言葉の刃とボカす筆
創作って分かりやすく、善人と悪人を区別して書かなきゃいけない場合もあって。
水戸黄門のドラマや池井戸潤などね。
創作には、記号としての善悪が求められる場面がある。
視聴者や読者がすぐに感情移入し、すっきりとしたカタルシスを得るためには、善人・悪人の区別がはっきりしていた方が分かりよい。
勧善懲悪の構造は、物語としての「分かりやすさ」「爽快感」「教訓性」を担保する。
だから水戸黄門や池井戸潤の脚本なんかは、ある意味で「様式美」なんだよね。
観る側もそれを望んでるし、書く側も計算してやっている。
でも。
善人の中にある悪意、悪人の中にある善意を描くのが、もっと文豪が書く作品になるのだけど。
人間ってそんな単純じゃない。
善人の顔をして残酷なことをする人もいれば、
悪人とされる人の中に救いのような光が潜んでいることもある。
そこに踏み込むとき、
物語は「エンタメ」から「文学」に変わる。
読者に痛みや葛藤を突きつける、
答えのない問いを残す。
それはエンタメより難しく、でもずっと深い。
どちらも創作だけど、目指している地点が違う。
大衆の求める納得か心の奥底を抉る真実か。
どちらを書くかは作家の選択だけど、
わたしは間違いなく、後者を描きたいと願う。
どこかの集団で誰かの本音が漏れたとき。言葉の裏に隠れた刃がチラッと光り、場が凍った。
一見、混沌としている人間関係トラブルの地獄絵にも、構図がある。力関係があり、演出があり、観客がいる。
感情の流れ、発火点、群衆心理。
そういうものを一歩引いて俯瞰できる目がほしい。それこそが創作者に必要な視野だと思う。
誰が主人公で、誰が脇役か。
誰が自分の物語を生き、誰が誰かの物語に利用されているか。
自分が何を見て、何を感じて、何をあえて描かないか。
それを判断する力が創作には要る。
だからこそ、見えないことを無邪気に誇るような人。盲目的に感情に流されるだけで、背景や構図を把握できない人には、少なくとも人間を描く創作は向いてないかもしれない。
痛いところを抉るようなリアリティには届かない。
創作に向いている人は不気味な現実の地図を、感覚だけじゃなく構造としても読める人なんだと思う。
ジャッジはしないけど読めるというのは、創作の上での強みで、感情に飲まれず、それを表現に昇華できる人の在り方じゃないかな。
