小説: ペトリコールの共鳴 ⑧
第八話 陽だまりの罠
『陽だまりのアヒル』これが女のSNSネーム。
しかし女からは本名の愛羅で呼んでほしいとメッセージがあった。
愛羅はDMから1時間ほどしてマンションに到着し、人懐っこい笑顔を俺に見せる。
「タツジュンさんに会いたかったです」
リビングに招き入れても少し距離を置いて座る愛羅を常識のある女だと思った。
清楚というより全体的に地味で垢抜けない愛羅は、31歳らしいが30代後半に見え、SNSの印象と違っていた。
キンクマのケージを見つけ
「うわわ、きゃわゆい!」ワンオクターブ高くなった声は舌足らずで、愛羅の可愛さが増す。
「ネズミさまを抱っこしていいですか?」
俺が許可する前にケージを開け、キンクマへ手を伸ばす愛羅に子どもっぽさがあった。
「あたし、有り合わせでご飯を作るのが得意で。
男の人の一人暮らしは栄養が偏るでしょ?」
と言いながら冷蔵庫を開け
「ああ、the男の冷蔵庫って感じ。
でも、そういうタツジュンさんだから信じられる」
卵となめ茸を具にした炒飯を二人で食べる。
「あたし、男の人へご飯を作るの初めてでして、
タツジュンさんから美味しいって言ってもらって
嬉しいです」
愛羅は両手を団扇のように顔の前ではたく。
「ふふ。照れます」
「タツジュンさん、あたし、飲めないビールで酔ったみたいです。なんか眠いです。
タツジュンさんの肩を借りて少し寝てもいいですか」
「あたしみたいな繊細な女子、男の人は苦手みたい。全然彼氏が出来ないもん」
「ああ、タツジュンさんからいい匂いがする」
これもあれも全部、演技。セリフは嘘。
愛羅は俺を性行為に持ち込むため、性的な匂わせをせずに近寄ってきたに過ぎない。人の防御をヌルっとかわして俺から自発的に手を出す布石。
それも今になっては俺の後付けした詭弁。
仮面の下が垣間見れたとき。
俺は酷い倦怠感が全身を包囲して、ハムスターのキンクマも時既に遅しの状態だった。
警察や弁護士の説明では、俺は愛羅と初対面の日から過剰摂取量の精神薬を盛られており、それは“マニュアル” “日誌”へ記載されていたという。
愛羅がうちのマンションへ来て、2日もすれば
愛羅は自分の荷物を持ち込み我が物顔で居座り、
俺の倦怠感は晴れず、愛羅の威圧感へ従うと心地よさを覚えた。
俺の生き方やなすことを全肯定してくれる。
厳しい口調だが、愛羅は逃げ道になるアドバイスをくれる。その通りにすると愛羅は喜び甘えてくる。
愛羅から金品の要求はなかった。
居座られても紛失物がなく、日頃の行いはガサツだが、丁寧に掃除が施された部屋を愛羅は構築する。気持ちほどの金額を御礼に渡すと
「タツジュンさんに分かってもらえて嬉しい」
涙ぐんで見せた。
今思うと、初対面でアピールした手料理より掃除が丁寧なのは、愛羅は常に最低限の証拠しか残さない計算と退去の段取りをしていたのだと思う。
それに礼を弾んだのだから、愛羅は腹の中で笑いが止まらなかったに違いない。
アメとムチを使いこなす女。
舌足らずの声と低い艶のない声の持ち主。
今なら間違いだと判るものまで愛羅が言うと説得力があり、愛羅が正しい。そうするべきなんだと服従していった。
