第二十二章 足元に崩れたもの
離婚してくれと言われて、「いいよ」と答えたあの夜から、世界は少しだけ静かになった。
静かになったのは、問題が消えたからではない。
私の中の“期待”が、いよいよ形を失ったからだ。
期待が消えると、怒りも減る。怒りが減ると、沈黙が増える。
私はその沈黙に慣れていた。慣れすぎていた。
だから私は思った。
あとは手続きだけ。
あとは現実の片づけだけ。
長い年月の重みを、紙の上で折りたたむだけ。
けれど――しばらくして、彼が突然、私の前に現れた。
「……助けてくれ」
声が違った。
いつもの“淡々”が剥がれている。
頼る声でもない。怒る声でもない。
怯えた声だった。
私は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
あの人が、怯える?
あの人が、私に助けを求める?
四年半、私が助けてきたのに、私を見なかったあの人が?
彼は私の前で崩れた。
崩れるというより、落ちた。膝が折れ、床に手をつき、そして――私の足にしがみついた。
「お願いだ……助けてくれ……」
泣いていた。声を上げて泣くのではなく、喉の奥で嗚咽が絡むような泣き方。
子どもみたいに、息が詰まって、言葉が破れて、ただ“怖い”だけが漏れてくる泣き方。
私は凍った。
凍ったのは同情ではない。
驚きでもない。
もっと別の、言葉にならない感情だった。
初めてだった。
彼のこんな姿を見るのは。誇りもない。
体裁もない。
理性もない。
恥ずかしさすら、ない。
恥ずかしさというのは、人が最後に持つ薄い膜だ。
その膜がある限り、人はまだ自分の形を保てる。
彼には、その膜がなかった。
「どうしたの」
私がやっと出した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
こういうときに感情を出さない癖が、私には染みついている。
波を立てない。まず状況を聞く。まず整える。
私は“整える人間”として長く生きてきた。
彼は途切れ途切れに話した。
飲み屋の女。
その後ろに、ヤクザがいたこと。
金を要求されたこと。
脅されたこと。
追い詰められたこと。
言葉はうまく繋がらず、筋道も乱れていた。
でも核心だけははっきりしていた。
――自分ではどうにもできなくなった。
――怖い。
――金を払えと言われた。
――助けてくれ。
私は、彼の頭の上に置かれた恐怖を見た。
それは私が看病で見てきた“心の病”の恐怖とは違う。
もっと生々しい、もっと卑俗で、もっと現実の恐怖。
人の影が絡む恐怖。暴力が近づく恐怖。
そして私は、その恐怖の前で、彼がどれほど無力かを見た。
私は、しばらく何も言えなかった。
目の前のこの人は――
四年半、私が朝から晩まで看病した人。
「結婚した時から一度も好きではなかった」と言った人。
「離婚してくれ」と言った人。
その同じ人が、今、私の足にしがみついて泣いている。
助けてくれ、と。
私は思った。
――こんな男と、私は一緒に暮らしていたのだろうか。
それも数年ではない。
数十年。
子どもが生まれて育ち、季節が何度も巡り、家が変わり、町が変わり、顔が変わり、声が変わっていくほどの長さ。
五十年。
私はこの人と、人生を重ねてきたのだろうか。
その事実が、私の心を静かに惨めにした。
彼が惨めなのではない。
惨めなのは――そんな相手を選び、耐え、支え、守ってきた私の時間の方だった。
私はその瞬間、世界の色が少し落ちるのを感じた。
写真の彩度が下がるみたいに。
自分の過去が、急に薄い紙の上に印刷された“他人の人生”みたいに遠のいて見える。
彼の頭の中は、今きっとこうだ。
自分が助かるかどうか。金を払えば済むのか。誰に頼めばいいのか。
彼にとって私は、妻ではない。
“使える手”なのだ。
その理解が、私の胸の奥を冷たくした。
でも同時に、私ははっきり見えたものもあった。
私はもう、この人に幻想を抱いていない。
守るべき「夫」でもなければ、
期待すべき「人生の相棒」でもない。
ただ、一人の弱い人間。
怖くなればしがみつき、助けが必要になれば泣きつく人間。
私はその現実を、骨の中に落とした。
落とすと、不思議と感情は薄くなる。
薄くなるのは冷たいからではない。
やっと“真実の重さ”が定まったからだ。
私は、彼の泣く声を聞きながら、もう一つだけ確信した。
――私は、これ以上、巻き込まれない。
巻き込まれない、というのは突き放すことではない。
私の人生を守る境界線を引くことだ。
私はずっと境界線を引けなかった。
父の前でも、夫の前でも、看病の前でも。
でも今、彼が私の足にしがみついて泣く姿を見て、私は初めて、境界線の必要性を体で理解した。
五十年かけて、やっと。
