見出し画像

もっちゅりんを手に入れて、本当に手にしたいものは何? | なんのはなしですか




開店前のショッピングセンター。


私はここの従業員。


出勤のために車で建物のそばを通ると、すでに出入口の前に、行列ができていることがある。



「今日は、なんの列だろう」



最近の行列はどちらかだ。



「もっちゅりん」 or    「一番くじ」。


今日の行列は、飲食街出入口の前だから、「もっちゅりん」に違いない。




同じ目的のために、人が列を成している。


けれど、その人たちの感情のゴールは同じ場所ではない。




これは
もっちゅりんを食べてもいない私が
ドーナツの穴から人の心を覗き見るように綴る
人間の物語である。





材料がなくなり次第、販売終了。
列島が熱狂した「もっちゅりん」。
あなたはそれを手にしたとき、同時にどんな感情を手にしたの?





純粋な食欲:味そのものを求めて


単純に、「もっちゅりん」を欲しい人がいる。

「美味しそう」
「美味しかったからまた食べたい」
「きなこ味のドーナツが食べたい」

それは至って健全な、商品そのものへの嗜好。

「もっちゅりん」という食べ物が好き、という真っすぐな気持ち。

他意はない。


攻略の達成感:手に入れるまでのプロセスを楽しむ



発売日を調べ、販売店舗を探し、何時から並べばいいのかを考える。
人が押し寄せなさそうな、穴場店舗を見つける。

とにかく情報を集め、策を練り、確実に遂行する。まるで、ゲームを攻略するようにゴールを目指す。

もうそれは、対象が「もっちゅりん」に限ったことではない。

目標が決まれば、それを手に入れるための作戦を練り動くという、知的な行動が楽しいのだ。

自分の策略が見事にヒットし、獲物を手に入れる満足感。そういう気持ちを得たくて、「もっちゅりん」の列に並ぶ。



帰属意識:話題の輪から外れないために



「もっちゅりんならもう食べたよ!」

「あ~、けっこう美味しかったよね」

こんな会話に参加する権利が得られる。

写真を撮れば、SNSという居場所にだって、食べた証拠を示せる。

逆に言えば、食べていないと、いつ話題がもっちゅりんに触れるのか、ビクビクしなければならない。

「食べたよ」と軽く嘘をつくこともできるのかもしれない。

でも、「どこでゲットした?」「何時から並んだ?」「何味食べた?」

矢継ぎ早に飛んでくる質問に、実際に体験していないことは全て、嘘を作り出さなければいけない。

そんな器用に生きられない。絶対にボロが出る。だから私は泥臭く列に並ぶ。そういう人もいるかもしれない。

人間の小さな畏れが、人を動かす力になることがある。



答え合わせ:熱狂の真相を自分の感覚で確かめたい


もっちゅりんが話題になると、それについてのあらゆる情報や口コミが入ってくる。

「新食感」
「ポンデリングみたい」
「和菓子のようだ」

動画で食べている様子をアップして、事細かに感想を述べている人もいる。

人間の脳は優秀だ。食べなくても、なんとなくは想像できてしまう。 誰かの言語化や映像によって、脳内に味や食感を作り出すことはできるのだ。

だけど、それは実体験ではない。

想像していたものと同じなのか、想像を超える感動がそこにあるのか、あるいは美化しすぎていただけなのか。 人は、自分自身の感覚で「答え合わせ」をしたい生き物なのだ。

彼らは、頭の中の空想を現実に変えて、そのズレを修正したいのかもしれない。



同調と希少性:周囲の熱狂に背中を押されて



周りの人々の雰囲気に押される人もいる。

「もっちゅりん?特に興味はないかな」

それなのに・・・

どこに行ってもみんな、「もっちゅりん」「もっちゅりん」と呪文のように囁いている。暑さのせいか、その響きが心地よい風鈴の音に聞こえ始めた。「もっちゅりん」という緊張感ゼロの単語に、耳が侵されていく。

もっちゅりんの列を見て、人気あるんだ~と思う。みんな、並んでまでも買うんだ=「価値のあるもの」という刷り込みがされる。

「数量限定」「販売日限定」

えっ?いつでも買えるわけじゃないんだ。なんか、希少性高いじゃん。この機会を逃したら、もう二度ともっちゅりんを食べられないも・・・。

そんな焦りが脳内を制圧し、もともと欲しかったのかどうかも分からないまま、今こそ手に入れなければ!という気持ちだけが育っていく。

自分の意志決定を、いつのまにか周りの雰囲気に左右されている。

マーケティング側が用意した網に気持ちよく捕まり、熱狂する消費者の波にのまれていく。



誰かのための献身:大切な人の笑顔のために


期せずして当事者になる人もいる。

「もっちゅりん買ってきて」

「8:00から並んでおいて」

家族や恋人に頼まれ、突然このイベントに参加させられる。

「もっちゅりん?何それ?」

自分が何を買いに来たのかよく分かっていない。
「いいからミスドに行って並んで来て」と言われたから来た。


「もっちゅりん?の最後尾はここで合っていますか?」

前の人に確認して並ぶ。そのまま流れに身を任せて列は進み、渡されたメモ通りの数を無事に購入する。

戦利品を持ち帰り、大切な人に差し出すと、
「ありがとう!」と飛び切りの笑顔で言われる。

何を買うか、ではなく、誰のために動くか、という話だ。





みんな、同じ列に並んでいる。
手にして帰るのは、「もっちゅりん」。
だけど、その先に得るものは、人それぞれ。



味。

達成感。

会話に入る権利。

想像の、実体験への変換。

無事に買えた安堵。

誰かの笑顔。



そして、ふと我に返る人もいるかもしれない。

「私、こんなにまでして欲しかったっけ?」
「何やってるんだろう、朝から」
「あら?案外ふつうの味だな」

そこにもまた、その人なりの物語がある。





くだらない、なんて思わない。

むしろ、少し羨ましい。

誰かが仕掛けたものに、ちゃんと乗る。

誰かが用意したイベントにエントリーし、自分なりのゴールを切る。


その一連のことをやり遂げるエネルギーは、どこから出てくるのだろう。

私も「めんどくさい病」がなければ、参加する側だったかもしれない。

でも実際の私は、いつでも買える定番のオールドファッションの穴から、もっちゅりんに熱狂した人を眺める熱量しか残されていなかった。

彼らを動かしているものは何なのだろう・・・。


私はどうも、「もっちゅりん」よりも、人間観察の方に興味があるようだ。


あの自動ドアを出てくるとき、彼らはどんな感情と共に出てくるのだろうか?


私はおせっかいにも、それぞれの先にあるものを頭に描きながら、従業員通用口に立つ守衛さんに、いつもと変わらず「おはようございます」と挨拶をした。


なんのはなしですか


いいなと思ったら応援しよう!