勉強になります。私も長年愛読しています。皆々様にお薦めいたします。ではまた
日刊☆こよみのページ
