美しいだけの文章は残らない
前提は、noteの話ではない。
大事なことでも、最初に書いたし3回書かないよ。
最近ぼちぼち読書をしていると、無意識に美文を選んでいるせいか、整った文章に出会う。
だけど、作者とタイトルが一致しなくなったのは気のせいなのか。
本を読むのをノルマにしていないにも関わらず、
「はい、一丁あがり!」
味わいがよく分からなかった。
美文って、読みやすいけど個性がなけりゃ感化される要素もない。文学は消費されるものなんだなと感じてしまう。
編集者の目に留まり、一生懸命に生産しても、
「読みました」で終わる文章。
それはそれで作者の実績になるので、読者の手元にいくと、どう扱われようが実績は変わらない。
そんな美文がなぜ大切にされる、受賞しちゃうんだろうなと逆に思う。
AIに書かせておけばよいのにね。
美文って、目を引くし、読んでて気持ちいい。
でも、気持ちいいだけで終わっちゃうなら、読んだ後に何も残らないのも当然だよね。
賞を取るような文章が、一番“安全”で”無難”なものばかりだったら、文学って消費されるどころか、ただの飾り物になっちゃうよ。
AIにだって書けるような文章が評価されるなら、わたし達が本を読む意味って何なんだろう。
味わいが分からないまま「一丁あがり!」って言うのも、なんだか虚しいだけ。
春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
同じ美文。それも「つまらない」と読み飛ばされやすい情景描写が人々の心を刺して、抜けない。
カーテンを引いて、あさぼらけに「春だな」と、なぜ枕草子が出てきて、他の美文は出て来ないのか、わたしには不思議でたまらない。
美文は整っていて読みやすい。
でも、読者の心に爪痕を残すような乱暴だったり、不完全だったりする文章の方が、記憶に残るんじゃないか。
そう考えると美文が賞を取るのは、
文学が完成度っていう基準で評価されるからなのかもしれない。
AIが書いたとしても、完成度の高さで賞を取れるなら、文学って何のためにあるんだろう?
作者の魂がなくてもいいのかな。
なくていいのかもしれないよ。
いつだったか、星新一賞はAIが書いた作品が受賞した。
作者はnoteをなさっている方で、記事を読むと
「(作者は)文章力や表現力に自信がないので、
アイデアを入力して、あとはAIにお任せした」と書いてあったと記憶している。
それを鑑みたとき、
作者がどれだけ情熱を込めて書いたとしても、
読者が「ふーん、きれいな文章だね」で終わらせたら、それで終わり。
編集者は売れるを見極めるし、読者は消費するだけで、誰も裏にある苦労や意図を汲み取らない。
美文が受賞するのは、むしろその無難さが評価されているだけなんじゃないか。そう思うと、AIに任せても同じ結果になるのも納得がいく。
だって、文学は商品だから。
美文が賞を取るのは、審査員や世間が美しさを求めていると仮定した場合、
美しさって誰にとってのものなんだろう。
読者が味わう前に、すでに価値があると決めつけられている気がしてならない。
だったらAIがその基準を学習して、完璧な美文を量産すれば、文学賞だって簡単に取れる時代が来るかもしれない。そうなったら、文学の人間らしさってどこに残るんだろうね。
人間らしさ、美文とくれば
『三島由紀夫』『金閣寺』が代表的だと思う。
表現は本当に美しいが
「溝口、頭がヤバくね?」
美へこだわり、金閣を焼こうとする溝口の頭の中って、整った美文とは真逆の狂気そのものだよ。
『頭がヤバい』人間らしさだとわたしは感じる。
要らないか。いや、やっぱり必要だわ。
文学は人間関係に由来するでしょう?
孤独な世界でコツコツ書く時代は終焉を迎え、
また陽キャに内向的な人の陣地を横取りされたような、口の中に土が入った気分になった。
それでも文学を書く意味はあるのかな?
消費されても、誰かの朝へ枕草子みたいに浮かぶなら、それでいいのかもね。
