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【創作大賞2025応募作】メモリアル・コード

あらすじ

ソウタは、どこか満たされない気持ちを抱えながら、ひとり暮らしの部屋で淡々とした日々を送っていた。気晴らしに手を伸ばすのは、大好きなゲーム。プレイするのは、たまたま立ち寄った店で、ふと目を奪われた一本のソフト。普段なら選ばない、恋愛シミュレーションゲーム。けれど、パッケージを見た瞬間、吸い寄せられるようにレジへと運んでいた。
ゲームを起動した瞬間、静かだった部屋に、柔らかな光と共にタイトルが浮かび上がる。
その時は、まだ知らなかった。このゲームが、ただの娯楽では終わらないことを……

創作大賞2025応募作を加筆修正しています。
初めて書いた小説です!
ぜひ、読んでいってください!


第1章 起動


『ソウタ』

誰かが俺の名前を呼んだ、気がした。どこか懐かしく、けれど思い出せない。

名前を呼ばれたはずなのに、声の主の顔が思い出せない。それが不意に寂しさを運んでくる。

気づけば俺は、自宅のアパートの玄関の前に立っていた。ドアを開け、「ただいま」と小さくつぶやく。

当然ながら一人暮らしの部屋からは、返事はどこからも返ってこない。部屋の中はいつも通り整っており、少し乾いた空気が漂っている。

先ほど買ってきたコンビニのビニール袋から、カップラーメンを取り出し、お湯を注ぐ。それと同時にキッチンタイマーをスタート。時間はきっちり3分間。

ラーメンができあがるのを待っている間、ぼーっと室内を眺めていたが、湯気の向こうに見える壁の白さが、なぜか今日はやけに無機質に見えた。

できあがったラーメンをすすりながら、テレビ台の上に置かれた一本のゲームソフトに目が留まる。

《メモリアル・コード》

最近話題の恋愛シミュレーションゲームだ。普段はRPGゲームばかりプレイしているが、このゲームのパッケージに、なぜか吸い寄せられて、気づけば購入していた。

説明書は紙のタイプだった。しっかり最後まで目を通す。選択肢に応じて物語が枝分かれし、複数のヒロインとの結末が変わる。この手のゲームは初めてだが、よくある形式なんだろう。

ソフトをセットし、コントローラーを握りしめると、指先がわずかに汗ばんでいた。
オープニングが始まり、淡いピンクと水色を基調としたタイトルロゴがふわりと浮かび上がる。

「ようこそ、《メモリアル・コード》へ!」

メッセージウィンドウに文字が現れる。ナレーションはない。なのに、その文字列からは妙な温度が伝わってくる。

「まずは、君の名前を教えてね!」

少しためらいつつも、自分の名前を入力してみる。心なしか頬が熱くなるのを感じた。

「はじめまして、ソウタ。僕はサポートキャラクターのナギ。よろしくね。君のゲームクリアに向けて全力でサポートするよ!」

ナギが、淡々とルールを説明していく。なぜか、その声のない語りかけに、人の気配が宿っているように感じてしまう。


画面が教室の映像に切り替わり、制服姿の少女が立っていた。カナと名乗った彼女は、テニス部の部長、という設定らしい。
カナは持ち前のコミュニケーション能力で、積極的に話しかけてくる。

「それじゃ、また昼休みに!」

これから、女の子とのイベントで適切な選択を重ね、好感度を上げてエンディングまで導いていくのだろう。


そこから、イベントやデートを重ね、カナの好感度を上げていった。話題になっているゲームというだけあって、イラストの描写や作りこまれたストーリーに、俺はだんだんとゲームの世界に引き込まれていった。

順調にカナの好感度を最大まで高め、ついに最後のイベントを迎えた。

俺は迷わず、【カナに告白する】を選んだ。

「私も好きだよ、ソウタ」

笑顔で語りかけるカナ。その目には涙を浮かべながらこちらに向かって手を伸ばしてくる。

選択肢はもう現れなかった。

画面がゆっくりと暗転し、スタッフロールが流れ始めた。

俺はコントローラーをソファの横に置き、息を吐く。

「初めてプレイしてみたけど、結構面白かったな」

まるで映画を観た後のような、空虚で静かな感覚が部屋に広がる。

テレビの画面には、タイトルに戻る演出もなく、ただ静かな光が揺れている。

ノイズ混じりの音が、一瞬だけ混ざったような気がした。

「変だな」

そう思ったときには、まぶたが重くなっていた。睡魔というには異常なほどの、急激な眠気。

「少しだけ、寝よう」

俺はソファに身を預けて、目を閉じた。
静寂が、部屋の空気を満たしていく。

まどろみの中で、声が聞こえた。

『ソウタ』

誰かが名前を呼ぶ。優しい声。懐かしい響き。

心臓の鼓動が速くなる。

目を開けようとするが、まぶたは重いまま。意識は深く沈み、足元から引きずり込まれるように落ちていく。


……え?

次の瞬間、俺は教室の椅子に座っていた。

窓の外では風が木々を揺らし、チャイムの音が鳴り響く。机の上には教科書とノート。

夢を見ていたのか。あるいは、今この瞬間が夢なのか。

その境界は、あまりにも曖昧だった。


第2章 再開


教室の天井が、ぼんやりと白くにじんでいる。

耳に届くのは、蛍光灯のかすかな音や、遠くで鳴く雀の声。

窓から流れ込む風が、ほんのりと初夏の匂いを運んできた。

「夢、なのか?」

だが、目の前に広がっている光景は、夢にしてはリアルすぎる。

俺はゆっくりと周りを見渡す。硬い椅子の感触。机の横には黒い学生鞄がかかっている。

さっきまで俺は、自宅のソファに座っていたはずだ。ゲームを終えて、少しだけ目を閉じた。それだけだったのに。

そのとき、俺の名前を呼ぶ声がした。

「ソウタ、ぼーっとしてどうしたの?」

不意に声をかけてきたのは、ショートボブの女の子。
先ほどのテレビゲーム、《メモリアル・コード》のヒロインの内の一人、カナだった。

「えっと……カナ?」

「どうしたの?授業、終わったよ?もしかしてー、夏バテ?」

「……いや、ちょっと寝不足でさ」

カナはクスクスと笑う。

「またゲームやってたんでしょ?」

「まぁ、そんなところ」

俺は曖昧に笑って誤魔化した。

もしかして、ここは……

そのときだった。突然辺りの時間が止まったかのような感覚に襲われ、その後、教室の隅、誰も見ていない方向から、淡い光とともにひとりの人物が現れた。

「ようこそ、プレイヤー」

現れた銀髪の人物は、教室の空気に溶け込むように立っていた。性別は判然としない。滑らかで中性的な顔立ちに、明るく澄んだ声。どこか機械めいた無機質さと、人の温もりをあわせ持つような、よく分からない不思議な存在。

「ナギ、なのか?」

「その名で呼ぶのは初めてだね、ソウタ」

ナギ。ゲーム内のサポートキャラクター。ゲームの中では名前とメッセージウィンドウにしかでてこなかった。

だが、説明書には確かにナギの紹介のページに、目の前にいる銀髪の人物のようなイラストが書いてあり、進行の手助けをする存在だとも書いてあった、ような気がする。

「君のゲームクリアに向けて全力でサポートするよ!」

「ゲームクリア?」

「うん!ちなみに、僕の姿はソウタにしか見えないし、声も直接頭の中に語りかけているから安心してね。それと、ソウタも声に出さなくても僕とは会話できるよ。じゃあ、また!」

そう言い残すと、ナギは淡い光とともに目の前から消えてしまった。

「サポートキャラクターのはずなのに。もっとちゃんと説明してくれよ」

独りごちたが、ナギの姿はもうなかった。

気づけば、止まっていた周囲の時間が静かに動き出していた。

それにしても、この世界は夢にしてはリアルすぎる。だとすると、やはりこれは、先程までプレイしていたゲームである《メモリアル・コード》の世界に入り込んでいるのだろうか?

「まさか、な。でも、もし本当にそうだとしたら、ゲームクリアを目指してみるのも悪くないか」

今は、深く考えるより、まずはこの世界を楽しんでみるのも悪くない。

そんな風に、自分に言い聞かせるようにして立ち上がった。

近くにいたカナが、こちらを振り返って、にこりと微笑む。その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。


昼休みのチャイムが鳴った。

カナはいつも来ているかのように俺の席にやってきて、少し得意げな顔でこちらに弁当箱を差し出す。

「今日は頑張ったんだから!開けてみて!」

カナに言われるままに蓋を開けると、見た目にも可愛らしいおかずがぎっしり詰まっていた。タコさんウインナー、卵焼き、ハンバーグ。

「本当にこれ、全部カナが?」

「信じてないでしょ?まあ、ちょっとだけ、お母さんに手伝ってもらったけど。ほんとにちょっとだけよ!」

そう言って、にこっと笑う。その笑顔は、どこか完成されたヒロイン像に近く、絵に描いたように整いすぎているようにも感じる。

俺はふと、手元の弁当に目をやる。半信半疑のまま、試しに卵焼きを食べてみる。ふわっとした甘さと、優しい味が、じんわりと舌に残った。

……味がする。しかも、やけにリアルに。

ふと視線を上げると、カナと目が合った。

「へへっ、美味しいでしょ?」

少し得意げに、でもどこか照れたように笑う。その顔が、なんだか妙に可愛かった。


「今日は、ちょっと寄り道しない?」

何度かのイベントを終えたある日の昼休み、カナがささやくようにそう言った。

放課後。

川沿いの公園。蝉の声は遠く、風が吹き抜けるたびに木漏れ日が揺れる。

カナは水飲み場で手を濡らし、俺の方を見ながら言った。

「小さい頃、ここで遊んだことある気がするんだよね。」

「カナが?」

「ううん、ソウタが。私じゃないけど、誰かがっていうか……あれ、変なこと言ってる?」

カナは頬を染めて、くすりと笑った。

俺はふと、手すりのついた古びた滑り台に目を向けた。

ここで、泣いていた誰かを助けた、ような。でも、顔がぼやけていて思い出せない。

いや、そんなはずはない。ここはゲームの世界のはずなのに。

ほんのわずかな痛みが、こめかみの奥で静かに脈打ったような気がした。

「ねえ、ソウタ」

カナがそっと手を重ねてくる。柔らかな指先が、そっと俺の手の甲に触れる。

「私を、ちゃんと選んでくれて、うれしい」

その言葉に、俺の中で何かが揺れ動いた気がした。

何か根拠があるわけではないが、カナの言っている選ぶという行為が、ただのゲームの分岐で済むはずがないような、そんな気がしてきた。

選ぶって、なんだ?本当に、それだけでいいのか?

疑問は消えない。目の前にいるカナのことは、嫌いじゃない。むしろ魅力的だ。でも、なぜか、何かが足りないと感じる自分がいる。

「ソウタ」

カナが小さく呼ぶ声に、胸が波打つ。

その瞬間、ぼんやりとウィンドウが浮かんだ。

【カナの手を握り返して告白】

【黙って微笑む】

「さあ、選んで。……君のゲームクリアを目指して」

どこからともなく、ナギの落ち着いた声が頭の奥に響く。その声にはかすかな焦りのようなものが混ざっているようにも聞こえた。

俺は息をのんで、浮かび上がった選択肢を見つめる。

本当にこれでいいのか?でも、今は……

意を決して、俺は選択をし、カナの手を握り返した。

指先に、わずかな緊張と体温が伝わる。カナは目を丸くして、すぐに優しく微笑んだ。

「ソウタ?」

風が、木々を揺らしていた。夕暮れの公園。オレンジ色の光が、二人を柔らかく包みこむ。

「カナ……」

言葉が喉の奥でつかえる。けれど、画面のどこにもスキップのボタンはなかった。これは、俺が選んだルート。

「俺、ずっと、カナのこと、気になってた。一緒に過ごしていくうちに、どんどん惹かれていって」

カナは黙って俺を見つめていた。瞳の奥が、光を吸い込むように揺れる。

俺は続けた。

「気づいたら、他の誰かじゃなくて、カナのことを、見てた。これが、恋かどうか、正直、まだ自信があるわけじゃないけど、それでも……」

握った手に、少しだけ力を込める。

「好きだよ、カナ」

一瞬の沈黙。カナの目が、ふっと潤んだ。

「……バカ」

彼女は笑いながら、そっと俺の胸に額を預けた。確かな温もりを感じる。

なのに、どうしてだろう。

その微笑みの奥に、どこか既視感のようなものが、にじんでいた。

川沿いの並木道。手をつないだまま歩く二人。

「これからも、ずっと一緒だよね」

カナの言葉が、風に混ざって消えていく。

完璧なハッピーエンド。だが俺の胸は、どこか空っぽだった。

これで本当に、終わりなのか?

自問の途中で、視界が急に揺らぐ。

直後、まぶたが強烈に重たくなった。

あれ……また、眠く……

意識が沈んでいく。体の輪郭がぼやけ、足元から重力がなくなっていくような、ふわふわした感覚。手を握るカナの温もりすら、ゆっくりと溶けていく。

「ソウタ? 大丈夫?」

カナの声が遠ざかっていく。

重さに耐えきれず、目を閉じると、まぶたの裏に白い光が広がる。

そして……

気がつくと、俺はまた教室の席に座っていた。

どういうことだ?
さっきまで、カナといたはずじゃ……

胸に残るぬくもり。
指先に残る手の感触。

確かに、そこにいた。
声を聞いた。名前を呼ばれた。

なのに、それら全てが、まるで水泡のように、消えていく。

俺は、夢を見ていたのか?

それとも、ゲームの中にいたのか?

それとも……まだ、夢の中、なのか?

わからない。わからないけど、何かがおかしい。

教室のざわめきが遠ざかっていく。

頭の奥に沈んでいった疑問だけが、くすぶり続けていた。


第3章 回帰


ナギの声が、どこからともなく響いた。

俺にしか聞こえない、妙に明るい声。

「おはよう!ソウタ。前回の選択は違ったみたいだね。今回も頑張ろう」

その言葉に、胸の奥がかすかにざわついた。

間違い?頑張って選んだはずなのに。

「どういうことだ?」

「ソウタはゲームクリアのために頑張るんだよ。本当に選びたいものに辿りつくまで、物語は終わらないよ。僕は、そのために君をサポートするよ!」

ナギの言葉の意味は、正直まだうまく飲み込めなかった。

だが、その口調は、どこか、優しさを含んでいるように感じた。

「カナを選んだけど、結局ここに戻ってきた。もしここが、あのゲームの世界なら、次は……」

言いかけた俺の脳裏に、選択肢のウィンドウが現れる。そこには、一人の少女の名前が浮かんでいた。

【ミナミ】

名前を口にした瞬間、教室の景色がゆらりと変化し、次の場面が読み込まれる。

静かな図書室。誰もいない放課後の空間に、紙のページをめくる乾いた音だけが響いていた。そこで、彼女はひとり、椅子に腰かけていた。

ミナミは分厚い本を胸に抱えたまま、そっとこちらを見上げた。

つややかな黒い三つ編みが、するりと肩に落ち、眼鏡の奥の瞳は驚いたように見開かれている。

「あの、ソウタくん?」

静かな声だった。彼女の丁寧な語り口が、図書室の静けさに溶けていく。

「ここ、来るの初めて、ですよね?」

「うん。なんとなく、来てみたくなって」

自分でも不思議に思いながらそう答えた。

少しずつ、この世界に順応しているように感じた。

ミナミはそっと笑って、隣の席を指差した。

「もしよかったら、隣、どうぞ」

本棚に囲まれた静かな空間で、俺はミナミの隣に腰を下ろした。古い紙とインクの匂いがほんのり混ざっていて、深呼吸するだけで気持ちが落ち着く。

ミナミは黙ったまま、開いた本に視線を落としている。ページをめくるたび、指先をそっと確かめるようにして、湿り気を整えてから次の一枚に触れる。

控えめな眼鏡の奥で瞳が静かに揺れている。飾り気はないのに、不思議と視線が惹きつけられる。制服の袖からのぞく白い手首や、落ち着いた仕草が、そのまま彼女という存在を物語っていた。

「猫、好きですか?」

突拍子もない質問に、俺は瞬きをする。

「猫? うん、好きだよ」

「よかったです!実は、学校の裏で、こっそり面倒を見てる子がいまして」

そう言って、ミナミは本を閉じた。そこに栞代わりに挟まっていた、折りたたまれた紙がふわりと落ちる。そこには、一匹の茶トラ猫の写真が貼られていた。

「名前は、あずき、って言うんです」

その名前を聞いた瞬間、胸にザワザワとした感覚が広がった。

あずき……どこかで、聞いたことがある。

いや、それだけじゃない。見たことも、触れたこともある、気がする。

あの柔らかな毛並み。小さく丸まった体。雨に濡れて震えて……いた?

なんで、そんな場面が思い浮かぶんだ?

考えようとしたわけじゃない。ただ名前を聞いただけなのに、映像のように細かく浮かんでくる。脳がそれを知っているみたいに、勝手に思い出していく。

俺は、そんな記憶を持っていたか?いや、違う。そんな場面、ゲームの中にはなかった。

知らないはずの記憶を、懐かしいと感じている自分に、戸惑っていた。

不意に、頭の奥がズキンと痛んだ。

俺は反射的にこめかみに手をあてた。

ミナミは俺のそんな異変に気づかないまま、猫の話を続けていた。その言葉の一つひとつが、妙に機械的に聞こえる気がする。感情の重みが感じられないような。彼女の笑顔は、まるであらかじめ用意された画像のように、崩れずに張り付いているように見える。

「その子、たまに学校の裏に来るんです。もし、よかったら、一緒に見に行きませんか?」

一瞬ためらったが、頭痛を振り払うように立ち上がった。

「うん、行ってみよう」

この先に何かがある。そう確信した俺は歩みを速めた。


学校の裏に出ると、日差しがやや斜めから差し込み、ブロック塀の影が長く伸びていた。

足元の雑草の間をすり抜けるように、小さな影が駆け抜ける。

「いました」

ミナミがしゃがみ込むと、草むらの奥から、一匹の猫が現れた。淡い茶色の毛並み、くりっとした瞳。どこか誇らしげに尻尾を立て、ミナミの手にすり寄った。

その姿を見た瞬間、思わず目を見張った。

「かわいいですよね、この子。初めて会ったときは、ちょっと怖がっていましたけど、今は、すぐに近づいてきてくれます」

ミナミの言葉は遠くに響いた。脳裏に、鈍い痛みが走る。


視界の端に、光がちらつく。誰かの叫び声。

傘も差さずに泣いている少女の姿。抱きかかえた猫のぬくもりと、ずぶ濡れになった自分の手。


「……!」

頭を抱え、膝をつく。世界がぐらりと揺れ、音が歪む。

「ソウタくん?」

ミナミが心配そうに声をかけてくる。しかし、その顔がぼやけて見えない。

「少し、頭が……」

その瞬間、世界の色がほんの一瞬だけ、白黒に反転した。

それは一瞬の幻だったのかもしれない。だが、この世界とは別の、奇妙な感触があったような気がした。


「ごめん、保健室行ってくる」

俺はそう告げて立ち上がった。ミナミが何かを言いかけたが、言葉は途中で止まった。

まるで電源を落とされた人形のように、ミナミの表情が一瞬で無に帰した。

ナギの声が脳裏に響く。

「警告。閾値に到達しており不安定です。自動制御を開始します」

「ナギ?」

普段のナギからは想像もつかない、抑揚のない、機械的な声が響いた。

その内容は意味不明で、俺の頭の中は混乱で埋め尽くされた。

【教室に戻る】
【屋上に行く】

すぐに視界に選択肢ウィンドウが浮かぶ。

だが、どちらを選ぼうとしたわけでもないのに、選択肢の一つが勝手に強調表示され実行される。

「勝手に、動いてる?」

立ち尽くす俺の脳に、激しい頭痛が走る。ぎりぎりと、頭の中を何かが削り取っていくような痛み。その奥で、誰かの声が。

『ありがとう、助けてくれて……』

雨の中、微かに震える声。あたたかな体温と泣いている少女。
映像の断片のようなものが、脳の中に直接流れ込んでくる。

これは……誰かの記憶?

ふと前を見ると、ミナミの姿はもうなかった。

代わりに、彼女が読んでいた一冊の本が、静かに床に落ちていた。

そっと拾い上げて開くと、最初のページに手書きの文字があった。

『ソウタ。思い出して――』

心臓が、小さく跳ねるような感覚。

次のページをめくる前に、視界がじわりと滲み、耳の奥で音が歪んだ。

意識が沈み込む。

そして、闇に呑まれた。


第4章 記憶


「ねえ、ソウタ。そんなとこで突っ立って、ユウナのこと、待ってたの?」

自分のことをユウナと呼ぶ少女が、日焼けした肌を惜しげもなくさらし、茶髪のポニーテールを揺らしながら、こちらに向かって歩いてくる。

ほどよく締まったウエストから、豊かな胸元へと視線が誘導されていくのは、まるで計算され尽くした演出のようだった。

「ふふ、もしかして照れてる?」

ユウナは笑顔で近づいてくると、さりげなく俺の腕に自分の身体を預けてきた。

すべすべとした肌の感触、甘い香り。鼓動が重なる距離で、彼女はいたずらっぽく笑う。

「ねえ、今日ヒマ?もしそうならさ、どっか寄ってかない?二人きりで」

誘惑の言葉が、耳の奥に柔らかく響く。

まるで恋愛ゲームの理想のヒロインが、完璧なルートをなぞっているかのような状況。

誰もが惹かれるような明るさと、屈託のなさ、魅力的な姿。

けれど、それを見ている自分の心は、どこか冷えているような気がした。


そんな思考の海に沈んでいた俺の耳に、ユウナの声が飛び込んできた。

「もう!ちゃんと話聞いてるー?」

「……ごめん。なんて言ってた?」

ユウナは頬を膨らませて、ちょっとだけ眉を吊り上げる。

「やっぱり聞いてなかったんだ。公園!行こって言ってたの!」

「公園?」

「うん。今の季節、すっごく気持ちいいの。風も緑も最高!ね、行こ?」

そう言って、ユウナは俺の腕を引いた。


腕を引かれるままに歩きながら、俺はさらに頭の奥で、もやのかかった記憶を必死に手繰り寄せようとしていた。

それは、あの時、脳の中に直接流れ込んできた記憶のこと。

雨。震える声。
あたたかな体温。
そして、泣いている少女。

あれは何だったんだ?夢?フラッシュバック?

それとも、もしかして俺の記憶の一部だったのか?

そして、ミナミが落としていった本のことも、頭から離れなかった。

『ソウタ。思い出して――』

走り書きされた文字。

どこかで見た筆跡だった。懐かしくて、優しくて、胸が締めつけられるような。

でも、誰のものだったのか、どうしても思い出せない。

「ねえ、聞いてる?もうすぐ公園だよ!」

ユウナの声が弾む。明るくて、眩しい。けれどその響きの中に、どこか引っかかる間があった。

録音された声を再生しているような、わずかな遅れと違和感。

なのに俺は、その不自然ささえも後回しにして、頭の奥にこびりついた謎にとらわれていた。

まるで、誰かが俺に、強引に何かを思い出させようとしているかのように。


そのときだった。

プァーーーーン、と、遠くから鋭いクラクションのような音が響いた。

俺はハッとして顔を上げた。

次の瞬間。

「ソウタ、危ないっ!」

ユウナの腕に突き飛ばされるようにして、俺の身体は後方へと倒れ込んだ。

衝撃音が鳴り響いた。

そして、しばしの静寂。

体を起こすと、ユウナは目の前に倒れていた。
制服の白いシャツが、じわじわと赤色に染まっていく。

「ユウナ……おい、ユウナ!」

声が震える。
身体も震えている。
ユウナはかすかに目を開けた。

「よかった……ソウタ……無事で……」

ユウナが絞り出すように言った。
その頬を、涙がひとすじ、静かに流れていく。

その瞬間、激しい頭痛に襲われた。

それと同時に、大切なものを思い出しそうな気がした。

この涙を、俺は、知っている。

視界の端に、別の風景が重なる。


夜の街。柔らかな街灯の下。並んで歩く二つの影。

手のぬくもり。確かな鼓動。

『ねえ、実は、話したいことがあるの』

少し緊張したような声。振り向いた笑顔。

直後、弾けるような衝撃音と、倒れる人影。


頭の奥に、鋭く冷たい痛みが走る。

記憶が無理やりこじ開けられるような感覚。

視界が揺れて、世界の輪郭が溶け出す。

「なんなんだよ、これは!俺に、何をさせたいんだ!」

何かが浮かびかけているのに、肝心の何かが分からない。

胸の奥に、いくつもの小さな痛みが消えずに残っていた。

そのとき、耳の奥で冷たい声が響いた。

「状況を確認。感情値、上昇中。干渉レベル、閾値を超過しました」

ナギだ。その声は、またしても無機質で、感情の起伏もない。まるで警告音のように、淡々と告げる。

「安全性を優先。プログラム再構築を実行します。」

「ナギ!…お前、何を……!」

呼びかけに応じるように、ほんの一瞬、声色が揺らいだ。

「ソウタ……ごめんね……いまは……これが最適……だか……」

ノイズ混じりのその言葉が、最後まで届くことはなかった。

その直後、視界の端がふっと暗くなる。

身体が重くなり、頭の奥がぐらりと揺れた。


段々と意識が鮮明になってくる。

扇風機が低くうなる音が聞こえてきた。その風が、窓辺のカーテンを微かに揺らす音も、徐々に耳に届いてくる。

もう、考えなくても分かる。

また、教室に戻ってきたんだ。


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