あれ?パートナーってどうやって作るんだっけ?
あれ?パートナーってどうやって作るんだっけ?
ずっと一人で大丈夫だと思っていた私が
久々に”パートナー”というものに目を向けてみた時
それってどうやって作るんだか
どうやって触っていくんだか
全くわからなくなっていた。
というか、最初から分かってなんかいなかったのかもしれない。
今まで通りで選んでしまったら
確実に今までの二の舞になることは分かっている。
だからこそここでちゃんと向き合ってみたくなった。
1.私は”違い”というものを軽くみていた
私はこれまでパートナーをどうやって選んでいたのか。
そんなことを振り返ってみると
「好みが違ってもいい」
「価値観が違っても理解すればいい」
「人間なんだから違って当然」
「違っていても共存はできる!」
そんな風に思っていた。
…いや、共存って。苦笑
って今なら思う。
それ自体は正しいとか間違いとかそういうことではないんだと思う。
ただ、そこをちゃんと見ないことは
自分自身を尊重しないことにこんなにも繋がっていく
ということを思い知った。
じゃあ私は一体何を優先してしまっていたのか。
「私はこれが好き」
「私はこれは嫌」
「私はこう生きたい」という自分の感覚よりも
“違っていても何とかできること”
を優先してしまっていたのだ。
つまり私は
「何を望んでいるか」ではなく、「何に耐えられるか」で相手を選んでいた。
私は
「どんな違いなら心地よくいられて、どんな違いは自分をすり減らすのか」ここを全く考えてこなかった。
むしろ「違いを乗り越えられる私」であろうとしていた。
その時点で苦難を選ぼうとしているのである。
2.合わないものを、合わせようとしていた
ズレについてめちゃくちゃ分かりやすい話がある。
まだ結婚していた時の話。
元旦那は極度の暑がりで、私は極度の寒がりだった。
夏になると、当然エアコンの設定温度が合わない。
彼が快適な温度は私には寒すぎるし、
私が快適な温度は彼には暑すぎる。
特に寝る時なんて最悪だった。
彼に合わせれば私は寒くて眠れない。
私に合わせれば彼は暑くて眠れない。
どう考えても、合わないのである。笑
なのに私は
ここですら「どうにか合わせよう」としていた。
冷房は彼に合わせて、私は毛布を引っ張り出してきて毛布と布団を被る。
それでも寒ければ着込む。
自分の方で何とか調整する。
今考えると、
いや、寒いもんは寒いんだから
そもそも無理があるんじゃない?と思う。笑
暑がりが悪いわけでもない。
寒がりが悪いわけでもない。
彼が私を理解したところで暑いものは暑いし、
私が彼を理解したところで寒いものは寒い。
これはもう、努力や思いやりでどうにかするような話ではない。
ただ、違うのだ。
でも私は、こういう「どうしようもなく違うもの」に対してすら
“私が合わせればなんとかなる”と思っていた。
そして振り返ってみれば、
これは体感温度だけの話ではなかった。
食の好みも違った。
音楽の好みも違った。
時間の過ごし方も違った。
会話の仕方も違った。
子どもへの向き合い方も違った。
仕事やお金に対する感覚も違った。
もちろん、違うこと自体が悪いわけじゃない。
ただ私は、その一つ一つに対して
「これくらいなら大丈夫」
「私が理解すればいい」
「ここはしょうがない」
「違っていても一緒にはいられる」
そうやって
自分の方を調整し続けていたのだと思う。
だから私は長い間
結婚生活が苦しかった理由を
「もっと彼がこうしてくれたら」
「もっと私が理解できていたら」
そんな風に考えていた。
でも最近、少し違う見え方になってきた。
彼も彼なりに頑張っていたのだ。
特にお金を稼ぐことに関しては、ずっとチャレンジしていた。
決して器用な人ではなかったし
現実的に考えれば
「いや、そのルートはだいぶ険しいぞ」と思うようなことも多かった。
それでも彼は、彼なりに何度も挑戦していたんだと思う。
そういえば昔
「この人と家族でいるためには、自分ももっと稼げる男にならなきゃ」
そんな意味のことを言われたこともあった。
今になって思う。
あの人はあの人で、一生懸命、私に追いつこうとしていたのかもしれない。
そして私は私で、一生懸命、彼との違いを埋めようとしていた。
彼も頑張っていた。
私も頑張っていた。
なのに、ずっとしんどかった。
だとしたら。
私たちに足りなかったのは、
努力ではなかったのかもしれない。
むしろ逆で
最初から大きくズレていたものを
二人とも頑張って合わせようとしすぎていた。
そう考えると、ものすごく腑に落ちた。
私の結婚生活が苦痛に満ちていたのは、
「合わないこと」が悪かったからではない。
どうやっても合わないものを
無理矢理にでも合うようにし続けていたからだった。
3.「擦り合わせ」と「ズレを埋める」は違う
ここまで考えて、もう一つ気づいたことがある。
人と人なのだから
もちろん全てが同じなんてことはない。
一緒に生きていれば
「私はこっちがいい」
「相手はこっちがいい」
そんな違いはいくらでも出てくるだろう。
だから時には話し合ったり、譲り合ったり
二人にとって心地いい場所を探したりする必要もある。
でも本当に相性が合う人との間で必要なのは
「努力」というより
“擦り合わせ”くらいのものなのではないか。
そんなことを思った。
だって、そもそも大切にしているものや
人生の進む方向が近ければ
多少の違いがあったとしても
「じゃあ、どうしようか」と二人で考えればいい。
どちらかが自分を大きく曲げなくても
二人の間に心地いい場所を作ることができる。
でも、根っこの部分から大きくズレていたら
話は変わってくる。
一つ合わせたら、また次を合わせる。
こっちを相手に合わせたら
今度は自分のどこかに無理が出る。
その無理をなんとかしたら
また別のところにズレが出る。
そうやって延々と
「合う状態」を作り続けなければならなくなる。
それはもう
擦り合わせではない。
ズレを埋め続けているのだ。
今思えばそれって不毛な戦いだよね。
思えば私はずっと
この二つを同じものだと思っていた。
「人間なんだから違って当然」
「関係には歩み寄りが必要」
そんな言葉を使いながら
本当は擦り合わせ程度ではどうにもならないほどの違いまで
「私たちが頑張ればなんとかなるもの」として扱っていた。
でも、もしかしたら。
本当に見るべきだったのは
「違いがあるかどうか」ではなく
“その違いが、擦り合わせで心地よく調整できる程度のものなのか”
だったのかもしれない。
違いがあってもいい。
でもその違いを埋めるために
どちらかが自分を曲げ続けなければならないのなら
それはもう
「違いを受け入れている」とは少し違うんだと思う。
そしてここで私は
あることに気づいた。
じゃあ、そもそも。
”擦り合わせる前の時点で、どれくらい近い人なのか。”
そこを私は
今までほとんど見てこなかったのではないか。
人生のテンポ。
大切にしているもの。
物事の味わい方。
人との繋がり方。
そういうもっと根っこの部分。
つまり私はこれまで
あまりにも軽く、雑に扱ってきたのだ。
“周波数が合う”ということを。
4.私にとって「周波数が合う」とは何なのか
じゃあ
「周波数が合う」って一体なんなんだろう。
改めて考えてみると
私はこれまでこの言葉を
ものすごく曖昧に使っていた気がする。
なんとなく気が合う。
なんとなく心地いい。
なんとなく波長が合う。
そんな感じ。
でも今回
自分がこれまで何を大切にしてきたのか
何がズレると苦しくなるのかを振り返ってみたら
私にとっての「周波数」は
もう少し具体的なものだった。
同じ曲を好きじゃなくてもいい。
でも音楽を味わうことの重さが近い人がいい。
同じ料理を好きじゃなくてもいい。
でも食べるものだけじゃなく、
その時間や空間まで楽しみたい感覚が近い人がいい。
いつも一緒にいなくてもいい。
むしろ普段は、それぞれが自由に自分の世界を生きていていい。
でも
怖い時。
心細い時。
心配な時。
そんな時には「一緒にいよう」が自然に出てくる人がいい。
同じ考えでなくてもいい。
でも、表面的な情報交換だけではなく
「それってどういうことなんだろうね」
「私はこう感じたよ」
「あなたはどう思う?」
そんな風に心が行き来する会話や、本質を一緒に話せる人がいい。
子どもへの考え方だって
全く同じじゃなくていい。
でも「手伝う」という感覚ではなく
一緒にその子の人生を応援したい
というところは近くていてほしい。
仕事やお金についても
全く同じ働き方をする必要はない。
でも無謀に何かを追い続けるより
自分たちなりの安定や豊かさを、一緒に育てていきたい
という感覚は共有したい。
こうやって考えてみると
私は「好きなものが同じ人」を求めていたわけではなかった。
私が求めていたのは
何を大切にして
どんな風に人生を味わい
どんなテンポで生きているのか。
そこが近い人だったのだと思う。
たぶん私にとって
「周波数が合う」というのは
趣味が同じとか
性格が似ているとか
そういう表面的な一致ではない。
人生の味わい方が近いこと。
なのだと思う。
そして今になって気づく。
私はこれまで、こういうものを全部
「そんなことくらい」
「違っていて当然」
「理解すればいい」
と雑に扱ってきた。
でももしかしたら
こういう小さなところにこそ
その人がどんな世界を生きているのかが
一番よく現れるのかもしれない。
そして私はもう
自分が大切にしているものを
「贅沢だから」と後回しにしなくていい。
パートナーを選ぶ時くらい
私は私の周波数を基準にしていい。
そんな風に思った。
5.じゃあ、周波数が合う人ってどうやって探すの?
ここまで考えたところで
新たな疑問が出てきた。
じゃあ。
周波数が合う人って、どうやって探すんだ?笑
条件なら分かる。
年齢とか。
仕事とか。
住んでいる場所とか。
趣味とか。
そういうものなら
プロフィールを見ればある程度分かる。
でも
「人生の味わい方が近い人」
なんて、一体どこを見れば分かるんだろう。
そんなことを考えていた時
ふと、問いそのものが違うのかもしれないと思った。
「この人は私に合っているか?」
ではなく
「この人といる時の私は、好き?」
こっちを見るのだ。
この人といる時
私はよく笑っているだろうか。
好きなものを
好きだと言えているだろうか。
くだらないことで笑ったり
どうでもいい話をしたり
かと思えば、とことん深いところまで潜って話したり。
そんな私でいられるだろうか。
相手に合わせるために
頭をフル回転させていないだろうか。
「まあ、ここはしょうがないか」が
やたら増えていないだろうか。
自分の好きなものや
大切にしていることを
無意識に小さく扱っていないだろうか。
相手がどんな人なのかを見極めることも
もちろん大切だと思う。
でもそれと同じくらい
その人と一緒にいる時、自分がどんな自分になっているのか
そこには
ものすごくたくさんの情報がある気がする。
周波数が合う人というのは
「何もかも同じ人」ではない。
違うところはある。
でもその違いを理解するために
必死にならなくてもいい。
全部説明しなくても
なんとなく大切なところが通じる。
意見が違っても
「そういう考えもあるんだ!」と
お互いのままでいられる。
そして何より
その人と一緒にいることで
自分を削っていくのではなく
むしろ、自分がもっと自分になっていく。
「そうそう、私こういうの好きだった」
「私、こういう話がしたかった」
「この時間の流れ、好きだな」
「なんか私、自由だな」
そんな風に
自分の輪郭がもっとはっきりしていく。
相手に合わせるために
自分の音を変える関係ではなく
自分の音が、もっとよく鳴る関係。
もしかしたら、それが私にとっての
「周波数が合う人」ということなのかもしれない。
……とはいえ。
ここまで分かったところで
もう一つ問題が残る。
そんな人、一体どこで出会うんだ?笑
そしてここで
私はさらに単純なことに気づいてしまった。
6.私は、私の周波数で生きればいい
そんなことを考えていたら
ふと、大好きな曲を思い出した。
Suchmosの「MINT」。
私はこの曲が昔からすごく好きなのだけど
そのサビに
「周波数を合わせて」
という言葉が出てくる。
これまでは何気なく聴いていたこの歌詞の意味が
今になって初めて分かったような気がした。
この曲ではそのあと
それぞれが抱えている苦悩や苦労さえ吹き飛ばして
一緒に踊りたいと言ってる。
私はこの感じがものすごく好き。
でも今なら、なぜ好きなのかが少し分かる気がする。
人生から苦労をなくしてくれる人が
欲しかったわけじゃない。
何も起こらない人生を
一緒に生きたいわけでもない。
生きていれば
それぞれに色んなことがある。
しんどい日もあるし
悩むこともあるし
どうにもならないことだってある。
それでも。
同じ周波数で鳴れる人となら
そんなものを抱えていたとしても
一緒にいれば吹き飛ばせるし
そのあとは「まあ、とりあえず踊ろ!」って一緒に笑ったらいい。
苦悩や苦労がなくなるんじゃない。
その人と一緒にいる時の私が
苦悩や苦労の世界から自分を連れ出して
そのプロセスすら楽しめるようになる。
ああ。
私が欲しかったのは
こういうことだったのかもしれない。
私を幸せにしてくれる人ではなく
私が“好きな私”でいられる人。
そしてきっと
その人もその人の音で鳴っている。
どちらかが相手の人生を背負うのでもなく
どちらかが自分を変えて相手に合わせるのでもなく
それぞれに色んなものを抱えながら
それでも一緒に笑ったり
音楽を聴いたり
美味しいものを食べたり
くだらない話をしたりできる。
それぞれの人生を生きながら
一緒にいることで少し世界が軽くなる。
それが
「周波数が合う」ということなのかもしれない。
私はずっと「合わせる」ということを
自分の音を変えて
相手の音に近づけることだと思っていたんだと思う。
実際、これまでの私はそうだった。
相手が暑ければ、私が寒さに耐える。
相手と違えば、私が理解する。
ズレていたら、私がなんとかする。
そうやって
自分の周波数を変えることで
誰かと一緒にいようとしていた。
でも、きっと違う。
それは合わせているとは言わないし
一緒にいるとすら言わないんだと思う。
自分は自分の音で鳴っていて
相手も相手の音で鳴っている。
その音が近ければ
少し擦り合わせるだけで
一緒に鳴ることができる。
どちらかが
自分の音を無理矢理変える必要なんてない。
そう考えた時
最初に書いた自分の言葉を思い出した。
「違っていても共存はできる!」
……いや。
私がしたかったのは
共存じゃなかったのだ。
共鳴したかったのだ。
同じ世界に
なんとか二人で存在することではなく
それぞれが自分の音で鳴りながら
一緒にいることで、もっとよく響く。
私はきっと、そんな関係が欲しかった。
そして、ここまで来て
やっと最初の問いに戻ってきた。
じゃあ、そんな人と一体どこで出会うんだろう?
でもこれも
考えてみればものすごく単純だった。
私が、私の周波数で生きればいい。
好きな音楽を聴く。
好きな場所へ行く。
自然の中で、好きなだけぼーっとする。
美味しいものを好きな空間でゆっくり味わう。
面白いと思ったことをとことん考える。
本質的な話をする。
好きな仕事をする。
自分が心地いいと思うテンポで
自分の人生を生きる。
そうやって
「私はこの周波数です」
ということを
人生そのもので鳴らしていけばいい。
だって自分を曲げている場所で誰かと出会ったら
その人が出会うのは
「相手に合わせている私」だ。
でも私が好きなことをして
私が好きな世界を生きている時に出会ったなら
その人が最初に出会うのは、私が好きな私なのだ。
そこで誰かと出会ったら
条件が合っているかだけでもなく
どれだけ私を好きでいてくれるかだけでもなく
「この人といる時の私は好き?」
そう自分に聞いてみればいい。
無理に理解しようとしていないか。
自分を小さくしていないか。
「しょうがない」で自分の大切なものを諦めていないか。
それとも
一緒にいることで、もっと私らしくなっているか。
もっと自由に笑えているか。
もっと自分の好きな世界を好きになれているか。
そうやって考えたら
「あれ?パートナーってどうやって作るんだっけ?」
から始まったこの問いの答えは
意外なほど単純なところにあった。
パートナーを作ろうとして
誰かに合わせに行く必要なんてなかった。
まず私は、私の好きな世界を生きればいい。
「これくらいなら耐えられる」ではなく
「私はこれが好き」を選んで生きればいい。
耐えることで誰かと一緒にいようとするのではなく
自分の「好き」の周波数で生きていけばいい。
好きを極めてただ、やればいい。
その世界で誰かと出会ったら
少し擦り合わせてみる。
そして
一緒に鳴れるなら、一緒に鳴ればいい。
きっと、それくらいでいいのだ。
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