論理学とは何か?―INTRODUCTION
1 「logic」とは何か?(その1)
「あなたの言っていることは論理的におかしい」とか「この結論が論理的に導かれる」といった言葉を最近耳にするうちに、ふと考えました――わたしはそもそも「logic」について何を知っているのだろうか?
そこで、あらためて「logic」についての本を何冊か読んでみました。以下は、そこから考えた「logic」についてのイントロダクションです。
ーー数冊読んでみて、まず思ったのは、「logic」とは、定義風に述べると、
日常の思考や言語使用の中で、わたしたちが特に意識せずに従っている規則の体系
だということです。でも、これだけでは、「logic」が何なのかということはさっぱり分からないと思うので、次のような例をまず考えてみたいと思います。(英語の「logic」の訳語のうち、日本語では、「論理」が「規則の体系」であるのに対し、「論理学」はそれを扱う「学問」ということになりますね)
例えば、「今ここの天気は雨である」という文Aと、「今ここの天気は雨でない」という文Bを、接続詞の「かつ」で接続して、「今ここの天気は雨である、かつ、今ここの天気は雨でない」(もう少し自然な言い方にすれば、「今ここの天気は雨であり、かつ、雨でない」)という文Cを作ったとすると、普通この文は「矛盾している」と言われてしまいます。
つまり、文Cにおいて、文Aと文Bという2つの言葉を「かつ」という接続詞で接続することは、言葉の使い方として間違いだとされます。
他方、「今ここの天気は雨であるか、または雨でないかのいずれかである」という文Dを考えてみましょう。この文Dは、文Aと文Bを、接続詞「または」で接続したものを自然な形に言い換えたものですが、文Dにおける言葉の使い方は正しいとされるでしょう。
また、わたしたちは、文Aで表現される事柄Ⓐと、文Bで表現される事柄Ⓑを同時に真なるものとして思考することができません。同時に思考することができると言う人がいたら、その人の思考は、人間の理性という観点からして正常でない、つまり間違っているとみなされるでしょう。というより、もっと適切に言えば、そうすることはわたしたち人間にはできないのです。先に定義風に述べた「取り立てて意識することなく従っている」とはそういう意味です。この他にもわたしたちが、言語と思考の双方の領域において従わざるをえないいくつかの規則があり、それらの総体が「logic」と呼ばれているものです。
ところで、文Cで表現される事柄Ⓒをわたしたちは、真なるものとして思考することができないし、そのような表現は間違いだとみなされるだけでなく、そもそも、「ロゴス」の意味をさかのぼって考えると、そのような事柄は存在することができません。つまり、「今ここの天気は雨であり、かつ雨でない」という事柄は、わたしたちの住む宇宙の中に存在することができないのです。ということは、
「logic」は、わたしたちの、言語、思考、そして存在の三つの領域において、わたしたちを縛っている規則の総体である、と言うことができます。
2 「logic」とは何か?(その2)
このとき、文A、文Bにおける「天気」や「雨」という言葉は、たまたま例として挙げただけで、他の言葉に交換できることは容易に想像されるでしょう。つまり、「山田はあなたが好きであり、かつ好きでない」という文Eを用いることは間違いで、「山田はあなたが好きであるか、または好きでないかのいずれかである」という文Fを用いることは間違いではないのです。
細かいことですが重要なので補足しますと、「山田はあなたが好きであるか、あるいは嫌いであるかのいずれかである」という文Gと文Fは区別しなければいけません。文Fに間違いの余地はありませんが(文Fについては、少なくとも通常の理解では誤りとされることはないでしょう)、文Gには間違いの余地があります。山田はあなたが好きでもないし、嫌いというわけでもない、ということはありえます。「好きでない」ということと「嫌い」ということは違います。
そうすると、わたしたちが従っている規則にとって、交換できない部分は何か?ということが当然問題になります。先に挙げた例では、接続詞「かつ(and)」、「または(or)」、否定詞「でない(not)」が規則の本体をなしています。その他の偶然的部分を、それが偶然的だということを示すために記号化すると(また、後に述べるように、「logic」は西洋で生まれ、発達した学問なので、西洋語の構造を元に発想されていて、日本語よりも西洋語を用いた方がはるかに理解しやすいので英語を用いると)、「○ and not ○」は間違いで、「○ or not ○」は正しいということになります。
基礎的な「logic」には、「propositional logic(命題論理)」と「predicate logic(述語論理)」の2つの分野があります。「logic」の領域はこれにつきるものではありませんが、最も重要で、基礎となる部分がこれです。その際、規則の本体となる言葉は、先に見た「and」「or」「not」の他に、「if」(ここまでが「命題論理」の問題)+「all」「some」(この二つが「述語論理」の問題)を加えて、合計6つあります。
すべての「logic」の基礎がこの6つの言葉に集約されるとは、とても興味深いですね!
3 「logic」とは何か?(その3)
「○ and not ○」は、○の中にどんな言葉を入れても常に間違いで、「○ or not ○」は、○の中にどんな言葉を入れても常に正しい。実はこれは非常に特殊な現象で、たいていの文の場合こういうことは起こりません。
このような特殊な文のうち、常に正しくなるものを「tautology(トートロジー)」と言い、他方、常に間違いになるものを「contradiction(矛盾)」と呼びます。
まず、個々の単語自体は、正しいとも間違いとも言えないので(例えば「人間」という言葉に対して正しいとか間違いとかは言えないので)、○の中に入るものを文だとすると、○の中にどういう文が入るかで、その○は正しくもなり、間違いにもなります(当たり前の話)。
「すべての人間は哺乳類である」という文は正しいし、「すべての人間は爬虫類である」という文は間違いになります。しかし、こういう問題は、「logic」の問題ではありません(この場合は生物学の問題)。
ところで、このような「文」を積み重ねて、次のような「文章」を作ってみましょう。
(*1)すべての人間は哺乳類である
すべての哺乳類は動物である
したがって、すべての人間は動物である
この文章(*1)は、正しい文章だという感じがするでしょう。
同様に、
(*2)すべての桜は植物である
すべての植物は生物である
したがって、すべての桜は生物である
も正しい文章だという感じがするでしょう。
「logic」で問題となるのは、まずは、このような「文章」(個々の文ではなくて)の「正しさ」とは何か、ということです。
ここでも「人間」や「桜」という言葉は偶然的な例にすぎず、これら文章の「正しさ」の根幹にかかわるものではないということは容易に理解されると思います。そこで、先と同じように偶然的部分を記号化すると、(*1)も(*2)も次のような同一の形式を持っていることが分かります。
(*a)
All ○ are △
All △ are □
So, all ○ are □
これは、「logic」で、伝統的に、「(定言)三段論法(categorical syllogism)」と言われているものの一例ですが、ここでの「文章」の「正しさ」と、個々の「文」の「正しさ」とを区別することが必要です。
4 「推論」と「命題」、「妥当」と「真」
ここまで、「文章」と呼んできたものを、これからは「inference(推論)」と呼びます。また、「文」と呼んできたものを「proposition(命題)」と呼びます。
すると、(*1)、(*2)の推論を構成するそれぞれ3つの命題について、次のようなことが言えます。
(1) 3番目の命題は、(*1)の場合、「したがって、すべての人間は動物である」ではありません。「したがって」は接続詞であり、3番目の命題は、「すべての人間は動物である」です。
(2) 「命題」は「真偽を問題にすることができる文」と定義されます。
つまり、文一般が命題というわけではなく、「真偽を問題にすることができる」という限定がついているわけです。「真偽を問題にできない文」としては、疑問文や命令文などが考えられます。
また、「真偽を問題にすることができる」ということは、「真偽が分かっている」ということを意味しません。例えば、「宇宙には人間と同程度の知的生命が存在する」かどうかは今は分かりませんが、それは真か偽のいずれかであり、真偽を「問題にできる」ので、この文は命題です。
次に、
「推論」は「命題の連鎖であり、かつ、前提(premise)と結論(conclusion)という2つの部分を持つもの」と定義されます。
前提をP、結論をCで表せば、推論は次のように示されます。
P1,…..,Pn,したがってC (n≧1)
つまり、「前提」とは、「したがって」という接続詞(「それゆえ」、「よって」など同じ機能を持つ接続詞はその他にもありますが、どれも同じ機能なので、「したがって」で代表させます。英語も同様ですが、「so」で代表させます)の前にある命題であり、結論は「したがって」の後ろにある命題です。(「三段論法」の場合、n=2)
「logic」は、このような「推論」の「正しさ」を問題にする学問です。生物学や歴史学などが個々の「命題」の正しさを問題にするのと対照的です。
また、先に挙げた特殊な命題形式(「○ and not ○」、「○ or not ○」)の正しさは例外的に「logic」の問題となります。
個々の命題の「正しさ」は、その命題の具体的内容にかかわるものであり、このような「正しさ」を「true(真)」と呼びます。(「間違い」は「false(偽)」)。
他方、「推論」の「正しさ」は、先に挙げた(*1)、(*2)、(*a)を見ても分かるように、推論を構成する複数の命題の内容ではなく、(*a)で示される推論の形式にかかわるもので、このような形式の「正しさ」を「valid(妥当)」と呼びます(「間違い」は「invalid(非妥当)」)。
(*a)は「妥当な推論形式」と言えますが、その「validity(妥当性)」とはどういうことか、ということが「logic」の第一の問題です。
5 妥当な推論形式の例
(*a)の他にも妥当だとみなされる推論形式としては、例えば次のようなものがあります。
(*b)○ or △
Not ○
So, △
(*c)If ○, △
○
So, △
これらの推論形式の妥当性も同様に問題です。
6 真なる命題と妥当な推論
先に、「文章の正しさと、個々の文の正しさとを区別することが必要だ」という趣旨のことを述べました。4で導入した用語を用いれば、これは、「推論の妥当性と、命題の真とを区別しなければならない」と言い換えられます。この問題を明確にするために、以下の推論を検討してみましょう。
(*1)すべての人間は哺乳類である
すべての哺乳類は動物である
したがって、すべての人間は動物である
この推論は妥当であり、この推論を構成する3つの命題はすべて真です。
(*3)すべての日本人はイスラム教徒である
すべてのイスラム教徒は人間である
したがって、すべての日本人は人間である
この推論が(*1)、(*2)と同様に(*a)という形式を持つことは容易に見て取れるでしょう。このような場合、(*3)は妥当だとされます。しかし、この推論に含まれる第一の命題「すべての日本人はイスラム教徒である」は明らかに偽です。したがって、次の事柄に注意しなければいけません。
推論の妥当・非妥当は、推論形式によって決まり、偽なる命題を含んでいても、推論は妥当となる可能性がある。
さらに次のような推論を考えてみましょう。
(*4)何人かの日本人はイスラム教徒である
すべてのイスラム教徒は人間である
したがって、すべての日本人は人間である
(*4)は、(*3)に含まれていた第一命題の間違いを正したものです。その結果、(*4)に含まれる3つの命題はすべて真だと言えるでしょう。ところが、この推論の形式を抜き出してみると、次のようになります。
(*d)Some ○ are △
All △ are □
So, all ○ are □
この推論形式は妥当だと言えるでしょうか?(*a)と比べると、(*d)は正しくないような感じがするのではないでしょうか?
実は、この推論形式は「非妥当」です。ところが、(*4)に含まれる3つの命題はすべて真です。よって、次の事柄に注意しなければいけません。
推論の妥当・非妥当は、推論形式によって決まり、推論を構成する命題がすべて真でも、推論は非妥当となる可能性がある。
以上を踏まえると、わたしたちが日常的に「正しい推論」と呼んでいるものは、単に妥当であるだけでは不十分であり、前提そのものもまた真でなければならないということが分かります。
このように、「推論が妥当であり、かつ、その前提がすべて真である」場合、その推論は「sound(健全)」であると呼ばれます。
健全な推論の最大の特徴は、前提がすべて真であり、かつ推論が妥当であるため、その結論も必ず真となる点にあります。 つまり、「健全性」は前提の「真」と推論形式の「妥当」を同時に満たすことで、結論の「真」を保証してくれるのです。
7 推論の妥当性とは何か?
以上の説明によって、「logic」の最も中心となる問題が、推論の妥当性にあることが分かるでしょう。推論の妥当性は次のように定義されています。
推論が妥当: 前提がすべて真なら、結論は偽となりえない
(前提がすべて真なら、結論も必ず真)
推論が非妥当:前提がすべて真で、結論が偽となりうる
これは、定義というより、推論の正しさ(妥当性)についての基本的事実と言った方がいいかもしれません。「logic」の全体がこの事実の上に構築されているのです。
しかし、現在のところ、この定義、あるいは事実がどういうことを意味するのかは分かりにくいと思います。やはり、このあたりは実際に「logic」の書物を読んでみれば、より明確になると思います。
あるいは「情報の包含関係」という視点で見てみると、理解しやすいかもしれません。推論形式に内容を当てはめたとき、妥当な推論の場合、結論に含まれている情報のすべてが、あらかじめ前提に含まれています。つまり、前提に含まれている情報の一部あるいは全部を、結論で主張しています。したがって、前提の情報がすべて真である場合、結論の情報も真となります。この点は、推論を「Venn diagram(ヴェン図)」を用いて分析してみると理解しやすいと思います。
8 「logic」の誕生と現代論理学
「logic」を創始したのは、紀元前4世紀のギリシアの哲学者アリストテレス(Aristoteles : B.C.384-322)だと言われています。彼は、「logic」を創始しただけでなく、その一定部分に関しては、以後の理論的改良を必要としないほど完成させたという点で偉大です。このアリストテレス流の「logic」は、その後長く西洋で受け継がれ、細かい部分的改良はあっても、基本的アイディアに関しては、改良の余地はないと思われてきました。このことに関しては、次のカント(Immanuel Kant : 1724-1804)の言葉がよく知られています。
論理学がこの確実な途をすでに最古の時代以来進んできていることは、それがアリストテレス以来一歩も後退する必要がなかったことから明らかである。もちろんその場合、若干の不必要な煩瑣(はんさ)な点を除去したり、当面の問題をより明瞭に規定するということはあったが、しかしこれらは、その学を確実にするというよりは、むしろ優美ならしめることであって、われわれはそれを論理学にとって改良であるとは見なさないからである。なお論理学について注意すべきことは、それがまた今日まで一歩も前進できずにいること、したがってどこから見ても完結し完成しているように思われることである。
このカントの見解は、19世紀半ばから始まる「logic」の革命的変化によって裏切られることとなりました。この革命によって誕生したのが「現代論理学(modern logic)」です。現代論理学は、アリストテレスのような一人の人物によって生み出されたものではありませんが、中心人物を一人挙げるとすれば、フレーゲ(Gottlob Frege : 1848-1925)でしょう。
現代論理学は、アリストテレス以来の「logic」(これを「伝統的論理学(traditional logic)」と呼びます)よりはるかに幅広い領域を取り扱えるようになり、理論的統一性も確立しました。また、現代論理学は数学(集合論など)との結びつきを深めたことも重要な特徴です。
cf. Paul Tomassi, Logic (Routledge, 1999)
P.D. Magnus, Forall x: An Introduction to Formal Logic(これはネット上に公開されています)
