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『河童夫人と伝説のきゅうり』

この世には、不思議なことなど何もないのだ――。

そう自分に言い聞かせねば、正気を保てぬような、湿った午後のことだった。川のせせらぎが、ある種の周波数を持って私の脳髄を掻き乱す。私は、釣竿という名の細い媒介を手に、境界(きわ)に立っていた。川と陸、日常と非日常。その「はざま」にあるのは、官能などという生温い言葉では言い表せぬ、粘りつくような生の横溢である。

私は、ただそこに立っている。 手にした銀鱗の魚が、空気を求めて必死に口をパクつかせる。その無意味な反復運動は、まるで言葉を持たぬ者が必死に愛を叫んでいるようでもあり、あるいは、己の存在そのものを呪っているようでもある。私は、その絶望的なまでの滑稽さに、言いようのない寒気を覚えた。

私の視線の先、泥に塗れた川縁に、それはあった。 無骨な鉄の罠。それは、この世の因果を象徴する檻だ。その暗い格子の隙間で、緑色の矮躯(わいく)が震えていた。

河童の子供であった。

濡れた皿は、夜の沼地のように光を吸い込み、その短い指先は、実存を求めて虚空を掻いている。私は、そのあまりに非合理な存在に、奇妙な執念を感じた。この檻を開けることは、単なる慈悲ではない。世界の歪みを、ほんの少しだけ押し戻す行為なのだ。 鍵を抉じ開ける私の手つきは、あたかも呪縛を解く秘儀の如く。解放された緑の生命は、一瞥の感謝すら残さず、暗い水底へと、溶けるように消えていった。


数日後。私が逗留する宿の木戸が、まるでこの世の終わりのような軋みを上げて開いた。 そこに立っていたのは、一人の女。

紺碧の着物に身を包んだその夫人は、まるで千年の雨を吸い込んだ古寺の壁のように、重たく、そして妖しい湿り気を帯びて立っていた。深々と被った頭巾の端からは、隠しきれない異様な気配が、立ち込める霧のように私の足元を這い寄る。彼女が背負った籠の中には、瑞々しく、そして暴力的なまでに反り返った胡瓜たちが、互いの肌を擦り合わせるようにして、ぎっしりと詰め込まれていた。

その胡瓜。表面に逆立つ細かな棘は、触れれば私の指先を抉り、黒光りする緑の肢体は、籠の中でいまにも弾けんばかりの生命力を誇示している。

「……先日、あの子……川太郎を助けていただいたのは、あなた様ですね?」

夫人が頭巾を脱ぎ捨てた瞬間、私は目眩を覚えた。 その額の上には、月光を溜めた不浄な杯のごとき「皿」が鎮座し、そこから溢れる水が、彼女の白いうなじを、ねっとりと、そして執拗な軌跡を描きながら滑り落ちていく。

「私、川太郎の母でございます。お礼に、これを……」

取り出されたのは、伝説の逸品『きうり大王』。 それはもはや野菜という概念を超越し、大地が産み落とした、あまりに不埒な、熱い脈動を秘めた具現化された欲望そのものだった。

「あら、なんて立派な……! こんなの、私、初めて……っ!」

宿の支配人である『頼れるお姉さん』が、顔を紅潮させて割って入る。

「さあ、みんな! この反り立つ大地の恵みを、その舌で存分に味わいなさい!」

宴は、突如として鮮やかな狂乱へと転がり落ちた。

「さあさあ、遠慮はいらないわよ! この大地の恵みを、余さずその身に刻みなさい!」

宿の支配人である『頼れるお姉さん』が、豪快に包丁を振るい、瑞々しい『きうり大王』を次々と鮮やかな薄切りにしていく。その手捌きは、もはや調理というよりは舞に近く、弾ける果汁が彼女の火照った頬を濡らしていた。

その傍らでは、『ギャル先生』が楽しげに声を弾ませる。 「ヤバい、この瑞々しさマジで神! 特製の辛味噌ソース、たっぷりいっちゃって! 脳に直接『生』が来るから!」 彼女が差し出す小皿の上で、緑の肢体と真っ赤な醤(ひしお)が、抗いがたいコントラストを描いて客たちを誘惑する。

さらには、普段は厳格な『ツンデレ指導員』までもが、耳元を赤く染めながら、自ら擦り下ろしたばかりの岩塩を胡瓜に振りかけて回っていた。 「べ、別にアンタたちのために用意したわけじゃないんだから。ただ、この素材にはこの塩加減が最適解だって、理屈で分かってるだけよ。さっさと食べなさい、鮮度が落ちるわ!」

客たちは、彼女たちの差し出す「緑の誘惑」に理性を焼き切られ、我先にとその肉を貪った。 歯を立てるたびに響く、あの暴力的なまでの「パリッ」という破砕音。口腔内に溢れ出す、冷涼にして峻烈な大地の精髄。それはもはや、単なる「食事」という概念を超越していた。

「……なんてことだ」

私は、その喧騒の渦中で立ち尽くしていた。 お姉さんの包丁が刻むリズム、ギャル先生の弾ける笑い声、そして指導員の硬い指先が胡瓜に触れるその瞬間。それらすべてが、素材の持つ魔力と共鳴し、宿全体を巨大な一つの「生命体」へと変質させていく。

私は、差し出された一本の胡瓜を手に取った。 掌に伝わる、生命力に満ちたトゲの刺激。それは、これから始まる物語の、あるいは終わりの始まりを告げる、静かな、しかし確かな鼓動であった。

一方、その阿鼻叫喚の胡瓜宴会のただ中で、私は、一人の男としての「形(なり)」を保つのが、やっとの思いであった。

私の眼前に広がるのは、もはや食卓の風景ではない。それは、緑の官能が形を成した、おぞましくも甘美な奈落であった。 河童夫人が『きうり大王』をその白くしなやかな指先で弄ぶたび、私の胸のうちは、まるで熟れすぎた果実のように、じっとりと嫌な汗をかきはじめる。

素材の生命を極限まで引き出す、そのあまりに直截な「喰らい方」。本来、美食とは精神の洗練であるはずだが、私は見た。彼女の白い歯先が胡瓜の皮を裂き、瑞々しい液体が滲み出した瞬間、私の喉もまた、彼女の動きに同期するかのように、ゴクリと卑俗な音を立てて鳴ったのである。

「……ああ」

私は、思わず溜息を漏らした。 彼女の舌が、滴る液を一滴も零すまいと、ねっとりと、そして執拗に胡瓜の肉を這い回る。そのたびに、私の脳髄を支配していた理屈という名の回路が、パチパチと音を立ててショートしていく。

パリ、ザク、パリ、ザク――。

骨の髄まで響くその咀嚼音は、もはや私の耳朶を打つ音響ではなく、私の脊髄を直接愛撫する、暴力的なまでの愛欲の調べだ。 彼女の頬が紅潮し、口の端から透明な汁が、あの紺碧の着物の合わせ目――その、暗く深い淵へと吸い込まれていく様を見て、私は、自分の指先が、どうしようもなく震えていることに気づいた。

「いけない。これは……いけないことだ」

私は、手元に残された味噌を、まるで救いを求める経典のように見つめた。しかし、そこから漂う大地の香りでさえ、今の夫人が放つ、川の藻と胡瓜の果汁が混ざり合った、あの人を狂わせる濃厚な「雌の匂い」に、無惨にも掻き消されてしまう。

私の自意識という名の強固な城壁は、夫人の「ん……」という吐息一つで、泥沼のように崩れ落ちていく。 私は、観測者であることを放棄した。あるいは、放棄させられたのだ。 この、あまりに美しく、あまりに淫らな「食」の儀式を前にして、私の論理は、完膚なきまでに敗北を認めるしかなかったのである。

私はただ、朦朧とした意識の中で、彼女が最後の一片を嚥下するその瞬間を、呪われた者のように凝視し続けていた。

だが、その狂宴の影、濁った瞳で見つめる男がいた。河童を捕らえては売り飛ばす、ハンター一味の配下――その「業」に焼かれた男であった。


「川太郎! 川太郎はどこなの!?」

夫人の悲鳴が、黄昏の静寂を切り裂いた。 川に戻った彼女を待っていたのは、無残に踏み荒らされた形跡だけだった。近くの岩にいた川魚が、エラをパクつかせて毒づく。

『おい、さっき、いかにも因果応報を知らぬ面構えの連中が、ガキを網で掬って行きやがったぜ。最近、町の外れに、あたかも悪意の集積体のように出現した「見世物小屋」の連中だ。やだやだ、肺で空気を汚す輩はこれだからいけねえ』

その言葉が夫人の鼓膜を打った瞬間、彼女の膝から力が抜け、泥濘(でいねい)の中にその艶やかな肢体が崩れ落ちた。

「ああ……ああ、なんてこと……」

夫人は、喉の奥から絞り出すような声で咽び泣いた。その泣き声は、湿った夜の森で迷い子が立てる喘ぎのように、聞く者の脳髄を掻き乱す。彼女の皿から溢れるのは、もはや清らかな水ではない。それは後悔と恐怖に濁った、熱い情念の雫だった。その雫が、彼女の青白い頬を伝い、胸元を濡らし、着物の紺碧をさらに深く、重たく染めていく。 彼女は狂ったように地面を掻いた。指先に食い込む冷たい泥さえも、奪われた我が子の温もりの代わりにはならぬ。乱れた衣の隙間から覗く肌は、恐怖に粟立ちながらも、どこか執拗なまでの生命の脈動を伝えていた。

「あのひと……あの、お方なら……」

彼女は縋るような思いで立ち上がった。濡れた着物が、その豊かな曲線を容赦なく浮き彫りにし、走るたびに重たく足に絡みつく。彼女は、もはや人目を憚る余裕もなく、夜の闇を裂いて宿へと走り出した。


一方、その頃。 私は宿の縁側で、独り、井戸水で極限まで冷やし抜かれた「きうり大王」と対峙していた。 傍らの小皿には、この地の蔵で数年眠らせたであろう、滋味溢れる古味噌が盛られている。私はその胡瓜の、天真爛漫なまでに傲岸不遜な緑の肢体に、容赦なく味噌を塗りつけた。

奥歯で噛み砕くと、夜の静寂を切り裂くような、瑞々しくも鋭利な破砕音が鼓膜を震わせる。 刹那、溢れ出す冷涼な水分が口腔内を支配し、同時に味噌の濃密な塩気が舌の突起を一本残らず突き刺す。およそ、美食とは素材の生命を盗む行為に他ならない。この凄まじい繊維質の抵抗こそが、偽らざる自然の真理であり、客観的な実体というものだろう。あるいは、私が今感じているこの峻烈な快楽こそが、脳髄が編み上げた一時の幻想に過ぎないのか。私はこの因果の連鎖に組み込まれた単なる観測者なのか、あるいはこの至高の生命力を無自覚に貪り喰らう、選ばれし加害者なのか。その境界は、今や胡瓜の皮を剥ぐように、いとも容易く剥離しようとしていた。

そんな、形而上の迷宮と咀嚼の快楽の間に彷徨(さまよ)っていた時だ。夜の静寂を暴力的に切り裂いて、宿の重い門が激しく叩かれた。

「冒険者様! お願い、助けて……助けてくださいまし!」

現れたのは、先ほどまでのたおやかな面影を泥濘(でいねい)に捨て去った、乱れに乱れた夫人の姿だった。深々と被っていたはずの頭巾はどこかへ失せ、結い上げた髪は解けて、夜露に濡れた黒い糸のようにその白い背にまとわりついている。

彼女は、私の足元に転がり込むようにして、私のトラウザーズの裾をその細く、震える指先で掴んだ。

夫人の激しい吐息が、私の膝の布地を通して、熱く、そして重たく皮膚を濡らしていく。その震える肩。泥に汚れ、しかし月光の下で真珠のような光沢を放つ白い首筋。そこからは、清冽な川の藻の匂いと、激情に煮詰められた涙の匂いとが混ざり合った、抗いがたいほどに濃厚な芳香が立ち昇っていた。

その芳香は、私の脳髄を支配していた『きうり大王』の峻烈な余韻を、容赦なく塗り潰していく。 私は、彼女の肩に手を置いた。指先に触れる着物の絹は、吸い込んだ水の重みで私の指に吸い付き、その下にある、生々しく波打つ肉体の鼓動をじかに伝えてくる。冷たいはずの河童の肌が、今は我が子を想う熱情で、私の掌を焼き焦がさんばかりに昂ぶっている。

「あの子が……川太郎が、見世物小屋の連中に……っ」

彼女が顔を上げた瞬間、その瞳に溜まった大粒の雫が、私の甲へと零れ落ちた。それは水というよりは、彼女の命を凝縮した粘り気のある蜜のようで、私の構築した空疎な論理――「この世は理(ことわり)で割り切れる」という傲慢な確信を、根底から腐食させ、揺さぶった。

私は、彼女の細い肩を静かに、しかし折れんばかりに強く掴み返した。 指先に伝わる彼女の震え。それは絶望という名の振動であり、同時に私を深淵へと誘う、抗えぬ情念の触手でもあった。

「行くぞ」

それだけを言い残すと、私は身を翻した。 傍らで丸まっていた『モフモフ』は、私の殺気を敏感に察し、言葉もなく、ただ一塊の闇となって私の背後に従った。

私は、しがみつく夫人の手を静かに解き、宿の支配人である『頼れるお姉さん』へと彼女を託した。私の指先には、まだ彼女の肌の熱と、川の藻の湿り気が、執拗なまでにこびり付いていた。

私は、夜の帳が降りた街道へと、弾かれたように駆け出したのである。


見世物小屋のテント内部は、吐き気を催すような安っぽい香水の匂いと、獣の排泄物、そして観客たちの剥き出しの卑俗な好奇心が混ざり合い、酸欠になりそうなほど澱んでいた。

そこは、日常の理(ことわり)から弾き出された「異形」たちのゴミ捨て場だった。 錆びついた檻の中には、鱗に覆われた手足を持つ、人とも魚ともつかぬ「人魚の成れの果て」が、乾ききった皮膚を惨めに晒している。隣の檻では、二つの頭を持った「双頭の山犬」が、互いの喉を噛み合おうと虚しく争い、奥の暗がりからは、毛のない猿のような姿をした「夜なき」が、言葉にならぬ湿った悲鳴を漏らしていた。それら「境界の生き物」たちは、自由を奪われ、ただ観客の嘲笑を買うためだけの記号としてそこに押し込められていたのだ。

私は、正面の幕を無造作に、しかし力任せに引き裂いた。

「どけ。……川太郎はどこだ」

立ち塞がった子分たちの面構えを一瞥する。そこには、他者の痛みを娯楽に換える、救いようのない鈍磨が張り付いていた。 私は、右手に握りしめていた『きうり大王』の残骸を、言葉よりも早く先頭の男の鼻柱に叩きつけた。

「がはっ……!」

男が顔面を抑えて崩れ落ちる。私はその呻きを跨ぎ越し、冷徹な一歩を踏み出した。

「二度は言わない。あの子を返せ」

私の声は、自分でも驚くほど低く、そして乾いていた。傍らで毛を逆立てた『モフモフ』が、低く唸りながら影のように走り、錆びついた檻の錠前を次々と噛み砕いていく。解放された生き物たちが、抑圧から解き放たれ、狂乱の怒号を上げてテント内を駆け抜けた。

阿鼻叫喚の図だ。 観客たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、天幕を支える支柱が、均衡を失って不気味に軋む。

だが、檻の中にも、逃げ惑う群衆の中にも、肝心の川太郎の姿はない。 私は逃げ遅れた子分の一人の襟首を掴み上げ、逃げ場のない至近距離でその目を射抜いた。

「ボスはどこへ行った。言わねば、次はこの胡瓜のトゲでお前の眼球を抉り出す」

「ひ、ひいいっ……! う、裏だ、裏口から鏡ヶ池へ……! あ、あの子を都へ運ぶ船が、もうそこまで来てるはずだ……!」

私は男を汚物のように突き飛ばし、裏口の幕を切り裂いて外へ躍り出た。 外には、鏡のような静寂を湛えた池へと続く、一条の泥道が伸びている。そこには、幼い子供を強引に引き摺った轍と、川太郎の皿から零れ落ちたであろう、わずかな水の跡が、月光に照らされて妖しく光っていた。

「逃がさんぞ」

私は短く呟くと、夜の静寂を切り裂き、深淵たる鏡ヶ池の畔へと向かって地を蹴った。


月明かりの下、池のほとり。 ボスは荒い息をつきながら、川太郎を地面に投げ出した。

「ふう……ここまで来れば安心だ。あとは迎えの船を待つだけ……」

だが、ボスの背後で、水面が「ヌチャ……」と、不自然なほど湿度を帯びた音を立てて波打った。

「あら……こんなところで、何をなさっているの?」

声の主は、河童夫人であった。

月光を浴びた彼女の肌は、もはや生物のそれではなく、夢の深淵でしか出会えない幻惑的な質感を湛えていた。

水底から立ち上がったばかりの肢体は、薄絹よりもなお滑らかな水膜を全身に纏い、それが彼女の起伏に富んだ輪郭を、より露骨に、より背徳的に強調している。滴り落ちる雫の一滴一滴が、彼女の豊かな胸元や、引き締まった腰のくびれを愛撫するように滑り落ち、月光を弾いては真珠のような光沢を放っていた。

その肌は、冷たいはずの水に浸かっていたとは思えぬほど、内側から昂ぶった熱を帯びて、仄かな桜色に上気している。そこからは、清冽な川の藻の匂いに、熟れきった果実が放つような甘く重い吐息が混ざり合い、この世のものとは思えぬ濃厚な芳香が立ち昇っていた。

彼女が細く白い指先を、震えるボスへと向けた瞬間だ。

池から立ち上る霧は、彼女の情念を具現化したかのように重く、そして狂おしいほど甘い湿り気を伴って、男の喉元へと絡みついた。それは目に見える気体というよりは、意思を持った「濡れた皮膚」そのもののようで、男の呼気を奪い、その肺腑を、逃れられぬ情愛の冷たさで満たしていく。

「……お返しなさいな。その子は、私の命。私の血を分けた、愛しい一部なのですから」

夫人の声は、夜霧に溶ける鐘の音のように低く、それでいて聴く者の背筋を濡れた舌で這い回るような、抗いがたい響きを持っていた。彼女が一歩、水面から岸辺へと歩みを進めるたびに、濡れた足首が泥を捉え、そのたびに「ピチャ……」という、心臓を直接握りしめるような湿った音が響く。

彼女の、氷のように冷たくも、芯に焔を宿した指先が、男の頬をゆっくりとなぞる。 その瞬間、ボスの顔からは生気が失われ、代わりに底知れぬ恍惚と絶望が綯い交ぜになった、歪な表情が浮かび上がった。

「く、来るな……化け物め、近寄るんじゃねえ!」

彼は呪文のように喚きながら、鈍い銀光を放つ短刀を、夫人の露わな胸元へと突き出した。しかし、その必死の抗いも、彼女の放つ圧倒的な「雌」としての魔力の前では、あまりに無力で、滑稽なまでに空虚な足掻きに過ぎなかった。

夫人の、氷のように冷たくも、芯に焔を宿した指先が、突きつけられた短刀の冷徹な刃を、まるで愛しい恋人の指でもなぞるかのように、ゆっくりと、ねっとりと滑らせた。

「ふふ……そんなに鋭いものを見せびらかして、私をどうなさるおつもり?」

彼女の唇から漏れる吐息は、短刀の鋼を曇らせ、同時に男の正気を確実に蝕んでいく。ボスの腕は、もはや彼女の瞳に見つめられているだけで、糸の切れた人形のように力なく垂れ下がった。短刀は、抗う意思を失った鉄の塊へと成り果て、泥の中に虚しく没したのである。

男の瞳は、恐怖と同時に、彼女の剥き出しの肢体が放つ異形の香りに射抜かれ、もはや逃げ出す術さえ忘れてしまった。

「さあ……暗くて、冷たくて、とっても心地よいところへ……一緒に行きましょう?」

夫人の細い腕が、ボスの首筋に、まるで吸い付くようにしなやかに回された。 その白い指が男の髪を、まるで恋人を慈しむように梳くたびに、夜の空気はさらに密度を増し、すべての理(ことわり)が水底の情念へと書き換えられていったのである。

ボスの断末魔は、幾つかの頼りない水泡となって、鏡のような水面の下へと消えた。 私が現場に到着したとき、そこには主を失った泥濘(でいねい)の中、ただ独り、取り残された川太郎だけが、呆然と座り込んでいた。

「……あ」

その時、静まり返った水面から再び、あの美しき河童夫人が「パカッ」と、耳元をくすぐるような軽快な音とともに姿を現した。

「あら、冒険者様。お待たせいたしましたわ」

夫人は先ほどまでの異形の凄みなど、まるで初めからなかったかのように、しなやかな身のこなしで陸へ上がった。彼女は泥に汚れた我が子を見つけると、惜しげもなくその豊かな胸の中に、川太郎を深く抱き寄せた。

月光が、濡れた彼女の肌と、安堵に震える子供の背中を、祝福するように白く照らし出す。その光景は、もはやおぞましい異形の姿などではなかった。

それは、遥か古の絵師が、現世(うつしよ)の理を捨て、ただ一筋の慈愛を描き止めるために震える筆を置いた、禁断の救済図のようであった。

水底の暗闇から這い上がってきたばかりの「母」という名の神性が、そこにはあった。彼女が子供を抱きしめるたびに、濡れた肢体からは、夜の深淵さえも蕩かすような、甘く、そして哀しいほどに純粋な光が放たれていたのである。

私は、手元に残っていた『きうり大王』の最後の一片を、静かに噛み砕いた。 パリッ……という乾いた音が、この非現実的な静寂を、現世へと引き戻す唯一の楔(くさび)であった。

「……終わったか」

私は、傍らで同じように事の顛末を見届けていた『モフモフ』の頭を、一度だけ強く撫でた。 夜の帳(とばり)の向こう側で、世界の均衡は、再び歪な形で閉じようとしていた。


後日。 私は再び、いつもの宿の縁側に腰を下ろしていた。 手元には、もはや私の一部となったかのような『きうり大王』と、あの香ばしい秘伝の味噌が置かれている。

私は、一切れの胡瓜にたっぷりと味噌を塗りつけた。 陽光に透ける緑の肉は、大地の生々しい色香を放ち、そこに重厚な褐色の味噌がのることで、抗いがたい美しき対立(コントラスト)を描き出している。それを口へと運べば、パリッという破砕音とともに、冷涼な果汁が爆発し、味噌の塩気と渾然一体となって私の喉を潤していく。

「冒険者様、本当にありがとうございました」

ふいに届いた声に顔を上げると、そこには河童夫人が佇んでいた。今度は、以前よりもさらに巨大な籠を、そのしなやかな背に負っている。

「これは、ほんの気持ちですわ」

ドサッ、と置かれた籠の中には、前回を凌駕する極太の『きうり大王』が、まるで名もなき山脈のように折り重なっていた。

「……こんなにたくさん、どうしろと言うんだ。私に、胡瓜屋でも開けって言うのか?」

私が、胡瓜を噛み砕きながら自嘲気味に呟いた時だ。 夫人が音もなく私の傍らへ歩み寄り、私の耳元に顔を寄せた。 首筋に触れる彼女の熱い吐息は、甘美な余韻を残しつつも、どこか悪戯っぽい温かさを帯びている。

「食べきれなかったら……他の使い道も、あるかもしれませんわね」

夫人はそう言って、少女のような茶目っ気のある微笑みを浮かべると、川太郎の小さな手を引いて、光溢れる宿の奥へと戻っていった。

私は、籠の中に山積みになった『きうり大王』を改めて眺めた。 表面の鋭い棘は、大地の生命力が爆発したかのように力強く、掌に心地よい刺激を伝えてくる。

「……さて。今夜は、宿のみんなで胡瓜パーティーだな」

私は、空の青さを反射するような瑞々しい一本を、空高く掲げた。 夫人の微笑み、川太郎の元気な姿、そしてこの最高の素材。 私の胃袋も、そして少しばかり情緒不安定だった心も、今は驚くほど清々しく満たされている。

「おーい、味噌のおかわりを持ってきてくれ! 宴の始まりだ!」

私は、縁側から抜けるような青空に向かって声を上げた。 次の冒険のことは、この山のような胡瓜を平らげてから考えればいい。

私は、再びその瑞々しい緑の肉を思い切りよく頬張り、最高に爽快な破砕音を、初夏の風の中へと響かせるのであった。



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