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本来無東西(仏教+ニーチェ)何処有南北


 「悪」とは何か?

---禅は、慎んで善をなすことなかれと教える---


I 善悪の源泉としての「自分」


 善悪の問題は、主として道徳の問題ですが、これにいっそう深い考察を加えたのは宗教で、悪の問題を論ずるからには、宗教の立場から考えるのが、より適切だと思います。キリスト教は「原罪」の教えを説き、救世主は「罪をあがなう者」として論じられています。私は東洋人として、やはり仏教的な考え方をすることによって、悪に対する独自の考えを西洋に対して示してみたいと思います。
 キリスト教の考えとして、私にとって忘れられないものは、十四世紀頃の、今では名前が失われてしまった著者によって書かれた『テオロギア・ゲルマニカ〔Theologia Germanica(ドイツ神学)〕』です。この小さな本は、聖書や聖アウグスティヌスの本以外では、最も深くルターに影響を与えた本だと言われています。その中で、アダムとイヴが禁断の木の実を食べて楽園から追われる物語を述べたあと、もし二人が禁断の木の実を食べたとしても、それを「自分のもの」として食べなかったら、おそらく楽園を追われなかっただろう、しかしながらもし「自分のもの」と考えたなら、「食べなくても追われただろう」というのです。つまり、「食べる」「食べない」に問題があるのではなく、「自分のもの」という考えの有無が問題なのだというのです。「悪」と一言で言いますが、このドイツ神学の記述は、一切の悪の源泉は「自分」に帰着するということを教えています。
 
 この考えは仏教の教えとも通じています。しかし仏教はもう一つ逆に、善悪を「二つ」に分けること、そのこと自体に根本的な「つまずき」がある、と説いています。つまり、東西とか、上下とか、善悪、美醜などと区別しますが、そんな区別されたものに実在性はない、と言うのです。仏教ではこれを「自性(じしょう)」がないと言います。例えば「東西」という言い方をしますが、特定の場所それ自体に、どうあっても東とか西とかいう性質が存在するのではありません。仙台から見れば、東京は「西」ですし、名古屋から見れば「東」だということに過ぎません。「東京」という名は関西の人から見た名で、東北人だったら同じ東京を「西京」と呼ぶでしょう。東京自身に東西の性質はなく、これを見る立場で、東とも西とも、南とも北とも、上とも下とも言えるわけです。だから仏教では、
 
 本来無東西(本来東西なく)
 何処有南北(何処(いずこ)に南北あらんや)

と言います。「善悪」についても同じです。

 ジョルダーノ・ブルーノ〔Giordano Bruno (1548-1600)地動説を含む現代的宇宙論を展開した〕は極悪人として火刑に処されました。数百年後の現代では、彼は近代思想の偉大な先覚者として同じ処刑されたその場所で、盛大な祭典が催されています。善悪の基準は、時と共に推移します。「絶対悪」などというものは存在しません。

II 「空」と二元論の超克


 儒教では「性善説」と「性悪説」が論じあっていますが、仏教にはそういう考え方はありません。これは「縁起説」とも関係があり、人間が「善人」になり、また「悪人」にもなるということは、いろいろな「縁の重なり」にすぎないのです。「善悪にも独立した自性はなく、また人間そのものの本性にも、善悪という自性がないことを、仏教は明らかにします。だから悪人といえども縁によってまた善をなすし、聖者といえども縁によって悪をなす事があり得るのです。ちょうど成績が一番の人は、二番三番に下る蓋然性があるし、最下位の成績の人は、最も上にあがる蓋然性を持っています。それと同じです。だから聖人といえども油断は出来ないし、悪人といえども悲観する必要はありません。「縁」が誘引すればいずれにも転じるからです。
 それゆえ、ここでキリスト教と仏教との対比として面白いことは、キリスト教の神は「審判者」で、悪人は永久に悪人で地獄に落ちっ放しですが、仏教の方は、仏は「審判者」ではなく、「慈悲」の本体で、悪人が地獄に落ちるのは、当然その罪に応じた呵責(かしゃく)を受けるためで、これを「因果応報」と言いますが、実はそれはかえって浄土に成仏するための準備で、またそのための「呵責」なのです。 

 ローマのバチカンのシスティナ礼拝堂の壁画に、有名なミケランジェロの『最後の審判』の図があります。中央に立つキリストは、すさまじい力で悪人を地獄の底に叩きつけている姿勢です。彼はまさに「審判」しつつあります。
 ところが、仏教の方の「閻魔大王」は怖しい形相をしてはいますが、実は慈悲の大王たる事に変りはないのです。ただ、悪人たちの罪の軽重の「計量者」であって、「処罰者」ではありません。大王の傍には罪を計る秤(はかり)と、罪を映す鏡がありますが、それは罪の軽重を計量するだけであって、仏教の「地獄図」を見ると分る通り、いつも呵責のすんだ悪人たちを迎えるために「地蔵菩薩」を派遣することを忘れていないのです。ゆえに悪人にもいつかは浄土に行く希望があります。
 ところがキリスト教では、永劫の罰が与えられます。悪人はどうあっても天国には行けない仕組です。もちろんキリスト教にも愛や赦しの思想はありますが、それでもなお「審判」の観念が根底にある点で、仏教とは趣を異にしているように思われます。

 キリスト教は、人間はもとから罪をもって生れてきていると言いますが、仏教は「罪浄」は因縁で、本来はそんな二元性はないと説きます。「本来清浄(しょうじょう)」という言葉がありますが、この「清浄」は、「穢悪(わいお)」に対する「清浄」という意味ではありません。つまり「善悪二元」を立てるその事にそもそも誤謬があると考えるのです。だから「本来無一物」(むいちもつ:何も持っていないこと)です。
 これは仏教の「空」観によるものですが、「空」という字は大変に誤解を招きやすい。ただ何もない虚無ということではなく、「色即是空」は必ず「空即是色」という言葉と共に考えられています。ここがむずかしい点でもあるのですが、「色即是空」の「色(しき)」はこの場合、一切の物質や現象のことで、色彩のことでもなく、また女色などの事でもありません。一切の事物現象を指す言葉です。そのようなものには独立した自性がなく、ただ縁に従って興亡するものにすぎませんから、実体がなく「空」だというのです。
 これに対し「空即是色」というのがなかなか分りにくい。しかし例えを用いれば分りやすいかもしれません。善悪のみならず、一切の相対的な考えが人為的であるのは、前に引いた「東西」の例でも分る通りで、強いて「東西」を分けるのは、色眼鏡で見ているようなもので、色(いろ)を初めから人為的に用いています。その色を消して、素通しの眼鏡にすれば、どんな色もそのままに写る「色を空じてこそ、色に即する」。人間の眼球は色づいてはいません。だから一切の色をそのままに受取ることができます。色づいていたら、その色以外の色は受取れません。例えば、絵を描くにしても、色のない白紙に描くではありませんか。白、すなわち「色が空じられている」からこそ、その上に一切の色や線を受取ることが出来るのです。「空だからこそ色によく即する〔空即是色〕」。
 この「空」のことを「清浄(しょうじょう)」とも言います。「清浄」とは、二元論という人為的色眼鏡をはずした所を指していう仮りの言葉です。一切の言葉は、「仮り」のものにすぎません。「虚仮(こけ)」です。だから本当の真理は「言詮不及(ごんせんふぎゅう)」「絶言絶慮」です。それゆえ「不立文字(ふりゅうもんじ)とも禅では言うのです。
 このように「真理」は、「言語」や「理性」(慮)を超越するという考えから、禅は「東洋的神秘主義」と見られています。「西洋神秘主義」の基本的特質も同様です。例えば、禅とよく比較される、中世ドイツ神秘主義の代表的思想家マイスター・エックハルト〔Meister Eckhart (1260-1328)〕を参照してください。このような「二項対立」への根本的な疑いは、また、現代哲学における「脱構築」の思想にも通底するものがあります。

 III 渋柿が甘柿に転じる時

 「縁」によって生じる色界〔現象界〕には起伏があり興亡があります。春になり夏になると縁に従って葉が出、花が咲きます。しかし秋になり冬になると、また縁に従って散り去るのです。しかし葉も花も一切なくなればこそ、また春になって芽生えて蕾をもつ。「茶」が入っていない「空」の茶盌(ちゃわん)こそ、一番多く「茶」を受入れる。
 ですが大いに注意すべきことは「」を「」に対立させて、何か独在し、別在するもののように考えては、「空」の考えはつかめません。そんなものが独立に自律するのではないのです。「実」とは別に「空」があるのではありません。ちょうど夜に光がさすと、夜の世界がそのまま昼となるようなもので、夜を「否定」したのが昼ではない。つまり、悪の否定が善ではないのです。柿の渋を棄てるのが甘柿ではなく、渋がそのまま熟して甘柿になるのです渋さ〔悪〕こそ甘さ〔善〕に転じる。だから渋さ甘さ〔善悪〕を二元に分けてはいけない二元に分けることを仏教では「執着」と言います。悪人でも光がさせばそのままで善人に転じる。善悪を二別するその事がいけないのは、その一つを選び、他の一つをしりぞけることになるからです。本来自性しないそんなものを取捨することに、自分を煩わすのは、妄想に悩むのと等しい。「莫妄想(まくもうそう)」と言いますが、むやみに幻影を描いて、それに苦しむのは愚かではないでしょうか。だから「空」だと言っても、「空」に執着するなら、こんな馬鹿気たことはない。それは「実」に執着するのと別に変りはない。
 大慧(だいえ)〔中国宋代臨済宗の僧〕は「希(ねが)わくば諸々の実を空じ、慎(つつし)んでその空をも実とするなかれ」と言いました。そうして「この両句さえ判れば参学の事はおわる」とまで言ったのです。
 柿の変化、夜明けの変化において明らかなように、これは「弁証法」的変化とは根本的に相異しています。

 『臨済録』に「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し」などというはげしい言葉がありますが、その真意は、「仏という概念を立ててそれに執着するなら、仏を失う事だ」と警告しているのです。禅は禅宗という言葉を本来は好みません。なぜなら禅に執着すればたちまち禅を去ることになるからです。禅宗では所依(ゆえん)の経典さえ持ちません。これは大いに意味があることだと思います。「以心伝心」を旨とするのは当然です。
 さて、悪に対して、仏法は二つの道からこれを追求しました。一つは「智」の道から、一つは「慈」の道から。前者は、禅宗が一番これをよく代表し、後者は、浄土真宗がそれをくっきりと代表しています。

 「悪」という言葉や、その内容を「二」という言葉に換えてもよいと思います。二とは、ものを二つに分け、しかもそのいずれかに執着することです。それ故この「分別の二」、「二項対立」自身に欠陥を見るのです。そうしてこの分別の根は「私」ですつまり「自他」の二を分けるそのことです善悪とか美醜とか上下とか、ものを二つに分ければ、すぐこの間に争いが起こります。この葛藤に一切の苦厄の根があります。そうしてこの葛藤のうち一番根元にあるのは、「自他」の別であり、苦悩として一番迫るのは「生死」の対立です。ですから、「自他の二」、「生死の二」を根本的に洗い去る修行が必要になります。禅修行は、先ず「二見からの離脱」にあります。だから、禅にとっては、「二見」そのものが、最も根本的な悪なのです。これを洗い去ると明瞭な世界が現われてきます。「無憎愛洞然明白」〔憎愛なく、洞然として明白なり〕です。
 殺戮・嫉妬・闘争等の一切の「悪」は、自他の区別に由来するのではないでしょうか。これが、この「二」を超える修行が必要となる理由です。また凡(すべ)ての苦悶恐怖は、「生死の二」を立てる所から起ります。それゆえ、この区別を打ち破ると「日々是好日」となります。「這裡無生死」〔ここに生死なし〕と言いますが、ここが禅の境地で、ここに禅者の素晴らしい理解があります。

IV 囚われなき「主人公」


 さて、このような「二元」の拘束から解放される時に、人間ははじめて「主人公」になれます。禅で「随所作主」〔どんな状況、どんな場所、どんな環境にあっても、周囲に流される「客」ではなく、自らを引き受ける「主」として生きるということ〕と言いますが、この「主」は一切の「二」に囚われない自由の身を体得することを意味しています。端巌和尚(ずいがんおしょう)はこの主を「主人公」と呼び、臨済はこれを「無位の真人(しんにん)」などとも称しました。「無位」という言葉に大いに意味があります。何かの位置・地位に住所を持つ限りは、「真人」にはなれません。その「住所・地位」に囚われるからです。「真人」とは、「無住心」〔心がどこにも住まないこと〕の主人です。この何物にも囚われない境地を「無事」と言い、その「無住心」を、また「平常心(びょうじょうしん)」とも言いました。
 つまり「自在心」の主人です。「自在心」とは「無碍心(むげしん)」のことです。易しく言えば、何ものにも、何事にも「こだわらない心」のことです。これを得ることができれば、「天衣無縫」〔純真無垢で囚われがない〕ではないですか。「任運無碍」〔にんうんむげ:自然に任せ自由自在であること〕ではないでしょうか。


摩拏羅(まだら)尊者の偈(げ:悟境を韻文の体裁で述べたもの)に、
  
  心随万境転 転所実能幽
  随流認得性 無喜無憂

(心は万境に随(したが)って転ず、転ずるに所実に能(よ)く幽なり。流に随って性を認得すれば、喜びもなく憂いもなし。)
〔 私たちの心は、周囲のあらゆる状況(万境)に合わせて、刻一刻と変化し、動き回るものである。そうして心が変化する、その動き(転ずる処)の奥底には、実は言葉では言い表せないほど深く、静かな真理(幽)が潜んでいる。 変化の激しい時代の流れや状況の中に身を置きながらも、そこにある自分自身の本当の性質(仏性・本性)を悟ることができれば、過剰に舞い上がる「喜び」もなく、打ちひしがれる「憂い」もなくなる。
ここでの「喜び」は「憂い」に対立・固定された境地を指すと考えられます。両者が対立・固定されず、流動し転変する流れに随うことが求められているのでしょう。〕

 ここに見事な禅境があります。「悪」は特に自己に囚われた心、己れを立てる心にすぎません。「自他の二」が消える所が、直ちに「風光明媚」です。

 禅は「天上天下唯我独尊」という言葉を尊びます。これは釈迦牟尼仏「誕生偈」と言われるものです。伝説では、生れるや周方七歩し、右手は天を指し、左手は地を指して、この偈を言い放たれたということです。その歴史的真偽などはどうでもよいのですが、この言葉には大いに意味があります。しかしこの言葉はとかくやすっぽく受け取られがちです。自分だけが偉いのだと言っているようにとられます。ですが、そんな意味は少しもありません。      「自分」などという二元論的な考えに囚われない自在の主人公であれ、という意味です。前に引いた「随所作主」という禅句は、この誕生偈と別の言葉ではないのです。ですから、仏法でいう「悪」は、道徳でいう「悪」とは大分違い、もっと根本を見ての悪です。「二」たる事それ自身が悪なのです。しかもそんな「悪」は、人間の本来の性質ではなく、「因縁」によるにすぎないのですから、悪人を決して見捨てないことになります

 V 智の道、慈の道

 つまり二元に対する徹底的な追求が禅修行だといえます。これは「智」の道による徹見ですが、しかし前にも述べたように、別に「慈」による見方があります。これを他力の道とも言いますが、平たく言えば、自力でいう二元をもっと行為の面にうつして考え、「二」という言葉を「罪」という言葉に代えて考える。つまり罪への反省としての道が、他力宗となって現われました。だから「智の道」に対して、これを「情の道」と言ってもいいのです。
 さて、この情の道は日本で特に円熟しました。中国でも念仏宗となって、善導大師などによって深く進みましたが、この念仏宗をそれまでの寓宗の位置から独立した一宗に建てたのは、日本の法然上人以来で、これがまた親鸞上人や一遍上人らによって更に深まり、いわば絶対他力の宗派として栄えるに至ったのです。この道は自らが「凡夫(ぼんぷ)」であることを徹底的に省みる事から始まります。ちょうど禅僧が二元界に止まる分別心を徹底的に衝くのと同じです。凡夫というのは「何の値打もないやくざ者」ということです。分りやすく言えば、自分が罪業の身以外のなにものでもないという事実の端的な承認です。
 しかしここに注意すべきは、一切の人間が何らかの意味で罪人だという事のみならず、その中でわけても自分がその一人だという事への反省です。しかも自分ほどの罪人は他に決してないという反省でもあります。否、それどころではない。罪人とは、実は自分一人の事を指すのだという内省を伴うことです〔この点を強調したのは親鸞〕。
 前掲の「誕生偈」の例を引けば、逆に「天上天下唯我独「卑」」とでも言っていいでしょう。念仏宗の信者たちは善導大師の言葉を借りて、これを「無有出離(むうしゅつり)の縁」と言います。つまり「罪業から離れ出て救われる縁のないほどの身だ」という反省です。どうあっても地獄に落ちる者、つまり、

「地獄ぞ一定(いちじょう)すみかぞかし」『歎異抄』

というのはその叫びです。つまり禅宗は、易しく言えば自己のうちに「大」をつきとめる道、念仏宗は「小」を見つめる道と言っていいでしょう。ちょっと考えるとこの二つは大変に違いますが、結果から言うと、禅者も念仏行者も同じ心境に達してきます。何故でしょうか。自己の無限小を考えることは、無限大(仏)の前に立たされていることです。「地獄一定」と考える事は、仏の慈悲の「摂取にあずかること」〔仏から救われること〕を意味します。これは浄土に往(ゆ)いて生まれることではないでしょうか。

 念仏するとは、「私」が念ずるのではなく、仏が仏を念ずることになってしまいます。念仏に「私」がなくなる〔この点は一遍が強調しました〕。小さな自分を念仏に任せきることは、小さな自分が念仏の中に消え去ることです。その刹那は仏が仏となり、つまり、

自分の自力を放棄することが、余計な力を放棄することを意味し、すなわち、仏の自力が隈なく働くことにつながります

 この辺りの思想は先に挙げたマイスター・エックハルトに極めて近いものです。エックハルトはこのことを、「Gelassenheit(放下・離脱)」と呼びました。その他、彼の「説教52」などを.参照してください。この思想は、ハイデガーにも強い影響を与え、ハイデガー独自の考えを生み出すきっかけになっています。

VI 「悪人正機」の逆説

 妙好人〔念仏宗の篤信者を指し、念仏宗で用いる『観無量寿経』に出てくる「芬陀利華(ふんだりけ)」(「白蓮華」の意)という言葉に由来する。泥の中から生まれながら汚されずに浄い花を咲かす蓮華のように、浄い心を持った人を意味する。真宗在家の者に多くみられ、ほとんどは田舎の無学な社会的地位の低い人々〕の詩人才市の詩を読むと、「うれし、はずかし」と言う言葉が交互に度々出てきます。自己の「小」はどこまでも恥かしい。しかし、「はずかしい」と深く省みる刹那が「浄土に迎えられる時」でもあるから嬉しいのです。しかし嬉しさに甘えてはまた大変です。嬉しさは恥かしさを伴ったものでなければなりません。
 さて、絶対他力の教えの深さは、次の親鸞上人の言葉によく示されています。
 
「善人なおもちて往生を遂ぐ、如何にいわんや悪人においておや」『歎異抄』

と誠に常識を絶した言葉ですが、これほど真実な言葉は他にないでしょう。「出離の縁なし(救われる縁はない)」と分らせて貰う時ほど、「出離の縁」を受ける時はない、という逆説。自分が凡ての罪ある者の中で、一番罪業深いものであるのみならず、天上天下、自分一人こそ悪人の悪人だと感じるその刹那は、まさに仏の「慈悲の正客(しょうきゃく)」となっていることを意味します。極悪人を救うことこそ慈悲の希願ではないでしょうか。この点に関して、また他力一般に関しては、柳宗悦『南無阿弥陀仏』を参照してください。

 最悪のものこそ、慈悲のその相手ではないでしょうか。かかる相手を「仏の正客」と言うのです

 次に引く妙好人豊前新蔵の辞世の歌は、如何にも他力宗の信者たる面目が躍如としています。
 
微塵ほどよきことあらば迷ふのに、丸で悪ふて私(わし)が仕合せ
 
もし自分に少しでも善いところがあったなら増長慢を起して迷う身となるのに、まるっきり悪人であるので、お慈悲を頂くことが決まり、何とも幸福なことである
 こんな素晴らしい悪への述懐はない。念仏の信心には、悪と救いとを直ちに結ぶこんな見事な解決が握られているのです。つまり、

 道徳は悪を拒(しりぞ)けて善人にしようとしますが、宗教は悪人を「そのままで」救ってしまうのです

 またここが仏教における念仏宗の深い点だと言えるでしょう。

 しかし、ここで誤解があってはいけません。悪人が慈悲をうける正客なら、悪を行ってもかまわないということになるとか、悪人こそ幸福な人間として讃えてよいのだというふうに、浅はかな受取り方をしてはいけません
 利己心にまといつく悪など微塵も値打はないのです。悪人正機の教えを、悪人が助かるなら善人になる必要がなくなるなどと受取ってはなりません。子供(凡夫)が罪を犯す場合、親(仏)の心はどんなに悲しく痛ましいか。親不孝でかまわないなどとは夢にも言えない。慈悲を感ずる者は感ずるほど悪を慎むでしょう。
 仏への感謝の生活を送ることと、悪の生活をすることは一致しません。慈悲の光が悪の影を消さないのなら、慈悲の光を受けとっていないからです。      信心が意味深いのは、この光を素直に浴(ゆあ)みするからです。悪人でもよいなどと考えるのは信心を持たない者の愚かな考えに過ぎません

 道徳は悪を拒否する力となりますが、宗教は悪をおのずから消滅させる力といってよいでしょう宗教は悪との戦いではなく、悪をも光に浴(ゆあ)みさせる力なのです

 だから悪人の救いが果される。悪人にすら浄土への道を開いて待つのです。慈悲の法を説く仏教はこの道を準備して止みません。

VII 「ようこそ」の安心

 妙好人の物語を読むと、腹を立てない話がよく出てきます。昔、豊前に新蔵という信者が居ました。貧乏できたない形(なり)をしていました。ある時、村に相撲があったので見にゆくと、一人が投げられて大変な怪我をしました。すると仲間が「これは見物人の中に穢多がいて、その穢(けが)れが祟ってこんな出来事になったのだ」ということになり、周囲を捜すと、見物人の中に穢(きたな)い形をした新蔵を見出し「此奴のせいだ」と言って、皆でよってたかって蹴るたたくのひどい目にあわせました。(ここでの差別語の使用については、後記出典参照)ようやくここを逃れ出て、家に戻って、妻に言うには、

「今日は実に有難い目に逢った。自分が穢(きたな)い人間だということをありありと知らせて貰った上に、蹴ったりたたいたりされて、罪の贖(つぐな)いまでさせてもらい有難いことだった」

と言いました。妻も「ああそうでしたか」と夫妻もろともに歓喜踊躍(かんぎゆやく)したというのです。腹を立てるどころか、こんな、ストア的な心の転換がどうして出来るのか。何事につけ、如来の御慈悲を感じているので、立腹の「根」が切ってあるのです。だから、こんな妙好人は、どんなことがあってもまことに「日々是好日」です。
 因幡の妙好人源左が、口癖に、「ようこそ、ようこそ」と言ったのは、それをよく示しています。「ようこそ」とは、極めて含みの深い言葉ですが、

「何事につけ、私のようなふつつか者に、よくもまあこんなお慈悲を垂れて下さって、もったいないことだ」

という意味です。ですからどんな境遇に入っても感謝するだけであって、不平など口から出る理由がなくなってしまう。つまりここでも禅のいう「任運無碍」〔にんうんむげ:自然に任せ自由自在であること〕の自在人になるのです。
 ここでの他力思想の検討にあたっては、ニーチェのキリスト教批判を考え合わせる必要があります。『道徳の系譜』において詳論された、強者に対する弱者の「ルサンチマン(ressentiment(仏)「怨み」)」に基づくキリスト教道徳とは異なる発生機序を有する別種の、「弱者の道徳」でない「弱者の<宗教>」なるものがここには存在しているという点を、押さえておくべきでしょう。(後述VIII参照)
 
 修行の積んだ禅者と、信心の厚い妙好人と、道は異なりますがその安心(あんじん)は同じです悪に対して、これを矯正する道や、これを正しいものに導く方法はいろいろあるでしょう。しかし宗教的教えほど、根本的な解決の道はありません。とりわけ仏法がこの問題に与える答えは、極めて深く鋭いと思います。

VIII ルサンチマンと「弱者の道徳」のメカニズム:ニーチェの有名な心理分析

15.いかにして反動的な諸力は勝利するか――怨恨〔恨み〕
 
 道徳の領域において奴隷たちの反乱が始まるのは、怨恨〔ルサンチマン:ressentiment(仏)〕それ自身が創造的となり、価値を生み出すようになったときです。つまりこれは、真の反応、すなわち(殴り返すなどの)行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような者たちの怨恨のことです。すべて高貴な道徳とは、自己自身に向かって高らかに<然り>〔自己肯定〕と言うことから生じるのですが、奴隷たちの道徳は、「外のもの」、「他なるもの」、「自分とは異なるもの」に対して、まず初めに<>〔他者否定〕と言うことから発生します。そしてこの<否>〔他者否定〕こそが、奴隷たちの道徳が実行する創造的行為です。
 価値を定める眼差しがこのように逆立ちしていること――すなわち、自分自身(の肯定)に向かい合うよりもむしろ、つねに外側に引きずられ、外へと向かってしまうこの必然的な方向性――、これこそまさしく怨恨の本性をなしています。
 奴隷たちの道徳が成立するためには、いつも、そしてまずなによりも、ある一つの対立するものが、対立する外界が必要なのです。生理学的な言い方をするとすれば、奴隷たちの道徳は、動き、行動するために、つねに外的な刺激を必要とします――だからその行動は、根本的に一つの反動です。
(『道徳の系譜』第1論文10(+信太正三訳(ちくま学芸文庫))一部補足)

* ここで、「奴隷」という言葉を、社会的階層として理解してはいけません。「奴隷」とは、以前引用した「弱い者」のことです。「弱い者」は自己の苦しみの原因を、「他なる者」、つまり「強い者」の罪(例えば、「強い者」の自由や傍若無人)に帰する、ということです。

 
16.疚(やま)しい心、あるいは自己への敵対的反転(15「怨恨」の続きとして)
 
 司祭とは、怨恨の方向を転換する人間のことです。実際、苦悩する者はだれでも、その苦しみの原因を本能的に探し求めます。さらに詳しく言えば、なにか生身を持って行動しているような原因を求めるのであり、いっそう正確を期して付け加えると、ある一人の責任者を、つまり彼もまた苦悩することがありうるような悪い人間を求めるのです。要するに苦しむ者は、どんな口実でもよいからとにかく自分の激情を、実際にその人に向かって、あるいは想像のなかで、吐き出すことができるような生きた存在を探し求めます。なぜならば、激情を吐き出してしまうということは、苦しんでいる人間にとって最も効果的な「鎮痛」の試み、痛みを「麻痺」させる試みであり、あらゆる種類の苦悩に対してほとんど無意識的に熱望される麻酔剤であるからです。
 私の考えでは、怨恨とか復讐とか、それに類するものなどの唯一の、真なる生理学的な要因は、このような点にのみ、つまり激情〔情念〕という手段を通じて、苦痛を麻痺させようという願望にのみ見出されます。(中略)
 苦しんでいる者はいずれも皆、怖るべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけ出します。彼らは、自分こそ誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、そういう疑惑をあれこれこねまわしたり、穿鑿(せんさく)したりすることさえも、一種の享楽の対象にするのです。彼らは自分の過去、および現在を、その臓腑の底の底まで掘り返して、なにやら暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に耽る、という具合に自分自身の悪意の毒に酔ってしまいます。――彼らはいちばん古い傷口も、荒々しく開き、もうとっくに癒えている傷痕からまで血を流させる。彼らは自分の友人や、妻子や、その他最も近しいひとびとを、悪者に仕立て上げます。

私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない

――すべての病める羊は、こう考えます。ですが、そのとき彼らの友人、禁欲主義的な司祭は、彼らに向かって言うのです。

「私の羊よ、まったくその通りだ。それは誰かのせいに違いない。だが、その誰かとは、おまえ自身だ、おまえこそその苦しみすべての原因なのだ、――おまえ自身が、おまえ自身の苦しみのただ一人の責任者なのだ!

と・・・。
この言い方は、ずいぶん大胆であり、ずいぶん間違っています。しかし、これによって少なくとも一つのことが達せられました。すなわち既に指摘しておいたように、怨恨の方向が――転換されているのです。
(『道徳の系譜』第3論文15(+信太正三訳(ちくま学芸文庫))一部補足)

* 司祭が登場する前までは15と同じ内容。登場してから16の主題が始まっています。
 このあとは、以前検討した「マザー!(レノン&ニーチェ)」最終部の第17節につづきます。


結論


 簡単に整理しますと、「高貴な道徳」は、「私は正しい、私は善だ」(自己肯定)から出発しますが、
「弱者の道徳」は、「あなたが悪い」(他者否定)から出発し、途中「司祭」によって、この否定の力が転換されて、自己に向かい、結果「自己否定」と「罪」が帰結します。これが更に反転して「禁欲主義(自己否定)的理想」が、虚空に投影されることになります。こうして「理想主義」が生まれました。

 他方、浄土真宗のような「他力思想」には、この「他者否定」のモメントがそもそも存在しません。最初から、自己卑下が自己放棄につながり、一方的に阿弥陀如来に自己を委ねることで、一切の心理的メカニズムを発動させないという強力な措置がとられています。


出典その他


以上、柳宗悦(1889-1961)「仏教と悪」上掲文中の部落差別に関する用語の使用に関しては、出典1, p.102を参照。
出典1:『柳宗悦 妙好人論集』岩波文庫 p.89-102
一部、次の書物によって修正を行ないました。
出典2:『近代日本思想体系24』筑摩書房 p.125-132
初出:『現代倫理講座』第3巻、筑摩書房(1958年3月)
および、冒頭部引用は、柳宗悦『美の法門』
(一部省略・補足・大幅に語句を改変しています。)

* 出典2には次のような文言もあります。

「卓越した詩人〔ニーチェ〕が善をすら選ばず「善悪の彼岸」をと希(ねが)つたその心を如何にしようとするのであらう。」

『宗教的無』

ニーチェ出典:ドゥルーズ『ニーチェ』ちくま学芸文庫


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