毎日見続けたものが教えてくれること
気が付くと毎朝、先輩は同じことをしていた。
始業前のドアが開く前の、少し埃っぽい空間。
先輩は株価を調べて、方眼紙に数字を書き写す。
パソコンを開けば、数字を打ち込むだけで分かるのに、
その人は毎日、一つずつ数字を取り出し、升目を埋めていく。
そして、二日前から前日の数字へと短い線を引く。
それが、儀式みたいに見えた。
平成初期には証券会社もデジタル化が進んでいた。
パソコンの画面を開いてキーを打てば、
株価は瞬時に現れ、チャートだって見れる。
だから私は、先輩のやり方を「古い」と思っていた。
手間をかける意味が、当時は分からなかった。
ある日、なぜ書くのか聞いたことがある。
先輩は、迷いなくこう言った。
「物事を知ることに、近道はないんだよ」
その言葉を聞いたとき、私は納得できなかった。
株価は、結局「数値」だ。
きれいに表示されるチャートを見れば十分だと思っていた。
だから、儀式のことは、しばらく忘れてしまった。
それから10年。私は証券会社を離れていたが、
仕事は相変わらず金融の世界の近くにあった。
株式投資に関する本を書き、金融機関向けのコンテンツ制作もした。
数字や理論を学ぶ時間は、証券会社にいたときより長かったと思う。
本やデータから学べることは、一通り学んだつもりだった。
だけど、知れば知るほど、どこかで引っかかる感覚が消えなかった。
理解したはずなのに、「そうじゃない」と言いたくなる。
「なにかが足りない」という思いだけが、いつまでも残る。
そのころ読んだ小説の中に、方眼紙に株価を書き写す人物が登場した。
「あっ、これ知っている」
その一節を読んだ瞬間、10年前の儀式が頭に浮かんだ。
画面の中で動く数字ではなく、方眼紙の上でペンが進む手。
デジタルの便利さがあるのに、あえて手を動かす。
その無駄に見える作業が、10年前の先輩と重なった。
その後、私は自分のお金で投資を始めた。
値上がりする株もあれば、業績に大きな問題がないのに、
1カ月以上、ずるずると下がり続ける株もあった。
違和感は、一日だけ眺めていても見えてこない。
見続けていると、ある朝が来る。
“今日は何かが違う”と感じる朝が。
そのとき頭に浮かんだのは、あの儀式だった。
ニュースでは説明できない値動きに出会うたびに、
ようやく先輩が毎日数字を書いていた理由を、
私は言葉ではなく体で理解しはじめた。
あの頃の私は、
先輩が方眼紙に書いていたのは株価だと思っていた。
今ならそう思わない。
先輩が毎朝積み上げていたのは、
数字ではなく時間だった。
そして今も、朝になると私は静かに画面を開く。
画面の向こうに、あの方眼紙へ一本ずつ線を引いていた先輩の手を見るような気がする。
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