母がいた-秘密の取引
今日は朝から病院に行ってきた。
消毒液の香りが漂う病院の待合室が、僕は好きだ。
入退院を繰り返していた母との思い出のそばには
いつも病院の香りがあったからかもしれない。
待合室は相変わらず賑やかで、
「お静かに」と書いてある張り紙が、どこか遠慮がちに見える。
診察を待つ人たちは、体の不調よりも、
生活の不調を持ち寄っているようだった。
「うちの息子がね」「あの看護師さんがね」と、話題は尽きない。
消毒液の香りの中で、人生は今日も忙しく動いているのだろう。
その様子を見ていると、入院していた頃の母を思い出す。
母のベッドと車椅子の周りには、なぜかいつも人が集まっていた。
点滴スタンドを脇に置きながら、隣のベッドの人の愚痴を聞き、
廊下で捕まったらまた誰かの相談に乗る。
母は、病室の中で小さな町内会を開いているようだった。
「ちょっと聞いてくれん?」から始まる話を、母はうんうんと聞く。
途中で口を挟まず、否定もせず、ただ相手の言葉を返す。
そして最後には、たいていこう言うのだ。
「それ、あんたはもう答えわかっとるよね」
不思議なもので、相談していた人は、はっとした顔になる。
母が何かを与えたわけではない。ただ、背中を押しただけだ。
答えは最初から、その人の中にあった。
そんな母に、こっそり差し出されるものがあった。
本来は持ち込み禁止のお菓子だ。
チョコレート。飴。グミ。
「これ、内緒ね」と言いながら、枕元にそっと置いていく。
母はそれを引き出しにしまいながら、
「これは相談料なんよ」と笑っていた。
包み紙の音が鳴らないように気をつけて、
看護師さんの足音が遠ざかるのを待ってから食べる。
病院の薄いカーテンの内側で、小さな共犯関係ができあがっていた。
僕は開封されたお菓子の包み紙を持ち帰る処分屋の気分。
弱っているはずの人たちの中で、母はなぜか一番しゃんとしていた。
ベッドの上でも、人の輪の中心にいた。
今日の待合室で、楽しそうにおしゃべりしている人たちを見て、少しだけ安心した。人はどこにいても、話したいし、聞いてほしいのだ。きっとこの病院にも、母のような人がいるのだろう。その人にも、内緒の相談料が支払われているのだろうか。そう思うとなんだか少し笑えた。
うんうんと聞きながら
そっと結論まで導いて
相談料にはこっそりチョコレートをもらう。
そんな、母がいた。
