【現代文】家燃えて 女逃げても 残るオレ
「大学来たの夢のため そのくせ何もしていない 煙草を吸って酒飲んで あっという間に社会人 夢見ることは美徳なり いつに叶えるその夢は 明日か来月来年か それもいいけど今日のうち 夢にお酒を飲ませよう 夢が酔ったら夢に酔い すぐさま夢を叶えたり 先延ばしせぬ我が夢ぞ」――これは大学二年生時の自作の詩だ。法律の勉強が退屈で堪らず、すでに挫折気味の法学部生ばかりを一斉に募集する教養ゼミがあり、教授の独断と偏見で選ばれし少数精鋭の8名が、その日は「自分が学長を務める大学の校歌を作詞してみよう」という課題に挑んでいたのだった。商法にも民事訴訟法にも全く興味が持て無かったけれど、このゼミだけは楽しみで大学に通っていた。
「ええ校歌やんか。傑作やな。曲をつけたろか? そないに大学つまらんかったん? 学部選びを間違えてもうたんやなぁ。」――サクラの指摘は図星だった。彼女はホテトル嬢のバイト代を学費に充てながら、何だかんだと授業と研究をしっかり熟し、論文を書いて院へ進んだ。これが理系の凄さというもの。敷かれたレールの上を行く人生は一般大衆と変わらずとも、レールの上を走らせる手段のレベルが文系の比では無い。私の様な中途半端なトロッコでは無く、それなりの機関車を製造してしまう様な馬力、それも計画性と安定感に裏打ちされた馬力があるのだ。
「やけど、形あるもんは、いつか消えてまうやん。機関車かて故障すんで。いっくらレールが敷いてあっても、最後は自分で歩くしか無いんちゃうか。」――これもまた図星だった。家は燃える。器は壊れる。金は失せる。女は逃げる。私にそれを痛感させた小説が三島由紀夫の『金閣寺』だった。が、当時17歳の私には、否、恐らくは現在49歳の私にも、この小説は難し過ぎる。現代文の鬼教師による読書感想文の宿題、高校2年生の11作目がそれを存分に物語っている。美の理想たる金閣寺と、醜の現実たる自己との葛藤やら失望やら、そういうのが渦巻いて放火に至るってえのが巷の書評なんだろうけど、この小説の妥当な解釈なんざぁホントんとこ誰にも判るめぇ。
「はじめに書いておくが、私はどうも今日、十一月四日、時間の使い方を失敗したようだ。私は一日の大半を『金閣寺』を読むことに費やした。感想文の提出期限に迫られていたこともあるが、本作品はかねて読みたいと思っていたからだ。私が小説を読みたいだなんて思うのは非常に珍しいことである。
けれど、いい加減な感想文で終わりそうな気が今からする。ある友人T氏は一年生の時、『感想なんてありません』の一言で提出し、赤ペンで『感想が無いのも感想ですから、感想を抱けなかった理由について考え、述べてみましょう』と先生に書かれて返されたことがあったが、私もややこれに似た心境である。
根性で読破したものの、まず何と感想を書いたらいいのか、よく分からないのだ。分からないって答え方は便利なものだが、実際、この小説には分からないところが多い。描かれているのは、片輪という身体的な部分と相まって、根深い精神的な部分で屈折した思想。こういう区別をあまりしたくないが、一般人の私にはこの屈折がいまいち理解しがたい。例えば溝口は吃りという障害が自分と外界を隔てていると考え、我が身と人生について悩む。ここまでは頷けるのだが、疑問はこのあと。この悩みがどう金閣寺と結びつけられよう。単純なウサ晴らしとして放火を断行したのではないゆえに呑み込めない。少年期にどう過ごし、どんなことが心に残ったかが、その人のその後の生き方を大きく左右するといわれるのは確かだろう。この点では放火の動機にも説明がつく。考えてみれば成程、『金の鳳凰』や『有為子』の存在は溝口の心から消え去ることがなかった。
しかし、他にもっと彼なりの事情や苦悩や背景や理由があったはずだ。私にはそれを読み解くことができなかったし、読み解こうともしなかった。これが溝口と外界である私との間を隔てる絶対的な距離というものなのだろう。作中にもあるように、内に閉じこもって生きることを誇りとしない限り、私にはこの距離は耐えられない。もしこの耐えられなさが彼を放火へと導いたのなら、その時点で内から飛び出した彼は外界の人となっていたことになる。
世界を変えるのは行為ではなくて認識だと彼は言った。そしてぎりぎり
まで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。(中略)そして行為を本
当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準
備は、ひとえに、行為をしなくてもよいという最後の認識のためではな
かったか。
認識だけで十分か。認識だけで世界は変わるのか。世界は自分に近づいてくれるのか。そういった不安が行為となって表れてしまう。でも本当は認識だけで終わることに溝口は満足していたのではなかろうか。が、これ以上続けても、溝口の理解には通じないので、話題を柏木に移すこととする。
柏木の考えは、あまりにも感情が入りすぎていて納得できないところもあるが、基本的には好みである。アレッ、すると私にも『禅僧気取』の部分があるのだろうか。ああ、いやだ。いつもニコニコ、それこそ『桃いろのお菓子』みたいで、他愛ない世間話などをしているが、どこかで俺はお前らと違って徳のある人間なのだと他人を見下す。そういう立派な“オトナ”になっていくのだろうか、この私は。ああ、いやだ。
俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像する
よりは、安楽で平和な確信であることは、多分君も知っているとおり
だ。自分の存在の条件と和解しないという決心と、この確信とは、必ず
しも矛盾しない。なぜなら、もし俺がこのままの状態で女に愛され得る
と信じるなら、その分だけ、俺は自分の存在の条件と和解したことにな
るからだ。
ここまでの持論を確立すると、女に愛されないことが誇りになり得るのではないか。みじめな自分の現実に抵抗するには、相応に効果的な哲学である。柏木はこの後これを欲望だの肉体だのにつなげて話を続けているが、多少の誇張はあるものの、ほぼ今の私の考えに近い。むろん思春期特有の性欲とは全く性質の異なる悩みとして、ここにも愛や欲望について悩める者がいたことに、私はいちいち安心し、心強い同志を得たような気分になった。
何を書いているのだか、今日は自分に納得がいかない。でも、感想文にうまく書き表せない心中の葛藤は、間違いなく今後の私の人生にはプラスに作用することだろう。物事をマイナス方向に思考しても、その思考そのものを経験することがプラス。であるならば、人生はプラスのみの積み重ねとも解釈でき、今日の私の時間の使い方も決して失敗などではなかったのだ。これが今日の自分に納得をいかせるための哲学じみた屁理屈である。」
――以上が、私の読書感想文の全文である。京都市北区、衣笠山の麓にある寺が火災に見舞われるという小説を材料にして、「人生とはプラスのみの積み重ね」という論理の飛躍した回答を引き出した。高校生の私って、今よりしっかりしていたのだな。何でも日々の肥やしにしちゃう。学べるという環境を無駄遣いしなかった17歳の私にそっと拍手を送る。
家は燃える。器は壊れる。金は失せる。女は逃げる。形あるものは、いくら大切にしても、いつか消えてしまう。大切にすべきものって、やはり消えないもの、例えば思い出とか自負とか、或いは技能や知恵や知識なのだろうか。そういったものを全部ひっくるめて一言で表すと「学び」なのかも知れない。
学べる、学校に通って勉強が出来る、是、忘れがちだが、実に贅沢なことなのだ。放送大学のイメージソング「人間の贅沢、ひとつ」を初めて聴いた時、私は小椋佳という人の天才ぶり――まあ、東大出て、勧銀入って、曲作って歌手にもなっちゃうんだから、間違いなく天才なんだけど――その天才ぶりに改めて衝撃を受けると共に、その歌詞「望めば 学びは 誰でもが 手に出来る 最高の 贅沢のひとつ」に共鳴した。
他人との比較でしか価値の計測が不可能な財物や地位は、幸福になるための一手段では有っても、幸福そのものでは無い。金持ちになる事、偉くなる事で一時的な優越感には浸れるものの、その後に何をするかで幸福が決まる。至極当然だ。もしかしたら、もっと金持ちの人、もっと偉い人と自らを見比べて嫉妬するかも知れず、即ち財物や地位に依存した幸福追求は抜け出せない迷路なのだ。
幸福とは、他人と比べるものでは無く、自分だけのもの。私だけの夢と使命、私だけの満足と喜び。私にしか感じ得ないものこそが幸福である。だから、人は学ぶことを通じて自分だけの夢と使命、自分だけの満足と喜びを知ろうとするのだ。
この広い地球の中には学びすら困難な状況下に生きる人が居る。が、学びは財物や地位とは異なり「望めば」「手に出来る」。また、学びを許されたとて、人は愚かしくも学歴や成績を争う。が、学びを人生にどう活かすかは他人と比べられるものでは無い。故に、学びを「贅沢」と形容したのはつくづく見事だと感じ入る。
「いつか大切な人と結ばれて、その人と共に人生を歩む」――誰にでもそう願う権利はあるし、「大切な人」を見付けるのは比較的簡単だ。但し、その「大切な人」が私のことを大切な人だと想ってくれるかどうかは別の問題。鯔の詰まり、結ばれなければ「大切な人」が居ないのと同然であり、必然的に独りで生きていくしかない。それでも「独り」である事と「孤独」である事とは異なる。私にとっては「学び」こそがパートナーなのだ。大切な人が居なくても、私に豊かな心の華を咲かせてくれる相手――それが「学び」であり、私は独りではあっても孤独では無い。まあ、友にも恵まれているしね。
「友達だけとちゃうで。ほら、此処に愛人もおるやんか。しかも、こないキレイな現役大学院生やで。跪いて傅かんと罰当たるで。」「はっ、ハハア、お嬢様。ところで、現役で無い大学院生って、居るんですか?」「そら、おるやろ、なんぼでも。試験さえ受かれば、年齢制限の無い世界やん。」「ハハア、恐れ入り奉りまして御座います。」「この会話、気持ちええなあ。私が女王様で、アナタが召使いな。」「ハァ~、お嬢様じゃなくて女王様に昇格ですか?」「コラ、口答えするでない。ここが私の独裁国家である事をよもや忘れたのではあるまいのう。」「ハハア、恐れ入り奉りまして御座います。」――独裁ねえ。私が20代の頃の会社、即ち四半世紀近く前の日本のサラリーマンって、冗談抜きでこんな調子だった。経営陣以外は全員が召使い。そりゃ、サクラみたいにチャーミングな女性の配下だったら、それなりに愉快だったのかも知れないけれど、脂ぎった無能なオジサン達が次々と意味不明な政策を打ち出している。若僧の私の目にはそうとしか映らなかった故、「こいつぁ、いつか役員室に放火する輩が出て来ても、可笑しかねえな」と思ったりしたものだった・・・つづく
