世界史物語20 中世ヨーロッパにおける「商業の復活」と都市の発達
十世紀から十一世紀にかけて西ヨ-ロッパでは活発な商業活動が展開されるようになった。ベルギ-の歴史家アンリ・ピレンヌのいう「商業の復活」である。この「商業の復活」の担い手になったのが遍歴商人たちで、彼らは商品を携え、河川の合流点や、城や教会の近くなどの交通上の要地で、最初は一定期間だけ、後には永続的に商売を営むようになった。農村からの余剰生産物はここで交換され、やがてそこに市場を中心とする新たな集落=「都市」が誕生した。
都市は大きくなるに従って、農村地帯に潜在する手工業者たちも吸引するようになったが、当然のことながら最初は領主の支配下にあった。しかし、彼らの経済力の増大と共に領主に抵抗する気運が高まり、いわゆる「自治権獲得闘争」がおこった。これによって都市は武力あるいは貨幣の力によって領主の支配から自由になっていった。
都市は自らの手で市長や市参事会員を選び、都市法を作り、そして自治を守るために周囲に城壁をめぐらした。やがて自由を求める農民たちが次々と都市へ逃げて来るようになり、いつの頃からか、都市で一年と一日みつからずに暮らせればはれて自由な市民になれるという原則がうまれてきた。これを「一年と一日の原則」という。「都市の空気は自由にする」という中世ドイツの諺は、不自由な農村と自由な都市とを対比した言葉として有名である。
ネルトリンゲン

都市は主として商人や手工業者から成っていたが、彼らは競争による共倒れを防ぐために職種ごとに一種の組合を作っていた。これがギルドで、ギルドに属していなければその都市領域内で営業することは不可能であった。ギルドの正式の会員になれたのは親方のみで、その下には雇職人が、さらにその下には徒弟がいた。親方になるためには長くきびしい修行が必要であった。またいくら修行をしても、最終的に試験作品(「マスターピース(マイスターシュトゥック」)が審査を通過しなければ親方になれなかった。
商業の復活の背景には、北イタリア地方と北海・バルト海沿岸地方における遠隔地商業の発達があったことを見逃してはならない。
北イタリア地方では、アドリア海の女王と呼ばれたヴェネチアを筆頭として、そのライバルのジェノヴァ、毛織物工業と金融業の発達した「花の都」フィレンツェなどの諸都市を中心に遠隔地貿易が発達した。ヴェネチアやジェノヴァの商人たちはエジプトのアレクサンドリアなどで、アラビアの商人たちが運んできた香料や染料、熱帯産植物や果実、綿織物や絹織物といったいわゆる「東邦の物産」を大量に仕入れ、それをヨ-ロッパ各地で販売した。
「アドリア海の女王」ヴェネチア

ヴェネチア

逆に彼らは、ヨ-ロッパから金・銀・銅などの鉱産物、毛織物、木材、穀物などを持っていき、アラビア商人の手をへて東邦に輸出した。
輸入品の中で特に重要だったのは胡椒で、料理や肉の保存に使われる他しばしば貨幣的用途にも使われた。輸出品の中で胡椒に匹敵する役割をになったのが銀であった。この銀のほとんどは南ドイツ産で、アウクスブルクのフッガー家という大財閥が生産を牛耳っていた。
フッガー家が建設した「フッゲライ」(アウクスブルク)

北海・バルト海沿岸地域で遠隔地商業の担い手となったのが、リューベック・ハンブルク・ブレ-メンなどのいわゆるハンザ同盟の諸都市の商人たちであった。彼らは北海とバルト海を結ぶ商業圏を中心に活躍し、ロンドンやブリュ-ジュ・ベルゲンなどに商舘をおいていた。
彼らのあつかった主な商品は北東ヨ-ロッパ産の塩鰊、干鱈、穀物、木材、毛皮などであり、それらを西ヨ-ロッパ産の塩、毛織物、羊毛さらには東邦の物産などと交換する形で貿易を行っていた。
両地域の中継をはたしたものが、フランスのシャンパーニュ地方で行われた大市であった。この地は北はセーヌ川、南はロ-ヌ川、西はロアール川、東はモ-ゼル川を通じてライン川とそれぞれ結ばれ、交通が至便の地であった。市は年に6回、1回が6週間程度の日数で行われ、各地からの商人たちでにぎわった。
リューベックの旧市街

ブレーメン

シャンパーニュ地方(赤で塗られた地域)

