『深淵に咲く水無草』
第一章:『黄昏の未亡人の依頼』
「深淵亭」の重い樫の扉を押し開けた瞬間、私の鼓膜を震わせたのは、理性の決壊した怒号と、意味不明な金属音の礫だった。
そこは、まさに不条理の沸騰点。天井の梁からは、自称・大賢者の老人が逆さ吊りになりながら、昨日の夕食の献立がいかに宇宙の真理を内包していたかを、隣に座る重装備の重戦士に説教している。精神を病んだその重戦士は、虚無の目をして鼻から豪快に鼻汁を垂らしながら、なぜか空のジョッキの底に残った一滴の泡を「これこそが我が人生のすべてだ」と言わんばかりの形相で、執拗に舌でペロペロと舐めとっていた。さらにはヤケクソ気味に、テーブルの上の食べ残しの骨を一本ずつ丁寧に磨き上げ、それをジェンガのように積み上げては涙を流して崩すという、生産性ゼロの苦行に没頭している。
「あー、マジだるい。つーか、そこの魔法使い! 飲み過ぎて胃液吐くならバケツ持ってこいし!」
カウンターの端で、派手な付け睫毛をバサつかせたギャル先生が、デコったトレイを片手に毒づいている。彼女は床にぶちまけられた未知の粘液を厚底ブーツで器用に踏み越え、絡んできた酔っ払い冒険者の頭をメニュー表でスパーンと叩き伏せた。「てか、ウチ、今シフト中だから。死ぬなら店外で死んでくんね?」
その横では、涼やかな瞳を鋭く尖らせたツンデレ指導員が、猛烈な勢いで伝票を捌いていた。 迷いのない指先が次々と仕事を片付けていく様は、まさに立て板に水。 彼女の放つ隙のない空気が、忙しない店内に一本の芯を通していた。
「ちょっと! アンタ、いつまでそこに突っ立ってるのよ。邪魔よ、どきなさい! ……ほら、これ、サービスなんだから。さっさと飲んで死ぬ気で働きなさいよね!」彼女は私の胸元に、青白く発光する謎の栄養ドリンクを無理やり押し付けると、耳まで赤くして隣のテーブルの乱闘騒ぎにドロップキックをかましに行った。
「あら、おかえりなさい。無事で何よりだわ」
そんな阿鼻叫喚の坩堝にあって、そこだけが重力の位相が異なるかのような、柔らかな陽光に照らされた一角があった。支配人である「頼れるお姉さん」だ。彼女は、酷い火傷を負った若手冒険者の傷口に、祈るような手つきで冷たい湿布を当てていた。その所作はどこまでも優雅で、彼女が醸し出す安らぎの香りが、周囲の血生臭さと、ギャル先生が振りまく安っぽい香水の匂いを穏やかに打ち消していく。
私は、隣でドワーフがこぼした胃液に近い何かを避け、彼女の正面に腰を下ろした。彼女は私に向かって、すべてを見透かすような、しかしどこまでも温かい微笑みを向けた。
「お疲れ様。まずはこれを飲んで? ……実はね、あなたに会いたいという方がいらしているの。とても切実な想いを抱えた、可憐な方が」
彼女が視線で示した「陰」の領域に、その女性は佇んでいた。「黄昏の未亡人」——エルゼ。彼女が立ち上がり、私の方へ歩み寄る。その刹那、宿屋の饐えた臭気が一変した。衣服が擦れる微かな、しかし私の鼓膜を直接愛撫するような絹の音。白すぎるうなじに後れ毛がゆらりと影を落とし、彼女が深く頭を下げた瞬間に零れた吐息は、雨上がりの百合のように重く、むせ返るような湿り気を帯びていた。
その喪服を思わせる黒いドレスは、彼女が息をつくたびに、熟れすぎた果実のように瑞々しい胸元の輪郭を露わにし、薄い布地の下で、しなやかな肢体がねっとりと脈打っている。彼女は気づいていない。自分が放つフェロモンが、暴力的なまでの質量を持って私の鼻腔を焼き、理性をドロドロの蜂蜜に変えてしまっていることに。
「……お願い、いたします。あの子が……ミーナが……」
ミーナ——彼女の五歳になる愛娘が、原因不明の高熱に浮かされているという。救う手立ては、ダンジョン「蟻の巣」の地下二層にのみ自生する、氷のような冷気を宿した薬草「水無草」。
「あー、ハイハイ。その草、マジで激レアだし。つーかお姉さん、色気ハンパなさすぎてウチの店、酸欠になるんだけど!」ギャル先生が背後からヤジを飛ばし、ツンデレ指導員が「ちょっと、不謹慎よ!」と彼女の脇腹に肘鉄を入れる。そんな喧騒をよそに、頼れるお姉さんは静かに頷いた。「あなた、お願い。この方を守ってあげて」
翌朝、私は「蟻の巣」の入り口にいた。傍らには、かつてこの階層の主であった「モフモフ」が、白銀の毛玉のような姿で丸まっている。そして隣には、場違いなほど美しいエルゼ。
一歩、踏み出す。大気は即座に密度を増し、重粘な湿気が肌にまとわりついた。ダンジョンの岩肌にこびりついた発光苔は、侵入者の体温を感知して燐光を強め、頭上の鍾乳石からは、蟻たちの分泌液が混じった酸性の水滴が、死のビートを刻んで滴り落ちる。
「あの……私、足手まといではないでしょうか」
段差の激しい岩場。エルゼが不安げに眉を寄せ、差し出した私の手に縋りつくようにして飛び降りる。 その拍子に、彼女の身体が勢い余って私の胸元へと滑り込んだ。「きゃっ!」という短い声と共に、旅装の隙間から漏れる彼女の熱量がダイレクトに伝わり、一瞬、洞窟の冷気が消え去ったかのような錯覚に陥る。
その瞬間、衝撃が走った。薄い布地を通して伝わる、驚くほど高い体温。激しく波打つ胸元の鼓動。彼女の首筋から立ち上る、熱を帯びたフェロモンが、ダンジョンの冷気を一気に加熱させる。彼女は「あら、ごめんなさい。つい……」と、天然な笑みを浮かべて離れたが、私の指先には、彼女の柔らかな肉の感触が呪いのように残っていた。
「ちょっとエルゼ、今のわざとでしょ! アンタも、鼻の下伸ばさないの!」 どこからともなくツンデレ指導員の幻聴が響くが、今は無視だ。
地下二層は、蟻たちが排泄した有機物が堆積し、独特の腐植土を作り上げている。やがて、目的の場所に辿り着いた。地上からの冷気が吹き下ろす岩棚に、氷細工のような透明な輝きを放つ「水無草」が、静かに自生していた。
エルゼが歓喜の声を上げ、膝をつく。彼女の指先が、その冷涼な葉に触れようとした、その時だった。大気が、爆ぜた。
岩壁を粉砕して現れたのは、本来この階層には存在し得ない、異形の捕食者——「ジャイアントワーム」だった。体長十メートルを超えるその巨躯は、腐食性の粘液で濡れ光り、無数の環節が蠢くたびに、大気が腐敗した鉄の臭いに染まる。ワームは、エルゼが放つ「生命の芳香」に狂い、獲物を求めて突進してくる。
「モフモフ、いけ!」
私は叫び、剣を抜いた。モフモフが弾丸のように飛び出し、ワームの節々に食らいつく。しかし、ワームの反撃は凄まじい。腐食液が周囲を焼き、地響きが理性を揺さぶる。
「きゃっ!」 エルゼが悲鳴を上げ、鋭い岩肌に足を取られて転倒する。その拍子に、彼女の動きを支えていた使い込まれた革のキュロットが鋭利な突起に引っかかり、無残に裂けた。 頑強な装備の隙間から、眩しいほどに白い太腿が露わになる。恐怖に震え、微かに赤みを帯びたその肌は、冷たい地下迷宮の中で皮肉なほどに官能的な輝きを放ち、私の闘争本能と保護欲を極限まで引き上げた。
「……何見てんのよ、変態! さっさと助けなさいよ!」 再びツンデレ指導員の(以下略)。
私は吼えた。エルゼを背にかばい、盾でワームの粘液を弾き飛ばす。ワームの環節の隙間、神経系が露出したわずかな「陰」を見極める。
「これで、終わりだ!」
モフモフがワームの動きを止めた一瞬、私は地を蹴った。鋭い一撃が、醜悪な頭部直下の核を貫く。断末魔の振動と共に、巨躯が沈み込み、ダンジョンに再び静寂が戻った。
数日後の「深淵亭」。
ミーナの熱は、水無草によって劇的に引いた。エルゼは宿を訪れ、私の前に立った。彼女の頬は、以前のような絶望の青白さではなく、少女のような淡い桃色に染まっている。
「本当に、ありがとうございました。あなたがいなければ、私は……」
彼女は言葉を切ると、私の手をそっと握りしめた。その掌は小さく、しかし確かな情熱を宿していた。
「今度……お店にも、顔を見せてくださいね。私……待っています。……あなたに、食べてほしいものが、まだたくさんありますから。」
彼女の瞳の中に灯った火は、もはや「依頼者」のものではなかった。
「あー、もう! 完全にデキてんじゃん! エルゼさん、ウチにもお菓子持ってきてよねーっ!」
ギャル先生の無責任な茶化し声に、 「……っ、うるさいわよ! さっさと持ち場に戻るわよっ!」
という、ツンデレ指導員の必死に怒鳴る声が重なる。 その直後、「きゃっ! 何すんのよー!」という派手な悲鳴と共に、二人の気配はもつれ合うようにして扉の向こうへと消えていった。
そんな喧騒の真ん中で、頼れるお姉さんは慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。「よかったわね、あなた。また一つ、守るべきものが増えたようね」
私は、ハーブティーの温かさを感じながら、エルゼの柔らかな指の感触を思い出していた。不条理で、滑稽で、それでいてたまらなく愛おしいこの深淵亭での日々は、これからも続いていく。ハッピーエンドの、その先へと。
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