有吉佐和子さんの執筆活動がテレビで放映された。
映し出された幾つかの場面で印象的だったのが、病室のテーブルは資料の束で山になっていた。有吉さんはそれらを読み込んで小説に落とした。
かつて、小松左京さんや松本清張さんもこのような光景でモノを書いていた。
知の巨人、立花隆さんもだった。
モノを書く人がどれだけ資料を読み、より真実に近づこうとしているのだろう。
頭に浮かんだ映像や省察を描くだけが創作なのか、いや、日頃から訓練しているのか。
片目だけを開き、都合のいいことしか見ない者は、創作を名乗る資格すらない。
真実を検証しようとしない人間に、創作はできない。なぜなら、真実ではなく希望的観測で、奥行のない文字の筋だから。
冷静さのない考察は、インセンティブほしさでテキトーな噂を流す迷惑系youtuberと同じ。
創作じゃない。
自分が書いたものへ責任などない、妄言。
「本当にそうなのか」検証もしない考察ほど人迷惑なことはない。
不安を煽り、民意を二分化して、ときに人格否定する名誉毀損にしかなってない。
それで物書きを自称するな、恥ずかしい。
厚顔無恥だ。
資料を探す、読みこなせる能力がないなら、学級会のような魔女狩りに参加しないこと。
少なくとも、あなたの楽観視は露見しない。
だからわたしは資料を読むことを怠らない。
論文は字が小さく、一度では頭に入ってこない暗号だ。
別の意見もあるのではないかと批判的に読むので人一倍、時間がかかる。
批判的に読むとは、単に相手の意見を否定することではない。
分かりやすく言えば、
ある社会問題に関する一つの記事を読んだとき、わたしはまず、その記事が依拠している情報源を確認する。
情報源は信頼できる公的機関のものか?
それとも特定の思想を持つ団体のものか?
さらに記事が取り上げていない視点はないかを探る。
賛成意見ばかりでなく、反対意見や少数派の声はどうなっているのか。
複数の資料を比較検討する中で、
「この記事は、この事実だけを切り取って都合よく使っているな」と気づくときがある。
中学生の頃、新聞の社説を読む宿題は、この力を身につけるためにあった。
こうした多角的な検証こそが、偏見に満ちた妄言ではなく、奥行きのある確かな創作を紡ぐ能力になると信じている。
真実に近づこうとする営みが創作に必要な姿勢だと思う。
拙筆なわたし自身も安易な言葉ではなく、裏打ちされた話を書きたい。
ペラッペラなキンクマやタツジュンは書きたくない。本当に存在しているんじゃないかと思わせるキャラクターを書きたい。
読者を錯覚させるためには努力を惜しまない。
ところで、なぜ、そのような奥行きのない創作が蔓延してしまうのか。
あくまでも推論として、
noteを観察していると、創作の速さとマネタイズという二つの大きな力に突き動かされているのに気づく。
SNSでは瞬時に人々の関心を引きつけ、共感を得ることが求められる。
時間をかけて資料を読み込むよりも、既存の流行や噂に乗り、手っ取り早く注目を集めるほうが効率的に見えてしまい、また、イイネや再生回数が直接インセンティブとなるので、多くの人に好まれる希望的観測を真実かのように見せかけてしまう。
こんな環境が腰を据えて探究する姿勢を、困難にさせている気がしてならない。
わたし達は何を信じ、どんな言葉に耳を傾ければいいのか。真実に触れようとする努力を、どれだけ大切にできるのだろう。
もとより、真実とはなんなのか。
わたし達が創作で追い求める真実とは、一体なんなのか。
なんか、歴史の正確な年号や科学的なデータだけを指すものではないと、わたしは思う。
人が抱える普遍的な感情、時代を超えて、変わらない人々の心の動き、そして誰もが共感できるような心理の根底にある本質が重要視されているんじゃないかと思う。
たとえば、『ハリーポッター』は、親を殺した宿敵に復讐する。対決するまでのプロセスは、学校で魔術を学び、魔法界で体験を重ねる。
主人公は友情を育みながら成長していく。
キンクマやタツジュンについて言うなら、読者を錯覚させたいと願うのは、彼らが実在するかのような説得力、つまり、キャラクターの感情や行動が真実味を帯びるように、繊細に描きたいという欲求に他ならない。
事実と虚構の境界線で、いかに人としての深みを追求できるか。それが創作における真実への問いだと考えている。
不特定多数が目にするものだから、作品は自分の子どもだから。
巨匠たちの机には必ず資料の山があった。
それは創作の誠実さの証だと思う。
その背中を忘れたくない。
もちろん、わたしはこれからも自分に問う。
まず自分がどう行動しているかを振り返り、語るより実践のほうが固いのは周知の事実だと思うから。
noteを書く・語るときも、人様に押し付けではなく、自分の考えとしてシェアする形にしたい。
わたし達はどんな言葉を真実と呼び、どんな語を信じたいのだろう。
選択こそが書き手としての矜持を決めるのだと思う。
