みすゞについて
かつて長州であった山口県は、藩閥の中枢であった分、東京都以外ではもっとも多い総理大臣(8人)を排出しただけでなく、そのうち6人が通算総理在任期間ではトップ11に入っているほど、いうまでもなく、近代日本に多大な影響を与えた地域である。しかしながら、私は幕末維新期の研究者でありながら、山口出身(で最も重要な)人物をいうと、金子みすゞを思い出す。「わたしと小鳥と鈴と」の最後の一句、「みんなちがってみんないい」でよく知られた彼女は、1903年、当時朝鮮半島から最も近い港の一つ、仙崎村(現・長門市)で生まれる。
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雀
ときどき私はおもふのよ。
雀(すずめ)に御馳走(ごちそう)してやって、
みんな馴(な)らして名をつけて、
肩やお掌(てゝ)にとまらせて、
よそへあそびに行くことを。
けれどもぢきに忘れるの。
だつて、遊びはたくさんで、
雀のことなんか忘れるの。
思ひ出すのは夜だもの、
雀のゐない夜だもの。
いつも私のおもふこと、
もしか雀が知つてたら、
待(ま)ちぼけばつかししてるでしよ。
わたし、ほんとにわるい子よ。
童謡詩人として名高いみすゞは、1923年頃から作家としての活動をはじめる。1926年には、父の本屋「金子文英堂」の番頭格で、オンナ癖が悪かった人と結婚することとなる。娘を一人もうけるが、結婚生活は不幸だった。夫はかねてから二人の結婚を反対していたみすゞの実の弟(養子に行っていとこ)との不仲で、義父に冷遇される。女性遍歴が複雑で、結局文英堂を追われ、みすゞはそんな夫について下関へいう。自暴自棄となったのか、夫は放蕩壁を極めた結果、1927年、みすゞは淋病までうつり、翌年には夫に文通さえも禁止される。インターネットもパソコンもスマートフォンもなかったあの時代、それは事実上の作家活動禁止と同義ではなかっただろうか。また病も悪化し、病床に伏す。その後の展開を考えれば幸いとは絶対いえないものの、1930年にはなんとか夫と別居し、娘をつれて実家へもどる。離婚も成立する(「寅に翼」がよく示すように、当時の法制度上、それもままならなかっただろう)。
みすゞはせめて、娘ふさえだけは自分が育てたいというが、元夫も一度は受け入れては、また翻って強行に親権を奪い取ろうとする。疲れたのか、みすゞは同年3月9日(誕生日が4月なのでまだ26歳)、近所の写真館で写真を撮って(この写真が今日まで残る)、夜、娘を風呂に入れたあと寝かしつけ、服毒自殺をする。翌日、例の弟が自分宛てに送られてきたみすゞの手帳3冊を携えてきて、発見される。遺書は全部3通。元夫に対しては「あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら,それは仕方ありません。でも,あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから,母ミチにあずけてほしいのです」などと、弟には「今度だけは自分の意志を通します。さらば我等の選手 勇ましく行け」、叔父と母親には「さんざんお世話をお掛けして、先立つ不孝をお許しください。くれぐれもふうちゃんの事を宜敷頼みます。今夜の月のやうに、私の心も静かです」と書き残す(娘ふさえは、2022年逝去)。
彼女の存在と作品は、しばらく忘れられることとなってしまう。ところで、作家矢崎節夫が1966年、偶然彼女の作品に接して感動し、以降16年にわたり彼女の足跡を追う。その過程でみすゞの弟に出会い、遺稿となってノート3冊と自死の日にとった写真などを預かる。1984年には、初の全集が刊行される(上の引用もこの全集に拠る)。東大の入試問題で扱われたり、作品が歌に、生涯が映像になるなど注目を浴び、「みんなちがって、みんないい」も現代におけるダイバーシティを象徴する文言として一般にも広く知られることとなる。
彼女の作品を少しずつ読み進めているが、正直童謡だし、とても素晴らしい表現技巧をもつ大作なわけではない。しかし、大の大人が書いたとは信じ得ない、透き通った純真無垢さがそこにはある。人生の苦痛に苦しみながらも、こうも透明な詩を書き抜いたことには、感服しきれないものがある。与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月としつきの後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候(・・・)彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。」と書くが、みすゞこそがそれを最も忠実に体現した作家の一人ではなかろうか(もちろん与謝野晶子は1878年生まれで大阪出身・東京在住なので共通点や交流の痕跡は見いだせないのだが)。
彼女の死を考える際、私には彼女の作品を思い浮かばない術がない。このように清く純粋な子どもの魂の宿ったみすゞにとっては、娘とは、ただただ自分の生んだ血肉以上に、自分の人生をともに歩む永遠の友であり、また未来への希望ではなかったかと勝手に想像する。みすゞの夫は、みすゞから娘だけでなく、彼女の心友と、未来と希望を、すべてを奪い取ろうとしたのだ。だからみすゞは死を選んだ、と思えてならない。彼女の夫は、彼女の全部を奪い、地球から彼女を奪い、人類から我々が得るはずだった数多い宝物を奪っていった。にもかかわらず、その短い期間だけでも、みすゞはすでに我々に莫大なー512首のー宝物を残してくれた。それが人類の不幸中の幸いである。
山縣や伊藤などが近代日本に与えられたのは、せいぜい目に見える「金」くらいだっただろう。しかし、金子みすゞは、彼女の遺書どおり、近代日本のみならず、今の全人類のこころにも永遠に残る、「心の豊かさ」を残したのだ。伊藤や山縣とは違って、彼女には「わたし、ほんとにわるい子よ」と認識し言える力を帯びていた。雀と遊ぶ、いつも雀のような小さな存在も忘れないか心配する繊細さがあった。私は、日本が結局失ってしまったのは、そこにある気がしてならない。人間を人間とも思わない世の中で、雀にまで目を配れる作家の存在は、またいかほど大事なのか、私なぞにはとうていそれが測れない。
