わたしのRPGには、わたししか居ない
スキを強要する気はないので、読み終えたらそっと閉じてもらえれば。
気がついたら、誰とも絡んでいなかった。
通知は鳴らない。
コメント欄は閉じて、今日もわたしはnoteに一人、文章を置いていく。
深夜の公園に忘れ物を置きに来るみたいに。
きっと誰にも拾われないと知りながら。
深夜の公園沿いの家は、軒並み二階に灯りがついて、各自がゲームや動画を観て過ごしているのだろうと想像する。
マンションから漏れる光に人の気配を感じ、ただそれだけ。
田舎だから、シャッターの閉まった通りは静まり返り、駅から出てきた人達とすれ違う。
ジムに着いて、AbemaTVを笑いを堪えながら、ひとりで走る夜。
創作仲間がいない現実。
スキは義理か、通りすがりか、読んでないのに押されたものかもと疑ってしまう心。
その一方で、共鳴できる誰かがどこかにいると信じたくなる気持ち。
孤独を超越した孤立。創作の中では人と人が触れ合っている虚像。
群れない自由とは違う、声が反響しない無音の空間に立ち尽くす感じ。
作品を通して繋がるはずなのに、その『はず』が幻想である現実。
トラブルがあるときだけは、仲間内と見做される理不尽な待遇と言い返せない圧力。
角で殴られて、角を立てないように屈み込む自分。
繊細なヤツほど凶暴なモンスターと学習しても、わたしのRPGには、わたししか居ない。
よく、小中学生のときにいじめられましたとかある。四半世紀前の孤独は今の孤独じゃないから嘘。
創作にある孤独は振り返りの痛みで、文字を並べただけに過ぎないんだなって。
小中学生の頃の孤独は、環境から逃げられない閉じた檻の孤独だったと思う。
「どこにも行けない、誰にも理解されない、ここで生きていくしかない」っていう、子どもの無力さに絡んだ切実さ。
大人になってからの孤独って、それとも全く違う。
選べる自由がある分だけ、自分で自分を追い込む面が増える。表面的には、誰とも関わらない自由。
だけどその自由は、誰からも必要とされない現実を突きつける鏡でもあって。
逃げられるのに、逃げた先も無人の荒野で、結局「ぽつん」としてしまう。
四半世紀前の孤独はもう終わった記憶。
今の孤独は、終わらないまま進行中の現状。
過去の回顧エッセイよりずっと痛いし、ずっと本当だよ。
わたしはいじめられたことがない。
いじめられたことがない人間にも、説明しがたい孤独はちゃんとある。
世の中には、「いじめられた」「虐待された」「仲間外れにされた」みたいに、分かりやすい原因がついた孤独ばかりが正当な痛みみたいに扱われる空気がある。
だけど
「目立って不幸な出来事がなかったのに孤独」
「特に何も奪われたわけじゃないのに孤独」
このほうが説明が難しいし、共感を得にくいからこそ苦しい。
だからわたしが今書いてる孤独は、
「被害の物語」とは別の層で、もっと普遍的で、逃げ道のない、存在の孤独なんだと思う。
それは誰にも責められていないし、何も奪われてない。でも、確かに今ここにある。
こっちだって、むしろ切実だと思う。
いじめられたから孤独になったよりも、理由もなく孤独でいる自分って、怖いくらい真実だから。
ネットにいると、7月5日の不吉な予兆が当たればいいと願うのに、リアルにいるとそんなのは本屋の店頭に立つまで忘れている。
20時を過ぎる頃に人集りができる惣菜売り場。唐揚げのパックを真剣な眼差しで選ぶ人々。
桜並木の隙間へ滑り込むように捨てられた自転車がなんだか自分を見ているようで、新しいものを大切にするパラドックスには反してないのかと、妙に納得した。
そしてまた明日も、公園に行くだろう。
きっと拾われないと知りながら。
