短編小説 |『ワコール ブラジ』の秘密 |シロクマ文芸部
レシートに印字されているカタカナの羅列を見て、私は息ができなくなった。
夫が単身赴任になってから、もう7年になる。
単身赴任というのは、一緒に暮らしていないのが日常で、一緒に暮らす数少ない日が、イベントのようになってしまう。
仲が悪いわけではない。だけど、見えている景色は違ってきている。
夫は身の回りのことはちゃんとできる人だから、
そういう面で心配はしていない。
だけど、なぜか今日は胸騒ぎがして、
夫の赴任先のアパートに、黙って来てしまった。
夫はまだ仕事に行っている時間だ。
合鍵を使うのは初めてだ。今まではここに訪ねて来ても、夫と一緒だから合鍵を使う必要はなかった。
キーホルダーも何も付いていない、無機質に削られた、ただの薄い鍵をゆっくりと差し込む。
右に回してみる。
「サクッッ」
私の気持ちとは対照的に、軽快な音が響く。と同時に、解錠された感覚が指先を伝う。
その下にある、もう一つの鍵穴にも、同じことを繰り返す。この音と感覚が、やけに新鮮で心地良い。
私は妻だから、この部屋に入る権利はあるのに、なんとなく気が引ける。
どこか罪悪感のようなものさえ感じている。
ドアノブを回して扉を開けると、
「ギィッ」と短い音が鳴る。
扉が開いた瞬間、部屋にこもっていた湿気を含んだ空気と、人工的なラベンダーの香りが混ざったものが、私の鼻まわりを不快に撫でていく。
玄関ドアを閉めて、鍵を上、下の順番で施錠する。
履いている高さ3センチほどのヒールを、手を使わずに足を上手く捻りながら脱いでいく。
程よく片付いているこの部屋に、普段私たちとは暮らしていない、夫の日常があるのだ。
肉じゃが、筑前煮、お浸し、味玉、唐揚げ。
私は、家で作ってタッパーに詰め込んで来た作り置き料理を、手早く冷蔵庫に積み上げていった。
アマニ油入り和風ドレッシング
冷蔵庫の扉の裏にそれを見つける。
こんなの使ってるんだ・・・。
こんな健康志向な商品を、選ぶ人だっただろうか。
どこか違和感を感じる。
軽く部屋を整えたら、夫には会わずに帰ろう。
作り置きのタッパーを冷蔵庫に置いて帰る。
そのことが、私の何を代弁してくれるのかわからないけど。
ごみ箱の中の、何枚かのクシャクシャのレシートを、何気なく開いてみる。
セブンイレブンで、ビールを2本。
スーパー小牧で、豆腐、アジの南蛮漬け、パックのごはん。
シロクマモールで、ワコール ブラジ・・・。

「えっ?」
「ワコール??」
「ブラジ???」
息ができない。
レシートに印字できる文字数の関係か、商品名がそこで途切れている。
ギフト箱200円・・・贈り物用に包装したんだ。
あっ、もうすぐホワイトデー。
頭の中で、勝手にストーリーが組み立てられていく。
私へ買った・・・?
いやいや・・・今まで下着なんてもらったことないし、私のバストのサイズなんて、夫が知る由もない。こういうのをプレゼントされたら、私が喜ばないことも多分わかっている。
じゃあ、一体誰に・・・?
この部屋にある全ての物が、まるで私を
「あの人誰?」とよそ者扱いしているように感じてしまう。
さっき入れたタッパーたちが、冷蔵庫の中で、場違いな扱いを受けているような気にもなる。
涙なんか出ない。
ただ、淡々と覚悟のようなものが芽生えてくる。
私はここに来るべきではなかったんだな・・・。
タッパーを冷蔵庫から取り出そうと立ち上がったその時、少し開いたクローゼットの扉の中に、紙袋を見つける。
レシートと同じロゴマークのシロクマと、目が合う。
私はシロクマを一瞥した後、冷蔵庫の扉を開けた。
ふだんはあまり食材が詰まっていない冷蔵庫が放つ、澄んだ冷気を少し長めに浴びた。
「バンッッッ!」
かつて、冷蔵庫の扉をこんなに大きく鳴らしたことがあっただろうか。
タッパーを回収せずに扉を閉めた私は、唇をかんだ。
私は、シロクマと差し違えることにした。
クローゼットの扉を開けて、シロクマの紙袋を持ち上げる。
中には、丁寧にリボンをかけられたギフト箱が一つ。

不思議と落ち着いている。
怒りとか、悲しみとか、そういうのはない。
ただ、この中身を目の当たりにしないと、前に進めない気がした。
こんなこと・・・しちゃいけないに決まってる。
でも・・・もう全部壊れてもいい・・・そう覚悟した。
赤いリボンの片方の端を引っ張る。
堅く結ばれていて、ほどけない。
今度は左手で箱を押さえて、もう一度しっかりと引っ張った。
箱にまとわりついて凛としていたリボンは、ほどけてだらしなくそこに寝転がる。
そして、包み紙に手をかけると、
一気に破った。
「ビリッッ!!」
冷蔵庫の唸る音だけがしていたアパートに、
鋭く乾いた音が、ソロパートの如く響く。
勢いに乗らないと、こんなことできない。
テンポを落とさないようにギフト箱を、躊躇なく開く。
現れたのは白くて薄い包み紙。
白い紙に大切に包まれたそれは、
想像していたより小さい。
自分の早い鼓動が、ティンパニのように耳のすぐそばで聞こえる。
一度、大きく呼吸をする。
白い紙を持ち上げようとすると、カサカサと心地良い音がする。
「軽い」
「想像よりも、軽くて小さい」
違和感が指先を支配する。
紙袋から出し、リボンをほどき、包み紙を破り、今ここに最後のヴェールに包まれたそれがある。
マトリョーシカごっこも、ここまでだ。
白い紙を開きながら、頭の中を色が駆け巡る。
ピンク・・・白・・・赤・・・。
もう何色のそれが出てきても、私は動揺しない。
覚悟を決めて、白い紙を開く・・・。
「はっ?」
「何これ???」

誰もいない部屋で声が出た。
「ブラジャーじゃなかったの?!」
えっ、待って
この柄って・・・国旗・・・ブラジルの国旗。
もしかして、「ワコール ブラジ」って・・・
「ワコール ブラジル国旗柄ブリーフ」
のことだったの?
ブリーフを持ったまま動けない。
なんなのよ、これ・・・。
誰にあげるのよ・・・。
意味わかんない・・・。
なぜか涙が出てくる。
緊張状態から解放された私は、誰もいない部屋で子どものようにワンワン泣いた。
しばらく泣き続けて、
眠ってしまったようだ・・・。
私が目を覚ました時、
夫がブリーフを持って、呆然と立っていた。
私の泣き腫らしたような顔を見たからか、何かを察したからなのか、勝手に開け散らかしたブリーフの件で、怒られることはなかった。
「今日、まだ時間大丈夫?」
夫が聞いてくる。
「子どもたちには、遅くなるかもって連絡入れてある」
その答えを聞いた夫は、頭の中で何かを組み立てるように、少しの時間目を閉じ、
「ちょっと出よう」
そう誘ってきた
夫はビリビリに破られた物一式とブリーフを、シロクマモールの紙袋に入れた。
私はわけもわからずに、ただ黙って着いていくしかなかった。
車中、ひとことも口をきかないまま、シロクマモールの駐車場に到着した。
週末ということもあり、入口の自動ドアをくぐると、モールの中はあらゆる世代の話し声が重なり合い、一まとまりの喧騒となって私の耳に届いた。
夫の少し後を着いていく。
そのフロアは床が絨毯張りで、他のフロアよりも格上を体感させてくれる。
自然と背筋が伸びる。
夫が足を止めたそこには、私の想像を絶する光景が広がっていた。
~あなたの応援を、肌着から~
W杯イヤー開幕!応援フェア
各国代表カラーコレクション
華やかなランジェリーが並ぶ一角に、それとは明らかに異質な、原色に彩られた特設コーナーがあった。
アルゼンチン、ドイツ、スペイン、そして日本。各国の国旗を大胆にデザインしたブリーフが、マネキンに着せられ、誇らしげに並んでいる。
「すみませ〜ん、子どもが間違えて開けてしまって…もう一度包んでもらえないでしょうか?」
夫はあまりにも自然に演じていた。
ワコールの販売員さんは、快く包み直してくれていた。
私は、ギフト箱の代金をレジで支払う夫の背中を見つめた。
その一連の手慣れた様子が、まるで出来の悪い部下のやらかしを、「なんくるないさ」でカバーする上司のように見えて、私は小さくなっていた。
ブラジャーコーナーと、派手な国旗柄パンツの特設コーナーの境界線で、私がバツ悪そうに立ち尽くしていると、シロクマモールの紙袋を受け取った夫が、向こうから手招きした。
モール内を、また夫の少し後ろを歩く。
絨毯張りの床が足音を吸収して、沈黙が際立ち気まずい。
エレベーターの前で立ち止まった夫が聞いた。
「笹野健太、憶えてる?」
顔を私の方に向けて、でも私の目は見ずに。
「ささの、けんた…あっ、パパの同期の人だよね。
結婚式に来てくれた、サッカー好きのめちゃくちゃ明るい人。」
笹野健太の顔が浮かぶ。
結婚式以来会っていないので、私の知る笹野健太は29歳のままだ。
「確か、みんなからケンタッキーって呼ばれてて、ロナウジーニョを人生の師匠にしてる人じゃなかった?」
私が意外にもしっかりと笹野健太のことを憶えていたからか、
「あっ、そうそう、そいつ」
少し微笑んでいるようにも見えた。
「あいつさぁ、今月で会社辞めるんだよ。転職。健康食品の会社だって。なんか地元では有名なドレッシングとか作ってるらしい」
「あっ、そうなんだ…」
頭の中で、いろんな単語が浮かぶ。そして、その点が、線になり始める。
「あのアマニ・・・ドレッシン・・・ロナウ・・・サッカー・・・ブラジル……」
!!!!!!
「もしかして、これって笹野さんへの?」
頭の中で全てがつながった。
「昔っから、早とちり変わんないよね」
返す言葉もなかった。
夫は私の一連の行動から、私の思考回路を全て読んで、それを怒ることもなく、馬鹿にすることなく、むしろ一つのキャラクターとして楽しんでくれているようだった。
でも、「昔から変わらない」という響きが、
なんだか今の私には心地よかった。
私はいつの間にか、夫の隣に並んで歩いていることに気づいた。

駐車場に着くと、すっかり外は暗くなっていた。
屋上のシロクマが、こちらを見て、
なんとなく笑っているような気がした。
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