進化生物学的にみた、ハンタウイルスの起源
はじめに
ハンタウイルスという名前を、急に目にする機会が増えた。
2026年5月には、WHOがクルーズ船に関連したハンタウイルス感染クラスターを報告した。8例、うち3例死亡。検査で確認された症例はいずれもアンデスウイルスだった。WHOは、この事案について船内の乗客・乗員へのリスクを中等度、世界全体へのリスクを低いと評価している。https://www.who.int/emergencies/disease-outbreak-news/item/2026-DON600
ただし、ここで大事なのは「また新しい謎のウイルスが出た」と騒ぐことではない。
ハンタウイルスは、昨日今日に突然現れたウイルスではない。昔から人間のそばにいた。正確には、人間のそばにいたネズミの中にいた。
ウイルスを専門とする生命科学者としていてもたってもいられず思いつく限りの文献と共に記事を走り書きした。若干の読み難さについてはご容赦くださいませ。
ハンタウイルスとは何か
ハンタウイルスは、主にげっ歯類、つまりネズミの仲間が保有するウイルス群である。CDCは、ハンタウイルスを「世界中に存在し、人に重い病気や死亡を起こし得るウイルスの一群」と説明している。代表的な病型は、肺を中心に障害するハンタウイルス肺症候群、HPSと、腎臓や血管を中心に障害する腎症候性出血熱、HFRSである。https://www.cdc.gov/hantavirus/hcp/clinical-overview/index.html
ざっくり分けると、南北アメリカ大陸ではHPS、ユーラシア大陸ではHFRSが問題になりやすい。厚生労働省も、腎症候性出血熱はオルソハンタウイルス属のウイルスを病原体とし、ユーラシア大陸に分布すると説明している。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hantavirushfrs.html
ハンタウイルスは、ひとつのウイルス名というより、複数の近縁ウイルスの総称に近い。ハンターンウイルス、ソウルウイルス、プーマラウイルス、ドブラバウイルス、シンノンブレウイルス、アンデスウイルスなど、地域や宿主となる動物に応じて複数の種類が知られている。
語源:名前は「ハンタン川」から来た
ハンタウイルス研究の歴史で重要なのは、朝鮮戦争前後に注目された「韓国型出血熱」である。
1978年、Leeらは韓国型出血熱の原因病原体を分離した。この病原体は、韓国の非武装地帯付近を流れるハンタン川にちなんで「Hantaan virus」と名づけられた。米国国立医学図書館の資料でも、Ho Wang Leeらが韓国出血熱の原因ウイルスを分離し、ハンタン川にちなんで命名したことが説明されている。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24670/?utm_source=chatgpt.com
つまり、「ハンタウイルス」という名前の出発点は韓国のハンタン川にある。
ただし、ウイルスそのものの進化的起源については、単純に「この時代、この場所で生まれた」と言えるものではない。ハンタウイルスは、長く特定の哺乳類宿主と結びついてきたと考えられてきた一方で、近年の研究では、宿主との共進化だけでは説明しきれず、宿主転換や地域適応も関与していると議論されている。分類学的レビューでは、げっ歯類だけでなく、トガリネズミ、モグラ、コウモリ由来のハンタウイルスも報告されている。https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6784073/?utm_source=chatgpt.com
ここは断定しない方がよい。
「ハンタウイルスはネズミから始まった」と言い切るより、人で問題になる多くのハンタウイルスは、げっ歯類を自然宿主として維持されてきた、と書くのが正確である。
どう感染するのか
ハンタウイルスの感染源は、主に感染したげっ歯類の尿、糞、唾液である。
WHOは、感染したげっ歯類の尿・糞・唾液に汚染されたものとの接触で人へ感染し、まれに咬傷でも感染し得ると説明している。特に、換気の悪い場所の清掃、農作業、林業、ネズミが入り込んだ住居での滞在などがリスクになる。https://www.who.int/news-room/fact-sheets/detail/hantavirus
CDCは、感染したネズミの新鮮な尿、糞、巣材が舞い上がると、ウイルスを含む粒子が空気中に入り、それを吸い込むことで感染し得ると説明している。つまり、危ないのは「ネズミを見た瞬間」だけではない。納屋、物置、山小屋、長く使っていない車、換気の悪い倉庫などで、乾いた糞や巣材を掃き上げる行為が問題になる。https://www.cdc.gov/hantavirus/prevention/index.html
日本語で一言にすれば、
ネズミの排泄物を含むほこりを吸い込む感染症
と考えると分かりやすい。
人から人へうつるのか
ここが最も誤解されやすい。
多くのハンタウイルスでは、人から人への感染は一般的ではない。CDCも、ほとんどのハンタウイルスは人から人へ伝播しないと説明している。
例外として重要なのが、南米のアンデスウイルスである。WHOは、これまで人から人への感染が記録されているのは、アメリカ大陸のアンデスウイルスのみであり、それもまれで、家庭内や親密な接触など、長時間・近距離の接触に関連すると説明している。
この点は論文でも示されている。2005年のEmerging Infectious Diseases掲載論文は、アルゼンチンでのクラスター解析から、アンデスウイルスの人から人への感染が前駆期またはその直後に起きた可能性を、疫学データと遺伝学的データに基づいて報告した。https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3367635/
さらに2020年のNew England Journal of Medicine論文では、2018〜2019年にアルゼンチン・チュブ州で起きたアウトブレイクについて、34人の確定例があり、単一のげっ歯類由来導入後に、症状のある3人が多数の二次感染を引き起こしたと報告されている。https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2009040?utm_source=chatgpt.com
要するに、ハンタウイルス全体を「人から人へ広がる感染症」と見るのは不正確である。
ただし、アンデスウイルスについては、限定的な人—人感染が確認されている。
どんな症状が出るのか
ハンタウイルス感染症は、最初から特徴的な症状だけで始まるわけではない。
HPSでは、初期症状が発熱、筋肉痛、倦怠感、胃腸症状など、他の感染症に似ることがある。その後、呼吸困難や低血圧など重い状態へ進むことがある。CDCは、HPSの初期症状は他の呼吸器感染症に似ており、発症初期の診断が難しいと説明している。https://www.cdc.gov/hantavirus/hcp/clinical-overview/hps.html
WHOは、HPSの症状は通常、曝露から1〜6週間で現れ、早ければ1週間、遅ければ8週間後に出ることもあると説明している。https://www.who.int/emergencies/disease-outbreak-news/item/2026-DON600
一方、HFRSでは腎臓の障害が中心になる。厚労省は、腎症候性出血熱の潜伏期間を1〜5週間程度、通常2〜3週間とし、軽症では上気道炎症状や発熱にとどまることもあるが、重症化するとショックや腎不全を起こし、死亡することがあると説明している。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hantavirushfrs.html
致死率はどのくらいか
ここも数字だけが独り歩きしやすい。
CDCは、HPSについて「感染者のおよそ10人中4人近くで致命的」と説明している。
WHOは、ハンタウイルス感染症の致死率について、アジア・欧州では1%未満〜15%、アメリカ大陸では最大50%と説明している。ただし、これはウイルスの種類、地域、医療体制、患者背景によって変わる。2026年5月のクルーズ船関連事案では、WHOは8例中3例死亡、致死率38%と報告している。
つまり、ハンタウイルスは「かかりやすい感染症」ではない。
しかし、発症した場合は軽く見てはいけない感染症である。
日本ではどうなのか
日本で話題にするときは、国内状況を冷静に見る必要がある。
厚生労働省は、腎症候性出血熱について、日本では過去に実験動物由来での患者発生が報告されているが、感染症法施行後の1999年以降、患者発生は確認されていないと説明している。
国立健康危機管理研究機構の感染症情報提供サイトでも、腎症候性出血熱は四類感染症に定められており、特異的な治療法はなく対症療法が中心、国内で承認されたワクチンはないと説明されている。https://id-info.jihs.go.jp/infectious-diseases/hemorrhagic-fever-with-renal-syndrome/index.html
このため、日本で日常生活をしている人が過度に怖がる必要はない。
一方で、海外渡航、野外活動、倉庫・山小屋・農作業環境、げっ歯類の多い地域では、基本的な予防策を知っておく意味がある。
予防で大事なこと
ハンタウイルス対策の中心は、ウイルスそのものを消すことではなく、ネズミとの接触を減らすことにある。
CDCは、予防策として、げっ歯類の尿、糞、唾液、巣材との接触を避けること、家や周辺から野生げっ歯類を排除することを挙げている。https://www.cdc.gov/hantavirus/prevention/index.html
特に重要なのは、ネズミの糞や尿を見つけたときの掃除である。CDCは、ネズミの尿・糞・巣材を掃除機で吸ったり、乾いたまま掃いたりしないよう注意している。そうすると、ウイルスを含む小さな粒子が空気中に舞い上がる可能性があるためである。CDCは、手袋を着用し、消毒液または漂白剤希釈液で十分に湿らせてから拭き取る手順を示している。
厚労省も、流行地域ではげっ歯類との接触を避け、糞や尿で汚染された粉じんを吸わないよう環境を清潔に保ち、食品をふたなどで適切に保管するよう説明している。
まとめ:怖がるより、経路を知る
ハンタウイルスは、名前だけ聞くと得体が知れない。
しかし、感染の中心にあるのは比較的はっきりしている。
げっ歯類。尿。糞。唾液。巣材。換気の悪い空間。乾いた粉じん。清掃時の吸い込み。
多くのハンタウイルスは人から人へ広がらない。例外的に、アンデスウイルスでは限定的な人—人感染が確認されている。ここを混同すると、必要以上に怖がるか、逆に軽く見るかのどちらかになる。
正確に怖がる。
それが感染症を理解するときの、一番ましな態度だと思う。
体調不良があり、過去数週間以内にげっ歯類やその排泄物に触れた可能性がある場合は、自己判断で済ませず、医療機関や保健所などの公的窓口に相談した方がよい。CDCも、げっ歯類曝露後の病気が疑われる場合は医療者に相談し、その曝露歴を伝えるよう勧めている。
参考文献・資料
WHO, Hantavirus fact sheet. ハンタウイルスの感染経路、人—人感染の例外、曝露リスクに関する公式説明。
WHO, Hantavirus cluster linked to cruise ship travel, Multi-country, 2026年5月8日。クルーズ船関連クラスター、アンデスウイルス、リスク評価、致死率に関する報告。
CDC, Clinical Overview of Hantavirus. HPS、HFRS、げっ歯類を主な感染源とする点の説明。
CDC, Clinician Brief: Hantavirus Pulmonary Syndrome. HPSの感染経路、症状、重症度、人—人感染の例外に関する説明。
厚生労働省「腎症候性出血熱」。国内状況、症状、感染経路、治療、予防に関する公式情報。
国立健康危機管理研究機構「腎症候性出血熱」。法的取り扱い、治療、予防、ワクチンに関する情報。
Lee HW et al., 1978, Isolation of the etiologic agent of Korean Hemorrhagic Fever. ハンターンウイルス分離に関する古典的論文。
Laenen L. et al., 2019, Hantaviridae: Current Classification and Future Perspectives. ハンタウイルス分類と宿主の広がりに関するレビュー。
Martinez VP et al., 2005, Person-to-Person Transmission of Andes Virus. アルゼンチンにおけるアンデスウイルスの人—人感染に関する疫学・遺伝学的報告。
Martínez VP et al., 2020, “Super-Spreaders” and Person-to-Person Transmission of Andes Virus in Argentina, New England Journal of Medicine. 2018〜2019年アルゼンチン・チュブ州アウトブレイクの解析。
