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小説 | ラベンダー



当時20代だった私は、カシミアの贅沢さなど理解していなかった。ただ純粋に、ポリエステルやウールとは別格の肌触りの良さと、値札の『バーゲン』の文字が、財布の紐をゆるめた。

毎年必ず使ってきたわけではない。20年という長い歳月の中で、私の着るアウターは時に『流行』というものに揺れながら、何度か変遷を遂げた。歴代アウターとの相性で、このラベンダー色のマフラーがしっくりこなかったために、数年間眠らせていたこともある。

また、ファッショントレンドの過程で、ストールというものが台頭した。巻き方のバリエーションでいえば、ストールの圧勝だ。ストールに比べて面積が限られたこの布に、多様な巻き方を委ねるのは難しかった。

だからいつもマフラーを半分に折り、できた輪の中に先端を入れ込むという、面白みのない、でも形の崩れにくい古典的な巻き方を採用している。私にとってこのマフラーは、巻き方よりも、ラベンダーという色のほうが雄弁だった。



毎朝、通勤のために通る、どこまでもまっすぐで長い道がある。私は心の中で、勝手にその道を「ランウェイ」と呼んでいる。




7時15分。
この時間に家を出ると、正確な時計のように、7時22分にはそのランウェイにさしかかる。


夏は朝日が眩しいが、冬はまだ目を細めるほどの眩しさではない。同じ時間の同じ場所で、四季折々の朝を肌で感じながら、私はそのランウェイを、背筋をピンと張りながら歩いていく。



長いランウェイで、いつもすれ違う3組がいる。
自転車で通学途中の、ブレザー姿の男子高校生。
4人組の班で集団登校をする、近所の小学生たち。交差点付近で、その小学生たちを見守る、シニアボランティアの男性と女性。見守り隊と呼ばれる人たち。


ほぼ同じ地点でこの顔ぶれに出会う。それぞれもまた、同じ時間に家を出発しているのであろう。
誰とも待ち合わせなどしていなくても、同じ朝が、このランウェイに集まる。きっと、今日と明日、同じ時間に写真を撮ったとしても、さほど変わらない写真が撮れるのだろう。



そしてもう一人、時々すれ違う、印象的な女性がいる。週に2回ぐらいだろうか。この街には似つかわしくないその女性。

小学生は正直だった。
彼女が通ると、目で追ってしまう。特に低学年の子たちは、ポカンと口を開けて、文字通り見惚れている。女の子は未来の理想の自分を重ねるように、男の子は美しいものに抗えない本能のように、視界を彼女に吸い込まれる。

大人たちもまた、まじまじとは見ないものの、チラリと視線を走らせる。その瞬間、彼らが少しだけ、非日常にはみ出しているように見える。

決して派手ではない。むしろ自然体だ。それでも、彼女のまわりだけ、空気がほんのり明るくなる。

彼女が通り過ぎたあとのランウェイには、心地良い風が吹いた後のような余韻が揺れている。それは例えるなら、曲の最後によく流れる、あの『ラララ~♪』に似ている。

歌詞はもう終わっているのに、もう少しだけこの時間を一緒に味わいたい、と願うときに流れるあの余韻の部分。姿は見えなくなっても、彼女の余韻だけがそこに漂っている。

私は、心の中で彼女を「ララさん」と呼ぶことにした。すれ違うと思わずハミングしたくなる人、それがララさんだ。

◇ ◇ ◇

吐く息が白くなってきた11月の終わりごろ、私は衣装ケースから、ラベンダー色のマフラーを取り出した。

「そろそろだと思っていたわ」

そう聞こえてきそうなその佇まいに、ひとり笑みを浮かべながら、両手でそっと引き寄せた。そして、一年ぶりに再会した親友の手触りを確かめたあと、

「今季も一軍として活躍してもらうわよ」

静かにそう言うと、クローゼットの特等席に丁寧にかけた。つい先日購入した、チョコレートブラウンのウエストベルト付きロングコートに、このラベンダー色のマフラーを合わせて、この冬を過ごすことに決めた。

数年前から、服をたくさん所有するのをやめている。アウターはこれ一着だけ。だからこの冬は、『チョコレートブラウンのコートにラベンダーのマフラーのあの人』としてこの街に溶けるつもりだ。


◇ ◇ ◇


「今日が、今季一番の寒さになります」

月曜日の朝、テレビから女性アナウンサーのこんな声が聞こえてきた。
私はその前の週、インフルエンザを患って、今日が久しぶりの出社となった。

病み上がりの、少し重い足取りの自分を鼓舞して、背筋を伸ばしてランウェイを歩く。いつもとほぼ同じ場所で、同じ面々とすれ違う。

集団登校中の、一年生のランドセルに入れた黄色いカバーと、見守り隊の人が胸にかけている交通安全の黄色いたすきが、交差点でシンクロする。そこに朝日が降り注いで、ひんやりと冷たい空気の中に、見えない暖炉が置かれているような、暖かい空間を生んでいた。

久しぶりに歩くランウェイは、当たり前のように私を迎えてくれた。

軽い足取りで、ランウェイ沿いのテニスコートの横にさしかかった時、私の視界に見慣れたような、懐かしいような感覚が飛び込んできた。反射的に足が止まり、思わず右手が自分の首元を確かめる。

テニスコートとランウェイの間にそびえたつ金網のフェンス。冬の朝の光を浴びた、古びた無機質なひし形のその網目に、私のマフラーと見紛うばかりの何かが挟まっている。


手袋だ……。

手首に上質なファーがあしらわれた、片方だけの手袋。そしてそれは、私のマフラーにあつらえたかのような、完璧なラベンダー色だった。
自分の鼓動の音が、どんどん速く、大きくなるのがわかる。

この手袋は私のものではない。それなのに、こんなに胸が苦しいのはなぜなのか。この手袋はいつからここにいるのか。浅くなった呼吸の中で、私の頭は混乱し、理解が追いつかない。

触れなくても冷たいとわかる、無機質なフェンスに抱きかかえられたその手袋。その色がラベンダーということが、どうにも私の心をかき乱した。自分を象徴する色として君臨してきた気高きラベンダーが、寒さに耐えながら、無機質な金属に身を預け、力なく折れている。

風が吹けば、手袋は助けを乞うように指先を揺らす。反対に、手首の上質なファーは、どんなに風に揺らされようとも、その芯を保ち凛と立ち上がる。その姿はまるで、「私は大丈夫ですから、どうぞお構いなく」というメッセージのようにも受け取れた。

その後、どうやって会社に到着したのか、よく覚えていない。私の背中はずっと、その手袋を見つめ続けていたのかもしれない。

◇ ◇ ◇


自分の席に腰をおろす。紫にまみれた人に見られたくなくて、ひざ掛けは淡い水色にしている。それに合わせて、椅子の上に敷くシートクッションも水色にしている。

良かった………。
今は自分の視界に、広くラベンダーを広げる勇気がないから。

いつも持参する水筒を、今にも震えそうな手で取り出し、両手でしっかりと持った。大きく息を吐いた後、少しぬるめに入れてきたほうじ茶で喉の渇きを落ち着かせ、目を閉じて先ほどのランウェイの出来事を、頭の中で整理しはじめた。


頭の中に、3つの気持ちが渦を巻く。

まず、あのラベンダーの手袋の持ち主は一体誰なのか。いつからあのフェンスにあるのか。

先週インフルエンザを患い、水曜日以降出勤していない私は、あの手袋が、何日の凍える夜を越えたのかを知らない。一刻も早く、あるべき場所へ無事に戻ってほしい。


次に頭をかすめたのは、ランウェイですれ違ういつもの面々が、「あの手袋の持ち主は、『チョコレートブラウンのロングコートにラベンダー色のマフラーのあの人』(つまりは私)に違いない」と勝手に犯人扱い、いや、持ち主扱いしていないかという不安だ。


そして最後に、道路に落ちていたであろう手袋を、汚れないように、踏まれないようにと拾い上げ、落とし主が見つけやすいようにとフェンスに挟むという、この『名もなき親切』を実行したのは、果たして誰なのかという疑問だ。




手袋の主が誰なのかを想像してみた。

きっと、私がランウェイを歩いていない時間帯にだって、たくさんの人がそれぞれの目的地へ向かう過程で、ここを通過している。

しかし、私の中で、ララさんのものではないかという想像がどんどん膨らんでしまう。


ララさんがそのラベンダーの手袋をはめている姿は、想像に難くない。たおやかな生地と柔らかくも凛と存在するファーが、彼女の佇まいと重なり合う。彼女の立ち居振る舞いから、持ち物を粗末に扱うことは想像し難いが、もしうっかり落としたとしても、私がインフルエンザを患ったように、何かしらの事情で探しに来れないだけなのだ。

今まで彼女が手袋をしている姿は見たことがないが、あの手袋はララさんのものだった、という結末になれば、私は妙に納得できそうな気がした。傲慢かもしれないが、ラベンダーという「私の色」を託すに値する相手は、私の納得する人でなくてはならないというエゴが、この瞬間に開花した。



一方で私は、私自身が手袋の持ち主だと思われていないかと少し怯えた。私が落とし主でないことは、私が一番理解している。それなのに、ラベンダーのマフラーが、妙な状況証拠を作り出している。この状況証拠から、ランウェイの住人が「私が持ち主」説を唱える可能性は十分にあり得る。

まず、私が会社を休み始めた先週の水曜日から、手袋がフェンスにあったとする。そうすると、何日もあの状態で手袋は人目にさらされ続けているのだ。そして、ランウェイの住人たちが

「あの人、手袋を片方だけ落としたまま、忽然と姿を消した」

今日、私の姿を見かけるまで、そんな風に思われていたのではないかと、他人様の思考回路に侵入してみた。

「マフラーとセットで購入した手袋だ」と言われても否定できないほど、そのラベンダーの色の配合は同じだ。


そして、もう一つの大きな謎。
『名もなき親切』の実行犯について。


何人か、この犯行を起こしそうな人物が思い当たる。


まず最初の容疑者はあの男子高校生だ。
黒いネックウォーマーが、彼の細く長い首を隠すと、白い吐息と相まって、そこにモノクロの青春が見えてくる。

ある朝、いつものように学校に向かう彼の目に、地面にはあるはずのないものが。そのまま進もうとしたが咄嗟にブレーキをかけて、振り向いてみる。

手袋だ。

自転車を降り小走りで手袋の場所まで引き返した。すっとかがむと、まだかすかに体温を感じるその手袋を、生まれたての子猫を拾うようにそっと持ち上げた。

手袋が誰かに踏まれないように、歩道の縁石に乗せてみた。しかし、何かの拍子に車道に投げ出されてしまうかもしれないと思い、すぐそばにあるテニスコートのフェンスに挟むことを思いついた。

「持ち主さん、気づいてくださいね」

『迷い猫をお預かりしています』という張り紙をするように、手袋を丁寧にフェンスに挟んだ。

彼は再び自転車にまたがり、先ほどより少しだけ速いスピードでモノクロの日常へと戻っていった。

◇ ◇ ◇

次の容疑者は4人の複数犯。

1年生の女の子が第一発見者だ。ランドセルには、鮮やかな黄色いビニールカバーが取り付けてある。大きな太陽を背負いながら、地面のラベンダーを手に取る。

手袋だ。

彼女はそれが、ラベンダーという色だと知っていた。なぜなら、ランドセルを購入する時に、サーモンピンクにするかラベンダーにするか、最後まで迷っていたからである。

今、彼女のランドセルカバーの下には、サーモンピンクのランドセルが隠れている。

ラベンダーは彼女にとっても特別な色だった。ランドセルという、人生初の大きな決断で、最後の最後に手放した、もう一つの物語の色だった。

手袋を手に取り、ランドセルをラベンダー色にしなかったことを一瞬悔やむ。手に入らなかったものが輝いて見えるのは、大人も子どもも同じかもしれない。


「落とし物だ、警察に持っていこう」

黄色いランドセルカバーの男の子の口から、純粋な言葉が溢れた。


すると、リーダーの高学年の男の子が、
「見守り隊の人に預けよう」
と提案する。

「じゃあ持って行く」

善行をしようと息巻く黄色い背中の二人を尻目に、今度は高学年の女の子が提案する。

「持ち主の人が落としたことに気づいたら、絶対通った道を探しに来るはずよ。だから、移動させない方がいい」

そして、こう続ける。

「見つけやすいようにフェンスに挟んでおいたら」

言葉に感情が乗らないため誤解されやすいタイプかもしれない。しかし、その提案はあまりに的を射ていた。

この、影のリーダーの指示で、実行犯の1年生二人はフェンスに駆け寄る。手を伸ばして背伸びをして、フェンスのなるべく高い位置に挟んだ。男の子がちょっとぶっきらぼうに置いた手袋の指の部分を、女の子が丁寧に伸ばした。やり遂げた二人は誇らしげに列に戻り、再び学校を目指した。

◇ ◇ ◇

最後の容疑者は、見守り隊の二人だ。

交差点を挟んで立つ二人。多分夫婦ではない。日によって交差点のこちら側と向こう側で立つ位置が入れ替わる。

そして、二人とも色違いにも見える、似たような薄手のダウンを着ている。男性はシルバー、女性はベージュ。シンプルな色味と、必要以上にボリューム感のないそのダウンが、それぞれの無駄のない人生を象徴する。

長年、地域に根を張り、多くの人々の歩みを見守ってきた二人がセレクトしたダウンの色は、長年の経験に裏打ちされた、人々に安心を与える「制服」のようにも見えた。

彼らが見守っているのは、小学生だけでなく、地域そのものだ。だから、道に手袋が落ちていれば、彼らはその異変を見過ごさない。

ゆっくりと屈んで拾い上げ、汚れを払い、落とし主の目に留まる高さへと据え直す。その一連の動作には、迷いも、見返りを求める気配もない。その異変を、いつもの穏やかな街へ戻すように、彼らは優しさをそこに置いていく。

◇ ◇ ◇


そんな犯人捜しの妄想で頭を埋め尽くしながら、今日の仕事はずっと上の空だった。誰かと会話しても、話が全く入ってこない。達成感のないまま退勤時間が来てしまった。

◇ ◇ ◇  

ランウェイのそばのテニスコートから、ボールを打ち合う音が軽快に響き渡る。フェンスにはまだ、ラベンダーの手袋の姿があった。心なしか、それが朝より寂しい表情に見えるのは私だけなのだろうか。

退社する時に、一瞬巻くのをためらったラベンダーのマフラーが、私の動揺する姿を、クスッと笑っているように感じた。

◇ ◇ ◇


翌朝、いつもの彼らとすれ違う。

男子高校生と目が合ったような気がした。集団登校の小学生たちが、私のマフラーをじっと見ているような気がした。見守り隊の女性が、何か私に言いたげに見えた。

「ほらほら、あなたの手袋片方落ちてますよ。フェンスを見て」

そんな声が聞こえてきそうだ。聞かれてもいないのに、

「あの手袋は私のものではないのです」

私とすれ違う誰もかれもに、そう言いたい自分がいた。まるで、冤罪を着せられた人の気持ちだ。



ラベンダーの手袋はまだそこにいた。今日もララさんとすれ違うことはなかった。そして、いつものように、颯爽とランウェイを歩けない自分に気づいた。

あの手袋をフェンスにかけた犯人にとっては、私が手袋の持ち主であることが、最も平和で裏切らない結末になるのかもしれない。自分の挟んだ手袋がフェンスにずっと残っていることは、犯人にとっても非日常が長く続くことになる。

だから、私が「あっ、こんな所にあったのね。どなたか存じませんがありがとう」と思いながら手袋をフェンスから抜き取る光景を、待ち望んでいるに違いない。

しかし、そんな平和なシナリオをビリビリと破るような嫌な知らせが届いた。



始業10分前。
コーヒーのほろ苦い香りが立ちこめる、社内の共有スペース。壁に掛けられたモニターに目をやる。お天気コーナーの気象予報士が、自信たっぷりにこう告げた。

「今夜は、冷たい雨が降るでしょう」

雨。

繊細なラベンダーの糸が、大量の雨水を吸い、どす黒い色になり変わるのか。あのふわふわとしたファーが、まるで洗われたネコの毛のようになって、手触りの良い毛なみを失う様を想像し、私は居ても立ってもいられなくなった。

◇ ◇ ◇


19時。
仕事から帰宅したら家から一歩も出たことのない私が、用もないのにコンビニに行くという口実で家を出る。テニスコートの横を通る。

まだいる。

テニスコートは、仕事を終えた人たちがテニスに興じる声や、ボールを打ち返す音でまだ賑わっていた。

私は、とある作戦を思いついてここまでやってきたわけだが、テニスコートにいる人々の視線が気になり、行動に移せなかった。

所在なくコンビニに入り、食べるつもりのない濃厚抹茶プリンを買った。店員さんが付けてくれたスプーンと、濃厚抹茶プリンだけが入っているビニール袋をぶら下げて、帰路に就いた。

諦めにも似た気持ちだった。今夜、雨が降る前にあの手袋の持ち主が現れる確率は、10%以下だろう。しかし、雨が降る確率は100%だ。もう、濡れてしまうことは避けられない。絶望感が増す。


21時。
風呂上がりに、テレビを観ながら化粧水をつける。いつも欠かさず観ている医療系ドラマの内容が、全く入ってこない。



21時50分。
番組と番組の間に入る天気予報が、また私の心を混乱させる。



私のものではない。
私には関係ない。
あの手袋が濡れたところで、私の生活に何も変化など起こらない。
そう言い聞かせる自分がいた。



22時22分。
私はランウェイにさしかかっていた。これほどまでに自分をバカだと思ったことはない。と同時に、こんな自分を憎めないでいた。

私は部屋着の上から、唯一のアウターである、チョコレートブラウンのロングコートを羽織り、ラベンダーのマフラーを巻いて、スッピンのまま家を出ていた。

いつも、ハイゲージニットしか着ない私にとって、部屋着のトレーナーの上から羽織るコートは、少しの窮屈さを感じさせた。幸いロングコートに隠れて、部屋着のズボンもほぼ見えていない。

部屋着から、いつものハイゲージニットとスカートに着替えることも考えたが、着替えているうちに自分の気が変わってしまうような気がした。今のこの、衝動的でバカな自分にしかできないことがある。そう思いながらランウェイを目指した。

当然ながら、こんな格好で、しかもスッピンで、このランウェイを歩くなど、私の人生の予定には組み込まれていなかった。1つの手袋に、私は一体、何を試されているのだろうか。

人通りのないランウェイを通って、テニスコートのフェンスまでやって来た。照明灯は全て消され、先ほどの賑やかさが嘘のように静まり返っている。ラベンダーの手袋と対峙するには最高の静けさだ。

私は忍ばせて来たジッパーバッグを広げる。近所のドラッグストアで買った、20枚入り税込298円。そこから1枚を引き抜いて来た。

フェンスから手袋を救い出し、ジッパーバッグにおさめた。ジッパーの口をゆっくりと、パチパチと確実に締め切ったのを確認して、またフェンスに預けた。現場に到着して、ものの1分ほどの犯行だ。


私は今夜、知らない誰かのために、もしかしたら自分のために、この犯行をひっそりと遂行した。


もし誰かが私を見ていたとしたら、完全に不審者と見間違うだろう。警察官が通りかかったら、職務質問を受けるだろう。

犯行を終えて、家路を急ぎながら、思わず笑いが込み上げて来た。

「ふっっ」

無意識にお腹に力が入り、鼻から息が漏れた。

「何やってるんだろう、私」

同時に、えもいわれぬ達成感があった。この犯行は、私にとって近年稀にみる、有意義な時間の使い方になったかもしれない。


帰宅してしばらくすると、ポツポツと雨が降り始めた。


間に合った。


私はコートを脱ぎ、ラベンダーのマフラーをクローゼットの特等席に戻した。


部屋着姿に戻り、緊張から解放された私は、冷蔵庫から濃厚抹茶プリンを取り出すと、6口ほどでたいらげた。それは、想像以上に濃厚で、口の中に苦みと甘みの両方の余韻を残していった。その夜、私はとてもよく眠れた。

◇ ◇ ◇


翌朝、まだ雨は降り続いていた。
私は2年前に購入した、お気に入りのスモーキーブルーの傘を片手に、ランウェイを颯爽と歩いた。

テニスコートのフェンスにはもちろん、ラベンダーの手袋がいた。昨日までと違うのは、手袋がジッパーバッグという、透明な傘を手に入れていたことだ。

私はそのことに一切関与していないような顔をして、その横を通り過ぎた。ただ、透明な傘を濡らしながらも、手袋がしっかりとその尊厳を守られている姿を見て、昨日の自分を誇らしく思った。


◇ ◇ ◇


次の日、雨はすっかり上がっていた。仕事帰りのフェンスには、まだあの手袋がいた。私が着せたジッパーバッグという名の「透明な傘」に守られながら、今夜もそこを寝床にするようだ。


木曜日。手袋を発見してから、今日で四日が経つ。変わったのは、手袋が雨に濡れなくなったことと、それを見つけるたびに私の胸を締め付けていた切なさが、いつの間にか小さな誇りに変わったことくらいだろうか。 

◇ ◇ ◇

金曜日の朝、手袋は忽然と消えていた。ジッパーバッグと共に。持ち主が現れたのか、誰かが警察へ届けたのかはわからない。ただ、足元に落ちていないことだけを確認し、再びランウェイを歩き出した。

きっと、帰るべきところに帰ったのだ。今頃、帰りを待っていたもう片方の手袋と、感動の再会を果たしているに違いない。そんなことを思いながら、まっすぐに歩き続けた。

◇ ◇ ◇

週末、ラベンダー色のマフラーを丁寧にブラッシングし、風通しのいい日陰に干した。冬のそよ風に揺れるラベンダーはまるで、

「あの夜のあなた、悪くなかったわよ」

そう、私を労ってくれているように感じた。


◇ ◇ ◇


新しい一週間が始まった。私はいつものチョコレートブラウンのコートに、ラベンダーの相棒を纏い、7時22分のランウェイへと踏み出した。


前方から、いつもの男子高校生がやってくる。ネックウォーマーに白い息を溜め、小学生の列を注意深く追い抜いていく。見守り隊の男性に軽く会釈をして通り過ぎる彼の自転車の音が、今朝はやけに心地よく響いた。


交差点では、小学生たちが信号を待っていた。


「……マラソン大会……観に来て……」


1年生のたどたどしい誘い文句が、澄んだ空気に溶けていく。


もう、あのフェンスを気にすることもないのだな。そう思いながらテニスコートに差し掛かった時、私はハッとした。


ララさんだ。


彼女はフェンスに向かって凛と立ち、何かを見つめていた。その美しい横顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいる。

私が近づくと、彼女は髪をかき上げながらこちらを向いた。その手には、上品なピンクのツイード手袋。

その時不意に、目が合った。彼女は「見られてしまった」というように、少しはにかんで会釈をした。


私は確信した。


彼女は、手袋がなくなっていることに気づき、その不在を喜んでいたのだ。それは、ララさんの優しさが、あの手袋を気にかけていたからなのか、それとも実は、最初に拾ってフェンスにかけた犯人が、ララさんだからなのか、知る由もない。


「おはようございます」


初めて、私から声をかけた。
彼女はハッと驚いたあと、「おはようございます」と鈴の鳴るような美しい声で返してくれた。それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。

私たちは名前も知らない「共犯者」になっていたのだ。誰かの大切なものを、それぞれの善意でリレーした、名もなき戦友。

会社に着き、ぬるめのほうじ茶をすすりながら、私は一人でふっと笑った。

◇ ◇ ◇


私たちの挨拶がすっかり日常になった、クリスマスイブの朝のこと。
やはり心のどこかであのラベンダーの手袋の真相を確認したいという欲求が湧いてきた。

よし、今日こそ思い切って聞いてみよう。

私はいつものように朝の挨拶を交わしたあと、通り過ぎようとするララさんに声をかけた。


「あのっっ」


ララさんは足を止め、何も疑わない澄んだ瞳で私を見つめた。


「はい」


さあ、今だ。
手袋のことを聞くんだ。
そう思った次の瞬間、自分でも予想しない言葉が口からこぼれていた。



「メリークリスマス」



ララさんは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにハンドベルのような神聖な声で返してくれた。



「メリークリスマス」



こんな陽気な外国語を口にしたのは、子どもの頃以来だろうか。なぜ、あの場面でこの言葉が出たのか。

理由は自分でもわかっている。
いざ彼女を呼び止めてはみたものの、手袋の話を切り出せば、私が夜な夜なジッパーバッグをかぶせた犯人だと明かさなくてはならない。

ララさんの前ではスマートな私でいたい。泥臭い私を知られたくないというエゴが、この土壇場で再び開花してしまったのだ。

そんな私の小さな器が、苦し紛れに引っ張り出してきた代わりのセリフが

「メリークリスマス」


けれど、あの屈託のない笑顔と、神聖な声をプレゼントされたと思えば、これはこれで正解だったのかもしれない。

◇ ◇ ◇


7時22分。
年明けから数日経った朝。私は今日も同じタイミングでランウェイに足を踏み入れる。「チョコレートブラウンのコートにラベンダーのマフラーのあの人」として、背筋を伸ばす。


学生たちも冬休みが終わり、ランウェイは、再び活気を取り戻していた。高校生の髪は少し短くなり、小学生たちは、学期始め特有の、たくさんの持ち物に悪戦苦闘しながら進む。見守り隊の男性に競うように、冬休みの思い出を報告している。 

「……お年玉……おばあちゃんち……餅つき」


私の耳が拾う言葉には、どれもこれも平和が溢れている。


テニスコートのフェンスの前。


ララさんだ。


白いダウンを着たララさんが、また何かをじっと見つめている。その視線の先にあったものを見て、私の胸の奥が熱くなる。

そこには、あの夜と同じジッパーバッグが揺れていた。中には丁寧に畳まれたハンカチ。そして、幼い筆跡で書かれた紙が添えられている。




お と し も の で す 
は ん か ち



それは、私の「犯行手口」そのものだった。このランウェイの住人の誰かが模倣犯となり、同じ手口で優しさを届けようとしている。

「今度はハンカチですね」

ララさんが、私に気づいて柔らかく微笑んだ。

「ええ。持ち主、見つかるといいですね」

多くを語る必要はなかった。私たちは、この街の平穏を願う者同士なのだから。


「では、いってらっしゃい」


「はい、お気をつけて」


互いに反対方向へ歩き出す。ララさんの余韻が、私の頭の中に広がっている。

ふと足元を見ると、アスファルトの隙間で、ラベンダー色と呼ぶにはまだ熟されていない、淡い紫色の花の蕾が、冬が終わるのを待っていた。


「こんな所にこっそり咲いて……」


あの夜の無垢な自分が重なり、その花を無性に抱きしめたくなった。この蕾がどんな花を咲かせるのか、今から楽しみだ。



春は、もうすぐそこまで来ている。





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