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世界史物語18 イギリス海峡をまたいだヨーロッパ政治史~マグナ・カルタまで

 ここらで、1215年のマグナ・カルタ(大憲章)までの、イギリス海峡をまたいだ、王統をめぐるヨーロッパ政治史を概観しておきましょう。
 今はイギリスとフランスは別個の国であり、言葉も英語とフランス語という別の言葉です。しかし、実は中世においてはイギリスとフランスは同じ”一つの家”であい争う二つの国だったのです(変な表現ですが)。
 しかも、その”国”という概念そのものが、今の「国民国家」とはまったく異なるし、さらには、その”家”には外からいろんな人たちが侵入してくるのでまたややっこしい。
 しかし、よく考えてみれば、日本だって、「空白の世紀」と呼ばれる四世紀には、中国の南北朝時代の混乱の中で、このイギリスやフランスとよく似たようなことが起こっていたのではないでしょうか。ただ資料が残っていないというだけで・・・・・(話が飛躍しすぎですか😓)。

 そのイギリスですが、もともと、イギリスという言葉は オランダ語のEngelsch(エンゲルス)またはポルトガル語のInglês(イングレス)が訛ってできた「エゲレス」からきたものです。従って、日本でのみ通用する国名で、「イギリス」の現在の正式名称は、「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」といいます。しかし、ここでは呼び慣れた「イギリス」という言葉を使うことにしましょう。

               大ブリテン島

 イギリスの歴史は、大陸に住んでいたケルト人が鉄製の武器を持って大ブリテン島へやってきたBC五C頃にまでさかのぼることができます。大ブリテン島というのは、怪獣が歩く姿(?)にも見える、あの大きな島のことで、南部・中部がイングランド、北部がスコットランド、西部がウェールズという三つの地域に大きく分かれます。

 その後BC五五年にはガリアを平定したカエサルが侵入、一世紀半ばにはイングランドとウェールズがローマの支配下に入りました。四世紀後半にゲルマン民族が大移動を開始すると、ローマ軍はブリタニアから撤退しましたが、やがて、四四九年、ゲルマン民族のアングル人・サクソン人がドイツ北西部からイングランド(「アングル人の土地」の意)に侵入してきます。アングル人・サクソン人、まとめてアングロ=サクソン人はイングランドに七つの王国をたて、九世紀前半まで覇を競いますが、八二九年、七王国の一つであったウェセックスの王エグバードがイングランドの統一をはたします。

 しかしやがて九世紀後半、ユトランド半島にいたノルマン人の一派、デーン人がイングランド東海岸に侵入してきます。この侵入は、九世紀末にアルフレッド大王によって一時的にくい止められましたが、侵入は続き、一〇一六年にはついにデーン人の王、クヌートによって征服されてしまいます。

 その後、アングロ=サクソン人の王朝が一時復活しますが、一〇六六年には、北フランスのノルマンディ公国(九一一年にノルマン人のロロがたてる)から侵入してきたノルマンディー公ギョーム一世がヘイスティングスの戦い(有名な「バイヨー・タペストリー」はこの戦いの模様を描いたものです)でイングランド王ハロルド二世を打ち破り、ウィリアム征服王=ウィリアム一世として、ノルマン王朝を開きます。これを「ノルマンの征服」といい、これでイギリスにおけるアングロ=サクソン人の王統はとだえることになります。

             ノルマンディ公国

 ヘイスティングスの戦いで兜を脱ぐウィリアム征服王(バイヨー・タペストリー)

 イングランド王となったウィリアムですが、ギョームとしてはフランスの王室であるカペー朝の諸侯の一人でした。ただし、当時のフランス王室は、パリからオルレアンそしてブールジュにいたるまでのかなりせまい範囲しか実効支配しておらず、ノルマンディー公を始め、ブルターニュ公・アキテーヌ公・アンジュー伯・ブロワ伯らの有力諸侯から突出した存在ではありませんでした。

 ウィリアムには四人の男の子がおり、長男ロベールにノルマンディーを、三男ギョームにイングランドを与えましたが、一一〇〇年にギョーム=ウィリアム二世が事故で亡くなったため、四男のアンリがイングランド王国を継ぐことになりました。これがヘンリー一世です。ヘンリーはこのあと、長兄ロベールを倒して、父親同様、ノルマンディー公兼イングランド王となります。アンリにはギョームという男の子がいましたが、一一二〇年に事故でが早世してしまっため、ブロワ伯家のエティエンヌ・ドゥ・ブロワが自分の母親アデルがウィリアム一世の末娘であるという理由で、勝手にノルマンディー公兼イングランド王を名乗り、スティーヴンと名のります。

ヘンリー一世


 これに対して、お隣のアンジュー伯家へ嫁いでいたヘンリー一世の娘マチルダが生んだアンジュー伯、アンリ・ドゥ・プランタジュネが、自分こそが祖父ヘンリー一世の直系であると異義を唱え、戦いの末、結局このアンリがノルマンディーとイングランドを手に入れることになります。アンリはイングランド王としてはヘンリー二世と名乗り、ここにプランタジネット朝が創始されることになります。

               ヘンリー二世


 アンリはイングランド王に即位する二年前の一一五二年、フランス王ルイ七世と離婚していた、アキテーヌ公家出身のアリノエール・ダキテーヌと結婚します。ダキテーヌの父親のギョーム九世には男の子がなく、アリノエールを相続人にしていたので、これによってヘンリー二世は、フランス西部のノルマンディー公領・アンジュー伯領・アキテーヌ領、そしてイングランドにいたる広大な地域を支配下におくことになったのです。歴史家はこれを「アンジュー帝国」と呼んでいます。

          1189年頃のアンジュー帝国

 アリノエール・ダキテーヌは中世ヨーロッパを代表する女性の一人として有名です。まず何よりもフランス王ルイ七世との間に二人の娘がありながら、一二歳も年下のアンリと恋に落ち、結婚、四人の男の子をもうけたことに驚かされます。
 さらに彼女は、トルヴァドールと呼ばれる吟遊詩人を保護したりして、中世の騎士文化の保護者となりました。後年には息子たちと結んで、溝のできたヘンリー二世に反旗をひるがえし、怒ったヘンリー二世に一五年間も幽閉されたりしますが、八二歳でこの世を去るまで、様々な政治的動きを止めませんでした。

 アリノエール・ダキテーヌ(フレデリック・サンディス画 1858年)

アリノエール・ダキテーヌはマリア・テレジアやヴィクトリア女王などと並んで、
”ヨーロッパの祖母”などと呼ばれることがある

 さて、ヘンリー二世にはダキテーヌとの間に四人の男の子がありましたが、一一六九年の遺言で、長男のアンリには、イングランド・ノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを、次男リシャールにはアキテーヌを与え、三男ジョフロワにはブルターニュ公家への婿入りを手はずしました。後のイングランド王ジョンとなる四男のジャンには幼少のためこの時は何も与えませんでした(このことから彼は「欠地王子」と呼ばれます)。

 しかし、成長したジャンは、一一七三年に父親に対して自分にも領地が欲しいと無心をします。仕方なくヘンリーはジャンに長男のアンリの領土からシノン・ルーダン・ミルボーの三つの城を分け与えようとします。しかし、アンリはこれを拒否し、妻マルグリットの父であるフランス王ルイ七世と結んで、ヘンリーに反旗をひるがえします。

 アンリ側にはダキテーヌの意向で、リシャールとジョフロワが加わり、ここに父対長・次・三男連合の争いが勃発したのです。ルイ七世は奥方をヘンリーにとられたうらみがありますから、これは願ってもないことですし、先ほども申しましたように、この頃にはヘンリーとダキテーヌの関係はうまくいっていませんでした。

 しかし、この戦争は、結局ヘンリー二世の勝利に終わり、ひとまず父親は息子たちを屈服させます。乱れた秩序を正すべく、ヘンリーは長男アンリへの臣下の礼を取るようリシャールとジョフロワに働きかけますが、アキテーヌ公リシャールが拒否、怒ったアンリがジョフロワと共にアキテーヌへ攻め込みます。しかしここでアンリは急死してしまいます。

 ヘンリー二世はリシャールを後継者候補に格上げし、アキテーヌはジャンに譲るよう求めます。しかしリシャールはこれを拒否、怒ったヘンリー二世との間でまたまた戦いがおきます。この戦いは結局、一一八九年七月四日、リシャールの勝利に終わり、しばらくしてヘンリー二世はなくなります。

 兄と父の死によってリシャールが広大なアンジュー帝国を受けつぐことになります。これが、第三回十字軍遠征でも有名なイングランド王リチャード一世です。リチャードは、「獅子心王」とも呼ばれた勇猛果敢な王でしたが、フランス王フィリップ二世の策謀により、アキテーヌでおこっていた反乱を平定する途中に流れ矢にあたって落命してしまいます。

              リチャード一世


 リチャード一世亡き後、アンジュー帝国をついだのが四男のジャンで、この人物こそが悪名高き「ジョン王」です。ジョン王はリチャードが十字軍遠征に行っている間に反乱をおこしたり、ローマ教皇インノケンンティウス三世と喧嘩をして破門されたり、フランス貴族の許嫁を奪ったことでフランス王フィリップ二世と争い、大陸の領土をほとんど失う(このことから彼は「失地王」と呼ばれます)など、何かと不名誉な話が多く、いまだに「二世」があらわれていません。そのジョンを有名にしているのが、「マグナ=カルタ」でしょう。

                ジョン王

 「マグナ=カルタ」は日本語では「大憲章」と訳されていますが、これはジョン王が戦費を得るために、過重な税取り立てを行い、それに怒った貴族たちが聖職者や都市の市民たちと結んで封建的諸権利を王に認めさせたものです。内容的には次の二つの点が特に重要です。一つはどんな自由人も彼と同等な人物の法的判断によらなければ、逮捕されないというものです。もう一つは、勝手に新しい税を取り立てることはできないというものです。後者は王が資金を得るためには臣下の同意を得なければならないことを意味したため、議会の成立に道を開くことになりました。

フランスにおけるプランタジネット朝〔アンジュー帝国〕(赤)とカペー           朝(青)の支配領域の変遷

黄色は教会領、緑はその他の諸侯の支配領域。ジョンが「失地王」と呼ばれる理由がよくわかるし、フランスカペー朝の支配領域の少なさもまたよくわかる。

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