世界史物語17 フランス革命から七月革命・二月革命へ~ナポレオンの時代を間に挟んで
目次
0、はじめに
1、「朕は国家なり」~「太陽王」ルイ14世
2、アンシャン=レジーム(旧制度)
3、「陛下、革命でございます」~フランス革命の勃発
4、人権宣言とヴァレンヌ逃亡事件
5、ゲーテ「世界史の新しい時代がはじまる」~第一共和政の樹立
6、ルイ16世の処刑とロベスピエールの「恐怖政治」
7、「そして誰もいなくなった」~テルミドールの反動
8、ナポレオン・ボナパルト登場
9、皇帝ナポレオンの誕生~ベートーヴェン、「英雄」への献辞を破りさく
10、周辺諸国との戦いと神聖ローマ帝国の終焉
11、ナポレオン、ロシア遠征に失敗する~トルストイの『戦争と平和』
12、「馬上の世界精神」ナポレオンの百日天下
13、『会議は踊る』と『風立ちぬ』~ウィーン会議
14、七月革命と『レ・ミゼラブル』
15、七月王政と社会主義思想の発展
16、二月革命と第二共和政
17、スペイン舞踊の踊り子とドイツ三月革命
18、フランクフルト国民議会~ドイツ統一未だ成らず
0、はじめに
西ヨーロッパの17世紀から19世紀にかけては、「革命の時代」という名がふさわしい時代だと思います。
17世紀半ばにイギリスで起こった「清教徒革命」を皮切りに、同じくイギリスで17世紀末に起こった「名誉革命」、18世紀後半の「イギリス産業革命」と「アメリカ独立革命」、そして18世紀末に起こった「フランス革命」、19世紀にフランスで起こった「七月革命」と「二月革命」という具合に。
それらの革命の中でも、イギリス産業革命を除く、清教徒革命・名誉革命・アメリカ独立革命・フランス革命・七月革命・二月革命は一般に「市民革命」と総称され、それぞれの革命によって細かな様相は異なりますが、「絶対主義」あるいは「絶対王政」と呼ばれる王権がきわめて強い時代にあって、市民や農民たちが自己の権利を求めて立ち上がった革命として知られています。そして、それらの革命の中で、最も急進的で過激な形をとったのが1789年に起こったフランス革命でした。
1、「朕は国家なり」~「太陽王」ルイ14世
17世紀から18世紀にかけてのフランスの人々は、ルイ14世による圧政と周辺諸国への侵略戦争に苦しんできました。このヨーロッパの「絶対主義」あるいは「絶対王政」の時代を象徴する王の権威がいかなるものであったかについては、オーストリアの有名な伝記作家シュテファン・ツヴァイクが、ヴェルサイユ宮殿について記した文章の中で、うまくまとめてくれていますので、ここではそれを借用することにしましょう。
「ヴェルサイユ王宮は、今日なお、専制政治の最も壮大な挑戦的ゼスチュアを示している。これという明白な理由もなしに、首都を離れた田園のさなかに、巨大な王宮が人工の岡の上に屹立(きつりつ)し、数百の窓の眼を放って、人工の水路、人工の庭園を見はるかして虚空をにらんでいる。商業交通を促進する川一本流れているわけでなく、道路や鉄道の交叉する地というでもない。まったく偶然に、偉大な君主の気紛れが化石した形で、この王宮はその無意味なくらい巨大な華麗さを驚嘆する人々に示している。
しかし、これこそ、ルイ14世の専制的意志が希求したものなのだ。すなわち、彼の自信、自分を神に祭りあげようとする好みに、彼の専制的意志が輝かしい祭壇を打ち建てようと欲したのである。断固たる独裁者、権勢を求めてやまない人間である彼は、分裂した国土に、彼の統一への意志をみごとに押しつけた。国家には秩序を、社会には道徳的風習を、宮廷には礼法を、言語には純化を与えたのである。このような一体化への意志は、彼の人物から輝きでたものであったから、すべての光栄はふたたび彼という人物に流れかえるべきはずである。
「朕はすなわち国家である」、余の住むところ、これすなわちフランスの中心であり、世界の臍(へそ)である。彼の地位のこの完全な絶対性を象徴するために、太陽王は故意にその宮殿をパリから移す。空漠とした田園のただなかにその王宮を建設することによって、フランスの王たる者は、その権力の支柱、あるいは裏づけとして、なんらの都市、市民、大衆を必要とするものではないことを彼は強調する。
王たる者は片手をあげて命令すればたりる、そうすればたちどころに沼地は変じて庭園となり、砂地は化して森となり、滝や洞穴ができ、世にも美しく巨大な宮殿が出現するのである。王がほしいままに選定したこの星座から、これ以後は彼の王国の太陽は昇りまた沈む。人民は無であり、王がすべてであることを、フランス国民にはっきり証明するために、ヴェルサイユは建てられたのである。」
シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』
(高橋禎二・秋山英夫訳)岩波文庫
ルイ14世

ヴェルサイユ宮殿(1668年)

現在のヴェルサイユ宮殿

ルイ14世の「太陽王」ぶりは、上記のツヴァイクの文章が示す通りですが、この王の権威は、ルイ14世の後をついだ孫のルイ15世の時代になっても何ら変わらず、「無」である人々のおかれている状況は苦しいままでした。
2、アンシャン=レジーム(旧制度)
このようなルイ王朝時代のフランス社会はアンシャン=レジーム(旧制度)とも呼ばれ、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(市民や農民)の三つの身分に大きく分かれており、支配階級である第一・第二身分が人口の大多数を占める第三身分を支配する典型的な階級社会でした。
アンシャン=レジーム(旧制度)の風刺画

当時のフランスの人口は2,600万人程度と推計され、ヨーロッパ第一の人口を誇る国でした。そのうち第三身分たる市民や農民が人口の大部分を占め、第一身分の聖職者は14万人、第二身分の貴族が40万人程度であったと言われます。支配階級たる第一・第二身分を合わせても人口の2パーセント強を占めるにすぎませんでした。
なかでも第二身分たる貴族は自分の領地において、様々な封建的特権を享受し、多くは不在地主としてヴェルサイユの王の周りにくっついて享楽的な生活を送っていました。ある貴族などは一回の夜食会に20万ルーブル使ったと言われます(1ルーブルは今の円の価値では、おおよそ500円))。
その貴族の頂点に立つ国王ルイ16世は、あまり派手なことを好まず、趣味は錠前作りと狩猟だけで政治にはまったく無頓着という、先代のルイ14世や15世に比べるときわめて鈍重な人物で、国民からは皮肉を込めて、「善良なるルイ」と呼ばれていました。しかし、ハプスブルク家出身の王妃マリー・アントワネットは、王とは対照的に、自由奔放?で、有名な”首飾り事件”にも象徴されるように、とびっきりの浪費家としても知られていま
す。
ルイ16世

マリー・アントワネット

第一身分の聖職者は第二身分の貴族と同じく支配階級に属していましたが、上下の差が激しく、ストラスブール大司教の年収は80万ルーブル、で司教クラスのそれは年4万ルーブルくらいだったようです。しかし、村々の司祭クラスになると年収750ルーブル程度で、生きていくのが精一杯だったと言われます。彼らのかなりの部分が革命が起こった時、第三身分側についたと言われるのは故無しとしません。
これに対して、被支配階級である第三身分の生活は非常に苦しいものでした。
まず2,300万人と人口の大多数を占めた農民の生活は特に苦しく、すでに農奴の段階は脱し、小土地所有は認められていたとはいえ、多くの封建的義務は残ったままでした。
当時の瓦ぶきの農家は4分の1以下で、残りの多くは草で屋根をふいていたと言われます。家の中は居間と馬小屋と脱穀場だけで、家族が多い農家は馬小屋で冬を過ごす場合もありました。
小麦は地代として納入し、自分たちはライ麦やカラス麦を食べていました。肉は日曜日や祭日に食べるにすぎませんでした。窓ガラスはなく、靴や靴下も履いていませんでした。当時の農民の平均寿命は25歳程度だっと言われます。
第三身分のもう一方を占める市民は300万人くらいいて、大きく上層市民とそれ以外に分かれました。
上層市民は、貿易商人や大地主そして銀行家などから成り、絶対王政に寄生して様々な特権を得ていました。彼らの中には、貴族の権利を金で買い、いわゆる「法服貴族」になる者もいました。従って、彼らの多くは絶対王政という社会そのものをひっくり返そうとする意識はありませんでした。
商工業者から成る上層市民以外の市民たちも、商工業の発達により豊かになりつつありました。しかし、上層市民と違って、彼らの多くは、絶対主義的な束縛に不満を持っており、生産や流通を妨げている一切のものを払いのけたい欲求を持っていました。つまり社会の変革を望んでいたのです。
このように三つの身分から構成されるアンシャン=レジームの社会で、一つ忘れてはならないのは、18世紀における啓蒙思想の普及でしょう。啓蒙思想というのは、すべての伝統的偏見を打破し、理性を重んじることによって民衆を無知蒙昧の状態から脱出させようとする思想ですが、それは明らかに絶対王政否定の思想でした。この時代には、ルソー・モンテスキュー・ボルテールなどの啓蒙思想家たちが次々とあらわれ、彼らの思想がフランス革命の勃発の一つの要因となったことは論を待ちません。
3、「陛下、革命でございます」~フランス革命の勃発
フランス革命がおこった究極的な原因は、このアンシャン=レジームという社会の矛盾のうちにもとめることができますが、フランス革命がおこる”直接的”なきっかけをつくったのは国家財政の問題でした。
当時のフランスの国家財政は、スペイン継承戦争やオーストリア継承戦争、七年戦争やアメリカ独立戦争などで多大の戦費を使ったことや王族の享楽的生活などもあり、危機に瀕していました。テュルゴーやネッケルそしてカロンヌらといった歴代の財政統監の行った財政改革はどれも実を結びませんでした。
ネッケル

1789年5月、この問題を討議するため、200年近く開かれていなかった三部会が召集されました。しかし、議会の進め方をめぐって第一・第二身分と第三身分の間に対立が起きました。第一・第二身分の議員たちが身分別の議決を主張したのに対し、第三身分の議員たちは全身分合同の議決を主張したからです。
三部会

王が第三身分の議員に露骨な差別を加えたため、これに反発した第三身分の議員たちは、第一・第二身分と離れて国民議会を作り、憲法を制定するまでは解散しないことを誓いました(球戯場[テニスコート]の誓い)。
国王ルイ16世はいったんこれを承認しましたが、保守的な貴族に動かされて今度はこれを弾圧しようとしたため、怒ったパリの市民たちは1789年7月14日、政治犯たちが収容されているバスティーユ牢獄を襲撃し、これに呼応するかのように各地で農民の反乱がおきました。これがフランス革命の始まりです(現在のフランスでは、7月14日は「革命記念日」として祝日になっている)。
第三身分の目覚め

球戯場[テニスコート]の誓い

バスティーユ牢獄の襲撃

日本では「パリ祭」として知られる「革命記念日」(1967年)

バスティーユ牢獄襲撃の知らせを受けた時の国王の最初の反応は、「それは暴動じゃないか」という”呑気”なものでしたが、知らせたリアンクール公爵の答えは「陛下、暴動ではございません。革命でございます」というものでした(S・ツヴァイク『マリー・アントワネット』)。
4、人権宣言とヴァレンヌ逃亡事件
国民議会は、農民の不満をおさえるため8月4日、封建的特権の廃止を決議し、さらに8月26日には、17条よりなる人権宣言を採択しました。国王はこれらの決議に反対しましたが、パンの値上がりに怒ったパリのおかみさんたちの手によってヴェルサイユからパリへ移されました。
人権宣言

最初の頃フランス革命を主導した人々は、ミラボーやラファイエットらの立憲君主主義者であり、彼らは王政変革の意志はまったくなく、革命のこれ以上の進行をのぞんではいませんでした。
しかし、1791年6月20日、国王一族がオーストリアへ逃亡しようとした(ヴァレンヌ逃亡事件)ため、王に対する国民の不信感が強まりました。そしてそのような中、国民議会は憲法を制定して解散し、新たに立法議会が発足しました。この立法議会において優勢だったのは、自由主義貴族や上層市民を代表するフイヤン派(立憲君主派)と商工業者を代表するジロンド派(穏健共和派)でした。
ラファイエット

パリに連れ戻されるルイ16世一家

これらフイヤン派やジロンド派の面々はその多くが、何れもジャコバン修道院に本拠を置く政治クラブ、ジャコバンクラブに属しており、フイヤン派がこのジャコバンクラブから抜けた後にジロンド派と激しく対立することになるロベス・ピエールらモンターニュ派〔山岳派〕(急進共和派)の面々も同じくこのジャコバンクラブに属していました。
尚、ジロンド派という名称は、この派に属する人々がジロンド県という県出身者が多かったためこの名が付けられました。フイヤン派という名称は後にその本拠を置いたフイヤン修道院に由来するものです。
ジャコバン修道院

5、ゲーテ「世界史の新しい時代がはじまる」~第一共和政の樹立
1792年になると革命に対する外国の干渉が活発になってきたため、議会は王を動かしてオーストリアに宣戦布告させました。しかし準備不足のためフランス軍はオーストリア軍に連敗し、さらに7月になるとプロイセン軍がフランスへ侵入してきました。
祖国の危機を救うため各地から続々と義勇兵が集まりました(この時、マルセイユからの義勇兵がパリへの途上で歌ったとされるのが現在のフランス国家、「ラ・マルセイエーズ」です)。その結果フランスはヴァルミーの戦いでプロイセン軍を退却させることに成功しました。ちなみに、この戦いの時プロイセン軍の中にあり、「この日、この時より世界史の新しい時代がはじまる」といったと伝えられのが文豪ゲーテです。
ヴァルミーの戦い

ゲーテ

同じ頃パリでは、国王が国民を裏切って外国と通謀していると信じたパリ市民がテュイルリー宮殿を襲撃し、王をタンプル塔に幽閉しました(8月10日事件)。議会は王権の停止を宣言し、ここにカペー朝以来1000年近く続いてきたフランスの王政はくずれ、共和政が樹立されました(第一共和政)。
テュイルリー宮殿の襲撃

6、ルイ16世の処刑とロベスピエールの「恐怖政治」
1792年9月21日、750人で構成される国民公会が招集されました。この国民公会においては、革命のこれ以上の進行を望まないジロンド派と王政廃止を主張する、マラー、ダントン、ロベスピエールらの率いるモンターニュ派(山岳派)とが鋭く対立しました。そして激論ののち王の処刑がわずか一票差で決定され、1793年1月21日執行されました。
ルイ16世の処刑

王が処刑されたことで、ジロンド派とモンターニュ派の対立はモンターニュ派が優勢になり、拠点となったジャコバンクラブも次第にモンターニュ派が支配するようになります(そのため、モンターニュ派をジャコバン派と呼ぶこともあります)。
そして、この対立は1793年6月にジロンド派の議員たちが国民公会から追放されたことで結局モンターニュ派の勝利に終わります。
ところが、この後モンターニュ派の中でも間もなくマラー・ダントン・ロベスピエールらの間で対立がおこり、特にその中でもロベスピエールがライバルを打ち倒し、実権を握りました。
彼は「恐怖政治」と呼ばれる独裁政治を行い、自分の敵や反革命分子を次々と断頭台(ギロチン)に送りました。王妃マリー・アントワネットやダントンらもこの断頭台の露と消えました。ダントンが断頭台に送られる道すがら、物陰からこっそり見ていたロベスピエールを見つけ、ダントンがニヤリと不敵な笑みを浮かべたという有名な話もあります(尚、マラーはジロンド派の少女、シャルロット・コルディによって風呂場で暗殺されます)。
ロベスピエール

ダントン

マラーの死

処刑前のマリー・アントワネットのスケッチ

7、「そして誰もいなくなった」~テルミドールの反動
しかし、このようなロベスピエールの独裁も長続きしませんでした。1794年7月27日、反対派のクーデターがおこり、ロベスピエールは前日にピストルで撃ち抜かれたアゴを布で覆った状態のまま、彼の右腕であったサン・ジュストと共に処刑されたのです(テルミドールの反動)。
アゴを撃ち抜かれるロベスピエール

フランス革命を彩った有名人物は、このロベスピエールの処刑によってほとんど誰もいなくなってしまいました(唯一生き延びた立憲君主主義者のラファイエットは何と約40年後の七月革命に姿を現し、「革命のモグラ」と言われます)。
まさに、「そして誰もいなくなった」(アガサ・クリスティの推理小説の題名)状態の中で政権を担当したのは「テルミドール派」と呼ばれる温和共和派でした。
彼らは1795年5人の総裁からなる「総裁政府」を作りましたが、力が弱かったため、右からは王党派、左からはモンターニュ派やバブーフらの共産主義者に攻撃され、政局はまったく安定しませんでした。革命の成果を享受した人々は強大な権力による政治の安定を強く望みました。このような中で歴史の表舞台に突如彗星のごとく現れたのがナポレオン・ボナパルトだったのです。
8、ナポレオン・ボナパルト登場
ナポレオン・ボナパルトは1769年、イタリア系貧乏貴族の三男として、当時フランスが支配するようになっていたコルシカ島に生まれました。
10歳の時、国王給費生としてブリエンヌ兵学校に入学し、さらに15歳でパリ士官学校に入学、翌年卒業しました。士官学校卒業時の成績は58人中42番と、必ずしも良くありませんでしたが、歴史と数学が得意だったといわれます。
コルシカ島

ブリエンヌ兵学校時代のナポレオン

1789年のフランス革命勃発時、ナポレオンは砲兵少尉として、革命を熱狂してむかえます。1793年にはモンターニュ派(ジャコバン派)支持を明確にしたことによって連隊長に取り立てられ、さらにツーロン港をイギリスから奪還した功績で少将にまで進みます。翌94年には、イタリア遠征軍砲兵司令官の地位までのぼりつめましたが、テルミドールの反動で逮捕されました。しかし、総裁政府から軍人としての才能に目をつけられ、わずか15日間で釈放、翌95年には王党派の反乱を鎮圧したことで一躍名をあげます。
9、皇帝ナポレオンの誕生~ベートーヴェン、「英雄」への献辞を破りさく
1796年にナポレオンはイタリア遠征軍司令官としてイタリアへ遠征、当時イタリアを支配していたオーストリアに連戦連勝したため、恐れおののいたオーストリアはフランスと不利な講和条約を結ばざるを得ませんでした。フランスはこの遠征でベルギーやロンバルディア地方などを得ました。
1797年末、パリに凱旋したナポレオンを人々は熱狂してむかえ、翌年4月には総裁政府からエジプト遠征を命じられました。5月に350隻の船でツーロン港を出発したナポレオンは、7月1日にアレクサンドリアを占領し、23日にはカイロに入りました。この途中にナイル河川敷で、ロゼッタ・ストーンが発見されました。
ロゼッタ・ストーン

カイロを陥れる前のピラミッドの戦いで、ナポレオンは、「兵士たちよ、このピラミッドの上から4000年の歴史が君たちを見おろしている」との有名な言葉を残しています。
ピラミッドの戦い

しかし、ナポレオンがカイロにいる間に、ネルソン提督率いるイギリス艦隊が、アブキール湾のフランス艦隊をおそい、全滅させてしまいました。完全に孤立化し、帰国できなければ援助もこないという状況に陥ったナポレオンは、翌1799年、イギリスが、トルコ・オーストリア・ロシアと第2回対仏大同盟を結ぶと、8月23日、やっと4隻の船を調達してアレクサンドリアを出発、10月13日、パリに帰りました。帰ったナポレオンを待っていたのは「ボナパルト万歳」という人々の歓喜の声でした。
アブキール湾

11月9日、ナポレオンは総裁政府を倒し、統領政府を樹立しました(ブリュメール18日のクーデタ)。ナポレオンは、自ら第1統領となり、事実上の独裁権をにぎり、フランスは再び、強大な権力に支配されることになったのです。
この後、ナポレオンは、1800年には、北部イタリアでオーストリアを破り(マレンゴの戦い)、1802年には戦いに疲れたイギリスとの間で、アミアン条約を結び、さらに1803年には終身統領となりました。1804年に制定した民法典(通称「ナポレオン法典」)はその後の世界各国の民法典の模範となりました。
ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』

1804年12月2日、ナポレオンはノートル=ダム寺院で皇帝の位につき、200万のパリ市民の「皇帝万歳」の歓声の中、11日間にわたって祝典がくりひろげられました。
その頃、遠く離れたウィーンでは、ベートーベンが、交響曲第三番「英雄」のナポレオンへの献辞の部分を破りさいていました。結局、ナポレオンも権力に取りつかれたただの俗物にすぎなかったのかと失望したのです。
皇帝ナポレオン

ベートーベン

10、周辺諸国との戦いと神聖ローマ帝国の終焉
1805年8月、すでにアミアン条約を破棄していたイギリスとオーストリア・ロシアが第3回対仏大同盟結成し、9月から戦闘が始まりました。ナポレオンは陸上ではオーストリア軍をウルムの戦いで破りましたが、海上ではフランス・スペインの連合艦隊がネルソン提督率いるイギリス艦隊にトラファルガー海戦で敗れ、イギリス本土上陸作戦は失敗に終わりました。
トラファルガー海戦

しかし、12月にはオーストリア・ロシアをアウステルリッツの三帝会戦で破り、さらに、1806年10月にはプロイセンとオーストリアの連合軍をうち破った。1807年7月にはティルジット条約が結ばれ、今やナポレオンに屈しないのはイギリスのみとなりました。
この間、1806年7月にはバイエルン以下16の領邦をあわせてライン同盟を結成させ、同年11月には「大陸封鎖令」を出し、イギリスの通商に打撃を与えようとしました。しかし、すでに産業革命を終え、圧倒的な工業力を持つイギリスに大陸封鎖令の効果はなく、かえって困ったのはフランス側でした。尚、このライン同盟の結成は「神聖ローマ帝国」の解体を意味します。
ナポレオンの支配は被占領国民の間に民族意識を生み出しました。併合されようとしたスペインでは反フランスを叫んでの反乱がおこりましたし、プロイセンではナポレオン支配からの解放をめざし、シュタイン・ハルデンベルクの改革が行われました。
11、ナポレオン、ロシア遠征に失敗する~トルストイの『戦争と平和』
このようなナポレオンにもやがて没落の時が来ます。そのきっかけは、1812年のロシア遠征に失敗したことでした(このナポレオンのロシア遠征を舞台にしたトルストイの有名な小説が『戦争と平和』です)。
退却するナポレオン

映画『戦争と平和』でのナターシャ役のオードリー・ヘプバーンと
アンドレイ公爵役のメル・ファーラー

ロシアが、大陸封鎖令に反し、イギリスとの通商を止めなかったのがその理由でした。このロシア遠征で大惨敗を喫したことがナポレオンの躓きの始まりでした。ついで翌13年のライプチヒの戦い(諸国民の戦い)にも敗れたナポレオンはエルバ島に流され、フランスではブルボン王朝が復活したのです。
エルバ島

12、「馬上の世界精神」ナポレオンの百日天下
しかし、フランス革命やナポレオン戦争の後始末を企図したウィーン会議が順調に進まないのをみてとったナポレオンは密かにエルバ島を脱出、パリに帰り、再び帝位につきます。
しかし、もはや彼の時代は終わっていました。1815年6月のワーテルローの戦いで、ウェリントン将軍率いるイギリス・ベルギー・オランダ連合軍、ブリュッヘル将軍率いるプロイセン軍に敗れたナポレオンは退位し、大西洋に浮かぶ絶海の孤島、セントヘレナ島へ流されます。これがいわゆるナポレオンの「百日天下」です。
そして、6年後の1821年、ヘーゲルが『精神現象学』の中で「馬上の世界精神」と呼んだ稀代の英雄ナポレオンは、波乱に満ちたその生涯をこの地で終えることになるのです(遺体は1840年にパリの廃兵院に改葬)。
ワーテルローの戦い

ワーテルロー駅

セントヘレナ島(赤丸で囲んだ部分)

13、『会議は踊る』と『風立ちぬ』~ウィーン会議
さて、フランス革命やナポレオン戦争で乱されたヨーロッパの秩序を再建するという名目で、ヨーロッパ各国の君主や有力政治家がオーストリアの首都ウィーンに集まって、1814年から15年にかけて開かれたのがウィーン会議です。
ウィーン会議を主導したのはオーストリア外相で後に宰相になったメッテルニヒでした。この会議の基調となった精神はフランス代表タレーランの唱える「正統主義」で、それはフランス革命によってもりあがった自由主義の精神をおさえて、革命前の絶対主義の精神に立ち返ろうとするものでした。しかし、会議は個別的な事項について、各国間の利害が対立し、「会議は踊る。されど会議は進まず」という状況に陥りました。
ウィーン会議

ウィーン会議の風刺画

私などは、「会議は踊る」という言葉を聞くと、リリアン・ハーベイ主演で1931年に公開されたドイツ映画『会議は踊る』を思い出します。 ウィーン会議を舞台にロシア皇帝アレクサンドル一世と手袋屋の娘クリステルのうたかたの恋を描いたこの映画の挿入歌、「唯一度だけ」は、私の大学の先生が、懇親会の時などに、「Das gibt's nur einmal~」とよく歌っておられました。
『会議は踊る』の一シーン

宮崎駿さんのアニメーション映画『風立ちぬ』の中で、皆でドイツ語の歌を唄うシーンがありますが、それがこの「唯一度だけ」です。尚、ナチスはこの映画を頽廃的なものとして上映を許しませんでした。いやこれはよけいな寄り道でした。
『風立ちぬ』のポスターともなった』モネの絵画『散歩、日傘をさす女性』

このように、踊ってばかりいた「ウィーン会議」でしたが、そんな中、ナポレオンがエルバ島を脱出したという報がもたらされました。驚愕した各国君主は一斉に妥協をはかり、6月にウィーン議定書に調印しました。その結果、フランスはわずかな犠牲をはらったにとどまり、フランス・スペインではブルボン朝が復活、オーストリア・プロイセン・ロシア・イギリスは領土を拡張、ドイツでは、35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦が作られました。また、スイスは永世中立国となりました。
そして、こうした大国による勢力均衡を維持するため、1815年にはロシアのアレクサンドル1世の提唱で神聖同盟が結成、さらに四国同盟も結成されました(四国同盟は後にフランスが加わり、五国同盟となりました)。
これら、大国間の勢力均衡によって、革命や戦争を回避し、絶対主義を維持しようとする保守反動的な体制をウィーン体制あるいはメッテルニヒ体制といいいます。
このようないわば「保守反動的」なウィーン体制は、各国人民の間に自由主義的反抗運動を生み出しました。ドイツの憲法制定と国家統一を求める学生運動であるブルシェンシャフト運動、イタリアの秘密結社カルボナリ党の反乱、ロシアのデカブリスト(12月党)の乱、などがその好例です。
また、ヨーロッパが動揺している間に、ラテンアメリカでは独立運動が活発になり、アルゼンチン・チリ・ペルー・メキシコなどがスペインから、ブラジルがポルトガルからそれぞれ独立し、1823年にはアメリカ合衆国大統領モンローが、南北アメリカとヨーロッパ諸国の間の相互不干渉を謳ったモンロー宣言を出しました。さらに、ギリシアもオスマン=トルコから独立しました。
ジェームズ・モンロー

14、七月革命と『レ・ミゼラブル』
フランスではナポレオン没落後王政が復古して、ルイ16世の弟、ルイ18世が王位についていましたが、自由主義運動を抑圧したため、フランス国民の人気はまったくありませんでした。
一八二五年、ルイ18世の死去後、その弟シャルル10世があとをつぎましたが、この人物も先代以上におくれた思想の持ち主で、貴族や聖職者を重んじ、様々な反動的政策をとったため、市民階級の不満はしだいに強まり、パリではしばしば反政府デモが起こるようになりました。王は国民の目をそらすためにアルジェリア遠征などを行いましたが効果はなく、一八三〇年七月に行われた選挙にも敗れました。
シャルルはこのような状況を力でのりきる方針をとり、七月二十五日に四つの勅令を出して人々を弾圧しようとしました。その結果、七月二十七日、パリ市民は一斉に峰起し、三日間の市街戦ののち市民が勝利をおさめました。王は八月二日退位を宣言し、イギリスへ亡命しました。そして、八月九日、王族の中では最も自由主義的といわれるオルレアン公ルイ・フィリップが王位についたのです。これが七月革命です。
七月革命を描いたドラクロワの『民衆を導く自由の女神』

ルイ・フィリップ

尚、このあたりの事情は、ビクトル・ユゴーの名作、『レ・ミゼラブル』で見事に描写されています。パン一斤を盗んだ罪で19年もの間服役していたジャン・ヴァルジャンを主人公とするこの”愛と感動の名作”は、歴史・思想・小説が見事に融合した作品であり、どんな歴史書を読むより面白い。少々長いですが、どうか読んでみて下さい。子供の頃、少年少女版を読んだ方や、劇団四季のミュージカル、『レ・ミゼラブル』を見た方も多いかもしれませんが、原作を読むとまた新たな感動が湧いてきます。
『レ・ミゼラブル』に登場する少女コゼット

15、七月王政と社会主義思想の発展
七月革命の結果成立した新しい王政は、上層ブルジョワジ-主体の政権であり、その主導のもとに産業革命が本格的に始まりました。フランドルやアルザスそしてノルマンディ地方の綿工業で次々と機械が導入されました。また一八三三年に初めてフランスを走った蒸気機関車が各地に路線をのばし、一八四〇年代のフランスはまさに空前の鉄道ブームとなりました。
しかし、一八二〇年代から四〇年代にかけては、同時にヨーロッパで社会主義思想が発展をみせた時代でもあります。フランスでもイギリスのロバート・オーウェンと並んで有名なサン・シモン、フーリエらのいわゆる空想的社会主義者たちが活躍し、やがてはドイツにマルクスやエンゲルスが登場してきます。そして彼らの影響のもと、労働運動が高揚し、労働者階級の力が大いに高まっていったのです。
フリードリッヒ・エンゲルス

16、二月革命と第二共和政
ルイ・フィリップはこのような状況にきわめて危機感をいだき始めていましたが、その危機感はブルボン家の復位を願う王党派の勢力の増大により、さらに増幅されました。彼はしだいに王位を奪われるのではないかという不安にさいなまれるようになり、しだいに偏狭な保守主義者へと転身していきました。
そしてこのことは民衆の心を彼から離反せしめる原因となり、ギゾー内閣の露骨な反動政治がその傾向を助長しました。その結果一八四八年二月二十二日パリ市民は再びたちあがり、ルイ・フィリップを退位に追い込み、彼をイギリスへ亡命させたのです(二月革命)。かくして王政は再び廃止され、ここにフランス第二共和政が始まりました。
亡命するルイ・フィリップ

17、スペイン舞踊の踊り子とドイツ三月革命
この二月革命の衝撃はすぐさまドイツに伝わりました。その結果おこったのがドイツ三月革命です。
三月革命の序幕は1848年2月18日、ミュンヘンにおいて切っておとされます。それは、時のバイエルン王ルートヴィヒ1世がスペイン舞踊の踊り子、ローラ・モンテスに夢中になり、彼女を政治に参加させようとしたことがきっかけでした。
この事態に激怒した学生たちが路上でローラに侮辱を加えたことから王は憤激し、大学の閉鎖を命じました。しかし、興奮した市民たちがこの決定に怒って暴動をおこしたため、ミュンヘンの治安は急速に悪化していきました。このため、王はついに市民の力に屈して、ローラを国外に追放しました。
ローラ・モンテス

このようにバイエルン邦、ひいてはドイツ全土に緊張した空気がはりつめている中で、フランス二月革命勃発の報がドイツにもたらされたのです。そして、これをきっかけとしてドイツ各地で暴動が続発し、ドイツ全土はまさに物情騒然たる状態におかれます。
まずウィーンでは3月3日、民衆の暴動がおこり、その結果、長らく保守反動のかなめとして全ドイツに君臨してきたメッテルニヒはかろうじてイギリスに逃れ、その後にはブルジョワジー中心の政権が樹立されました。ここに、1815年以来30余年にわたって続いてきたウィーン体制は終わりをむかえたのです。
メッテルニヒ

ついで、ベルリンにおいては、3月18日、軍隊が宮殿をとりまく群衆に発砲したことによって市街戦が発生しました。そして、ここでも市民が勝利をおさめ、貴族主義的内閣にかわって自由主義的内閣が結成されました。かくして、プロイセンにおいても政権はブルジョワジーの手にゆだねられることになったのです。
18、フランクフルト国民議会~ドイツ統一未だ成らず
5月18日、フランクフルト=アム=マインの聖パウロ教会堂において、ドイツ統一議会としてのフランクフルト国民議会が開催されました。この議会はドイツの自由主義者を一同に集めて行われ、人々の基本的権利を重視する憲法草案を起草し、移住・出版・教育・信仰等の自由を求めることにより、ドイツブルジョワジーの基本的な権利を承認しようとしました。
聖パウロ教会堂

そして、統一国家の形態としては、ドイツ諸侯の中から一人選ばれる世襲的皇帝を頂点に頂き、各領邦の上に優越せしめる立憲君主国家の成立をめざしました。
しかし、この議会は必ずしも順調に進行したわけではありませんでした。その理由は、ドイツ統一問題に関して、プロイセン中心を主張する小ドイツ派と、オーストリア中心を主張する大ドイツ派がことごとく対立し、議会が紛糾を重ねたためであり、ドイツを君主国とするか共和国とするかの対立がこれに拍車をかけました。
そして、結局の所、この議会は労働者勢力の伸張を恐れ、プロイセンの土地貴族「ユンカー」を主な基盤とする保守勢力と妥協することで、その生命を自らたってしまうのです。
かくして、「ブルジョワジーの華やかなジェスチャーに始まり、ユンカーの貴族的反動に終わった」(松田智雄『近代の史的構造論』)この革命は、ドイツの統一とドイツの自由主義化・民主化という大きな課題を後世に残すことになったのです。
そして、前者の課題は、1871年のユンカーの親玉でもある、「鉄血宰相」ビスマルクの手によるドイツ帝国の成立によってまがりなりにも実現しますが、後者の実現は1919年のいわゆるワイマール共和国の成立まで待たねばならないのです。
オットー・フォン・ビスマルク

