天皇は「権威」、とすることによる問題
昨日の記事で、天皇は権威であるというようなコメントを頂戴しましたので、権威とすることの意味を考えたいと思います。
私は、明仁上皇を尊敬に値する方だと思っています。
それは、敗戦後のあの時代に、20歳そこそこの皇太子という身分で欧州外交に行き、これからの日本のために、ひとりで外交されたことを始め、即位後も象徴天皇としての存在に、真摯に向き合われてこられたからです。
それは、昭和天皇の子として生まれた人だからというのではなく、尊敬に値する行動をされた人だからですね。
同様に、徳仁天皇も応援したくなる方だと思います。
家族を大切にする人であり、明仁上皇の追い求めた象徴天皇像を継承しようとされている人なので。
だから、天皇は権威か? と問われると、正直、歴史的には権威だったかもしれないけれど、今それを声に出して言うことに違和感はありますよね。
天皇を権威とすることの問題① 戦争責任
というのも、敗戦後の日本で天皇を権威と認めてしまえば、あれ? 天皇の戦争責任がうやむやにされてことに抵触しないか? 問題が、出てくると思うんです。
先の戦争は、天皇の名のもとに行われたことになっているので、天皇の戦争責任問題は限りなくグレーだと思います。
ただ実際には、政府も軍部も昭和天皇に事実を伝えてなかったし、昭和天皇も226事件などを目にすると、迂闊に口を出せない危機感の中にあったと思われます。
それで、GHQによる統治のしやすさというアメリカの都合も相まって、昭和天皇の戦争責任はうやむやにされたわけですけど。
それなのに、権威だ権威だと当の日本人が口にしてたら、やっぱり天皇に戦争責任はあったんじゃない? ってことの呼び水になりゃしません?
それがあるから、昭和天皇も明仁上皇も徳仁天皇も、先の戦争に対するお言葉には細心の注意を払っておられたわけで。
なのに、国民が水を差してどうする?
天皇に権威を感じるならなおのこと、権威だと表明してはいけない。
そんなダブルスタンダードって、普通にあちこちで存在すると思うんですけどね。
天皇を権威とすることの問題② 前近代の感覚
天皇を権威として、国民の総意は関係ないとする考え方って、東洋的だなあと思うんですよね。
東洋の皇帝って、神秘性で権威付けをする傾向にあると、どこかで読みました。
西洋の王が、民衆に開かれたものであるのと対照的に。
なんで? と問われても、キリスト教の有無が影響してるかな? くらいしか思いつかないんですが。市民革命は西洋生まれですよね。
で、21世紀のこの時代に、神秘性を第一に掲げて、市民の総意を蔑ろにする象徴(君主ではない)というのは、近代民主主義国家としては、違和感が残りますね。
それじゃあムスリム国家の王様と変わらないじゃん。
そもそも徳仁天皇も秋篠宮も、国民の総意や国民の理解が必要だと認識されているので。
(秋篠宮は眞子さんの結婚のときに、小室さんに国民の理解を得ることを求めましたよね)
それはやっぱり、国民の理解が得られなくなれば、皇室の存在も危うくなることを、世界史レベルでご存じだからですよね。
国民の総意なんて関係ないとする方々に、当の皇族の方々は、ちょっと待て! とツッコミたいんじゃないか、でもできなくて歯痒く思われてるんじゃないか、まさに今そこ! だと思ってます。
仮にも民主主義国家の看板を上げてる以上、国民の総意より大事なものがあるとか、伝統が第一とか、それは思ってても表明しちゃいけないもんなんですよ、特に皇族の方々からしてみたら。
なんだ、やっぱり日本って民主主義国家じゃないんじゃん! てなると、戦後の反省も全部嘘かい? となっちゃうから、明仁上皇の努力が全部水泡に帰してしまう……。
天皇制は、一度壊すともうそこで終わってしまうので、そんなのはもったいない! と文化継承の意味で私は思っています。
だから、壊したくなければ、明仁上皇がなぜあのような行動を取ってこられたのか、そこから考えて、我々も言葉を選ぶべきじゃないかなあと思うんですが。
さて、みなさんはどう思われますか?
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