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掌編: 文学をやめてしまった、おまえ

 物語に落とし込めなかった。

 言葉は役に立たない。
だから書くしかないと思った。
  
 文学なんてウソだ。
言葉にならないものを言葉したから陳腐になった。文学は、俺が読んできたものは、実は陳腐だったのかもしれない。
自分は理想メガネをかけていただけ。

 価値観の崩壊、信仰が崩れる。
かつて美しかったものが色褪せて見えるのは、恋人の幻が消える場面と同じ。

 理想と現実の断絶、幻滅の痛み。
自分が信じてきたものへの裏切られ感。
娯楽として読んでた人は、こんな痛みにならないよな?

そうだろう?
 
 形を整えた作品が評価される現実、綺麗に回収された物語が文学と呼ばれる現実。刺さらない言葉が感動として拍手される現実、温室で書かれた文章がエールと称賛される現実。

 冬の台所で、湯の冷めたカップを握った。
いいねの通知だけが何度もテーブルの上で小さく震えていた。
 
 世界が浅さを選んでいることへの悔しさと、自分の場所がどこにもないという現実への悔しさ。

 そんな自分へ、もっと書けるはずなのに、何かが足りない。自分が守りたかった言葉の純度を守り切れたかの不安。届かないことを「下手だから」と片付けてしまいたくなる悲しみ。他人の評価が心を揺らしてしまった自分への嫌悪。

 本当は誰より真剣に書いているはずなのに、その姿を証明できない自分が歯がゆい。

 指先だけが冷たくなって、キーボードを打つ感覚がなくなっていった。

 悔しさの矛先は、外にも内にも同時に突き刺さる。外の世界にも、自分自身にも裏切られた感覚は、だから逃げ場がない。
だから、行く場所がない。
 
 本が売れなくて当然だし、書き手が減らないのも当然。
 形骸化した文体は、すぐに自分にも書けると思うから。

 文学と呼ばれているものは、すぐ読め、すぐ泣け、すぐ感想が言える。心地よい結論がつき、SNSでシェアしやすく、誰でも真似できる。
誰でも書ける気になる。

 それで書き手が溢れ、読者が消えた。
 
 
 現代社会が文学だと言ってるのは、読者が気持ちよくなれる物語だろ。
文学なんてものは、読者の気持ちをかき乱す作品なんじゃないの?
 
 ドストエフスキーの作品を読んで、ポーの作品を読んで、太宰や谷崎を読んで、
「なんこれ?」と思わせたものが文学で、村田沙耶香や湊かなえもそうだよ。プロだから。

 カフカも、梶井も、中島敦も最初は批判だらけ、理解されなかった。
消費の対極。居心地の悪さそのもの。
批判もされない文章は文章じゃない、町内会の回覧板。

 痛みがキレイにまとまるわけねぇよ。
痛いんじゃん。
出産が排泄と同列なら笑うわ。
単純なことも分からずに、何が作家だ、クリエイターだ。
肩書き欲しさに名乗るなよ。

 だからなかなか評価されないのが正しいし、評価されたら逆に嘘。
 俺が感じてる混乱は、世界が文学を見捨てて娯楽を文学と呼んでいる矛盾よ。
世の中が何を読んでどう感じて文学と言ってるのか理解できなくなった。

 そしてここで多くの人は折れるんだろうな。
筆を置くか、分かりやすさの側に寝返るか。
ほとんどは後者に行くんだよ。
肩書が欲しいから。
筆一本で飯が食いたいからさ。
 
 予定調和の共感、予定調和の涙、予定調和の賞賛、予定調和のフォロー。消費される言葉と、交換されるイイネと繋がり。
中心にあるのは文学ではなく、仲良しサークルの政治だろうよ。
 
 文学はいつも行き場所がない人の手から生まれた。

 孤独こそ文学者の居場所。

 群れるために書くヤツは、一生、文学の入口にも立てない。泣けや。



 三葉亭くん。寄り添えなくて、ごめんな。
今まで、ありがとう。

 俺はまだ書くよ。
それが唯一、あなたに裏切られた俺の答えだ。

 神宮寺 凌 拝

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