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言いたいのに言えない夜に|待たずにいると、奪っていた

こんにちは、ゆきのです。


梅雨の晴れ間だった。

午後の相談室は、外より少し涼しくて、冷房の音だけが低く鳴っていた。


その人が部屋に入ってきたとき、私は窓の向こうの雲を見ていた。
振り返ると、椅子に座る前に一度だけ、深く息を吸うのが見えた。

その日のことを、今も思い出します。


言葉より先に、指先が動くことがあります。

何かを言おうとして、言えなくて、手元に視線が落ちる。

膝の上で、指が少しだけ動く。
折り曲げるでもなく、伸ばすでもなく、ただそこにいる。

その動きが何を言おうとしているのか、私にはわかりません。
でも、何かが言葉になる前に、そこへ降りてきていることだけは、伝わります。

相談室で、そういう指先を何度も見てきました。


あの日もそうでした。

長い沈黙のあと、少し口が開きかけて、また閉じる。
その繰り返しが三度か四度続いた。

私は何か声をかけようとして、やめました。触れたら、音が消える気がした。

だから、自分も手を膝の上に置いて、静かにしていました。

冷房の音だけが、部屋の中にありました。

そのうち、その人の指先が止まりました。
それから、ゆっくりと言葉が出てきた。

長い時間をかけて、やっと外に出てきた言葉の、やわらかい音。
その出方を、今も覚えています。
 


待つことは、何もしないことではないのだと、相談室で少しずつ覚えました。

もっと前の私は、沈黙を埋めようとしていました。
場が止まると、何か差し出さなければという感覚があった。
慰めでも、問いかけでも。


ある先輩に言われたことがあります。


「あなたが先に喋ると、相手が今日ここへ持ってきたものを、言えないまま帰ることになる」
 


その言葉が、手首のあたりに刺さった感じがしました。

差し出すつもりで、奪っていた。


言葉が出ない理由は、人によって違います。

まだ形になっていないのか。
言ったら取り消せなくなるのが怖いのか。
どう受け取られるかを考えすぎているのか。
それとも、もう言葉にする必要がなくなったのか。

どれを当てようとするより、どれであっても今はそこにいる。
そう思えるようになったのは、失敗の後のことでした。


言葉が出たあと、その人の膝の上の手が、ほんのわずか開いたように見えました。

気のせいかもしれない。
でも私には、長い間握っていたものを、少しだけ手放した瞬間に見えました。

何を話したか、ここには書きません。
あの指先の動きだけが、今も時々思い出されます。

あれが正しかったのかどうか、わかりません。
ただ、何かを引き出そうとして待っていたわけではなかった。
ただ、そこにいたかっただけでした。


あなたの中にも、まだ言葉になっていないものがあるかもしれません。

今夜それが出てこなくても、指先はまだ動いている。

声になる前の時間も、言葉のひとつです。



ゆきの
 



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