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疲れたと言えなかった夜に|声の届かない場所でも、受け取っていた


「無理してない?」


廊下で声をかけられた瞬間、
喉仏のあたりが少し浮くような感じがしました。

飲み込むのとも違う。
言葉が来て、身体の内側の何かがそれに触れた。
でも表には出てこなかった。


「大丈夫です」と答えて、すぐ歩き出しました。
振り返りませんでした。


疲れていないわけではなかった。


言葉にした瞬間に何かが崩れる気がしていたのかもしれない。
あるいは、心配をかけたくなかった。
あるいは、どうせ伝えきれないと思っていた。


そのどれもが少しずつ本当で、
だから「大丈夫です」しか出てこなかった。


電車の中で、さっきの声がまだ耳の中にありました。

心配そうな顔をしていたことも、見ていた。
帰ろうとしていたのに立ち止まってくれたことも、わかっていた。

わかっていたのに、何も返せなかった。

そのことが、胸骨の裏側あたりに、
うすく残っていました。
重さというより、温度に近いものとして。
 


音叉を打つと、
叩かれていない側も、気づかないまま振動している。
 


あの声が届いたとき、
私の中の何かが振動していたのかもしれません。


言葉にはならなかった。
返せなかった。
でも、触れていた。


「大丈夫です」と答えながら、すでに受け取っていた。

受け取ることは、声に出すことだけではないのかもしれません。


以前、面談のあとに「来てよかった」と言ってくれた人がいました。

その人はほとんど何も話さなかった。
私も、それほど多くは言えなかった。
それでも帰り際にそう言ってくれた。

何がよかったのか、今でもわかりません。

何かが届いていた、ということだけは、
あとから少しずつ思えるようになりました。


言えなかった夜は、
何も渡せなかった夜とは、違うのだと思います。


喉仏のあたりが浮いて、
胸骨の裏に温度が残っていたなら。

それはあの声が、あなたの中にちゃんと届いていた、
ということです。


「大丈夫です」と言ってしまった夜。

あの人が帰っていった廊下の、
少し静かになった空気の中で。

喉の奥でまだ動いていたものが、
なんだったのか。

今夜は、それだけを、知っていればいい。


咲かなくても、あなたは美しい。


ゆきの
 



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