【エッセイ】わがまま
久しぶりのnoteですが、ネガティブな内容です。なぜならわたしがネガティブな時期だから。
わたしは幼い頃から、両親に「他人様に迷惑をかけるな」「気付ける大人になれ」と教えられて育ってきた。けれど、学校ではわがままなあの子のほうが先生から贔屓されていた。わがままな方が可愛い。手がかかる程大切になる。成長するにつれ、そんな思考になっていった。
まあ、そうだろうとは思う。こんな生意気なガキ、誰にでも煙たがられる。高校生の頃には先生に好かれようと必死で、冗談なんかも言ってみたけれど、友だちを交えて話をしているときしか勇気を出せず、結局“先生と仲良くなる”という目標は叶わずに学生生活は終わってしまった。
今でも、自分勝手なことは言ってはいけない、と自戒している節がある。きっとこれからも、わがままなんて可愛いことは言えないんだろうな、と思う。結局可愛くなることに負けている。
惨めで、悲しくて、なのにどうにもできない。なんとかしようとしても、やり方がわからない。まさに八方塞がり。
わがままを模索していた頃は、こんなに淡々と言葉を紡ぐ人間になっているなんて微塵も思っていなかった。よくもまあここまで可愛げなく育つとは。
ただ愛されたかった。必要とされたかった。クラスで囲まれているあの子になりたかっただけ。
よく恋人にわがままが言える女の子は愛される、なんて恋愛ノウハウを見る。わがまま、言えたほうがいいのか。わがままってなんだ?それすらもわからないわたしには、恋愛は向いていないのだろうか。否、恋愛が私に向いていないのだろうか。
どちらにせよ、わがままな女の子を見るたびにわたしの恋人としてのポテンシャルの低さを突きつけられた気がして、いたたまれない。自分で自分を抱きしめてあげたい気分だ。
よく成功体験が自信につながるというが、失敗体験は自尊心の欠如につながるのである。躓くたびに強くなれる?失敗するほど財産になる?
否、弱くなるし、負の財産にしかならない。誰が言い出したんだ、こんなこと。全員が全員メンタルに核があると思うなよ、なんて憤りを覚えながら今日も生きているわけだが、惰性で生きていくしかないんだなあ、と常々思う。
信念とか自尊心とか、そういう核が無いせいで、自分に言われた評価を気にしては、その次に入ってきた評価に気を取られ、前に褒められたことばはどこかへ抜け出してしまう。
いやラウンドアバウトか。

まさに感情交差点。
わたしの場合この中心点にあるはずの核がないから、矢印も目印もなくなって綯交ぜになってしまう。つまり情報や感情が、わたしの意識下という四次元で交通事故を起こしているのだ。
これはもう誰もどうすることもできないだろう。しかも芸大に入学する前はこの出口が1つか2つしかなくて、それに依存して余計に絡まっていた。
今は友人やnoteなどという3つ4つの出口ができたからマシになったものの、なにしろ未だ自分に核がないので、相変わらずごちゃごちゃになるときはごちゃごちゃである。
生まれてこのかたではあるが、子どもながらに体験するはずの“かわいい”という成功をしなかったため、失敗を成功する、失敗成功体験を引きずっている。
わたしはなにを言っているんだ。そしてわたしは何者なんだ。だれかわたしの脳内を交通整理してください。
それでは最後に一曲紹介。
フラワーカンパニーズで『感情七号線』。
